馬と車両と軽砲と
今では信じられないが、ヤンマーが耕耘機を国産化した1931年当時、国産車の年間生産台数がやっと600台を超えた。
こんな様では開戦までに本格的な機械化は無理だが、せめて四輪車や三輪トラックより価格の安い耕耘機を増産してもらって機械化した方が……と書きたかったが、現実は非情。
耕耘機の保有統計が取られるのは1919年からで、当時6台。
1920年から1937年まで耕耘機の全国の保有台数は9台から537台に過ぎなかったが、翌38年は1240台と倍以上に膨れ上がり45年には7620台に伸びた。
戦後、農業機械化促進法が53年に制定され、55年には8万台、67年には300万台に達した。
現代では乗用型の価格は100〜350万。
乗用車の2/3程度。
戦前の価格だと470円相当で馬より高い。
海軍と世論は農家に同情的なので機械化促進法を20年前倒しして成立させなければ難しいが、2.26事件は起こらないかもしれない。
以前と重複するが駄馬1頭牽引時の積載量210㎏、時速4.5㎞。
1930年代のトラクターは空荷不整地8km/hと2輪牽引時のリヤカーや砲兵トラクターより遅い。
軽砲牽引のメリットは無い。
参考資料
PDF 戦前期日本農業機械工業の市場構造
日本のディーゼルエンジンの基礎を築いた設計者、伊藤正男
報文
参考サイト
ジープ
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU4/jeep5.htm
wiki
耕転機、農業機械化促進法、M116、M1943




