日本の装甲車両の限界、機動力編
日本で量産された装甲車の平均時速は40㎞だが、出力重量比を見ると
九二 13.9 ガソリン(以下G)
九三 不明 G
九四 10.1 G
九七 13.7 ディーゼル
となる。
九二式重装甲車は額面では75馬力だが、実際は45馬力だった。
履帯は高速に向かないが足回りにも問題があったのか加速も遅く、33年の熱河作戦では不整地にも拘わらずトラックに追従出来ずにいる。
安全性や燃費からディーゼルの方が良いが、1923年にベンツが完成させたトラック用ディーゼルエンジンは45馬力と出力不足。
26年に三井がMAN社と船舶用ディーゼルで技術提携を行ったが陸に拡大する動きはなかった。
32年にはMAN社が陸用ディーゼルとしては当時世界最高の160馬力のエンジンを開発しているが、重量は不明。
同年に三菱が直噴ディーゼルエンジンを開発し、陸軍が上陸用舟艇エンジンとして採用したが陸軍運輸部に居た統制型エンジンの産みの親、伊藤正男氏がその整備に苦労している。
石川島(現いすゞ)がディーゼル開発に動くのは九二式重装甲車の生産が軌道に乗った後の33年7月。
伊藤氏が石川島に入社したのが同年12月。
ディーゼル開発に携わったのは翌年7月である。
伊藤氏入社後の石川島はMANエンジンをコピーしたが馬力が落ちた為失敗。
シリンダーヘッドに問題があったのだが、MAN社は接合が焼き嵌めだったので整備面からネジ止めにしたかった開発陣はこれ以上の研究を断念。
ダイムラーの予燃焼室式が次に性能が良かったのでその複製に挑み成功した。
石川島でディーゼル開発がスタートした34年にポーランドが重量300㎏、ザウラーエンジンを92馬力から110馬力に強化した液冷ディーゼルを生産しているが、九四式には間に合わない。
九四式のエンジン重量は不明だが、同年に採用された八九式中戦車乙型は三菱製の6気筒120馬力、650㎏のディーゼルエンジンを搭載していたので、史実では九四式軽装甲車に載っていた35馬力しか出ないエンジンはくろがねに転用。
重量増加を忍んでも燃費の良い八九式中戦車のエンジンを4気筒に減らし載せ換え……と書きたかったが焼き付きに悩まされたので没。
砲兵科所属の九四式四t牽引車(3.55t)に搭載された重量46.8㎏、定格71馬力、最大91馬力のガソリンエンジンに換えた方が良かった。
何故重装甲車(3.228t)より重く(3.45t)砲弾薬の牽引も行う車両を牽引車の半分以下のエンジンで動かそうとするのか……。
装甲車は騎兵科、牽引車は砲兵科とセクショナリズムが強いのは判るが割を食うのは現場である。
話をディーゼルに戻す。
34年に出揃った国産ディーゼルの中では三菱エンジンは優秀なのだが、搭載した八九式中戦車がほぼ同じ大きさのチハより発展性がなく、装甲車に同系列エンジンが搭載されなかった時点で大きさに問題があった事が判る。
後年の九七式装甲車や九四式六輪自動貨車乙型に搭載された池貝の渦流式蓄熱ディーゼル(65馬力、450㎏)よりエンジン重量辺りの出力は上なのだが……。
36年に空冷、37年に水冷と連続して石川島の予燃焼室式エンジンが陸軍に採用され、38年に三菱他に公開して39年以降の統制型エンジンに発展する。
原型の36年製エンジンを手直しすれば統制型エンジンがチハやテケに載る。
ただ37年の伊藤氏率いる開発チームは水冷式エンジンの他は陸軍からの依頼で、
・3月に乗用車用エンジンの開発
・4月に6t牽引車用エンジンの開発
を開始(共に期限は12月)と多忙を極めており、日中戦争が勃発して設計陣も兵隊として召集され開発が滞るという理解し難い状況だったので試作車が9月に完成するテケに統制型エンジンを載せる余裕はない。
陸軍が乗用車や牽引車の開発ではなく共通化を依頼し、徴兵を止めてくれれば良かったのだが。
九七式軽装甲車の場合、史実の池貝ディーゼルを統制型の原型に換装すれば80馬力に上がり50㎏減らせる。
だがそうはならなかった。
この年に独が重量55㎏、158馬力のディーゼルエンジンを製作しているが、技術的に不可能だけども同盟締結前にコピー出来ていたらチヘやチヌが軽快に動いただろうに実に残念である。




