Da 47/32と日独の対戦車砲
Da 47/32はオーストリアのベーラー社が1920年代後半に開発した兵器で、第二次世界大戦に於いて主にイタリアが用いた歩兵砲である。
32口径の47㍉砲で、ソミュアS35の主砲と同じ性能を持ち、防盾はないが重量は原型砲で277㎏。
39年には高速牽引可能なようにサスペンションを追加し、材料を鋼鉄からマグネシウム合金に換え軽量化した物が登場。
これも防盾は無く、重量は280㎏。
貫徹力は
100 500 1000 1500m
0° 52 43 35 29㍉
だった。
これはソ連の19−K(木製車輪414㎏、ゴムタイヤに換装後425㎏)や53−K(560㎏、共に46口径45㍉砲)と近距離以遠は同じで榴弾威力と至近距離の貫徹力(ソ連砲は51㍉)で勝り、遠距離精度で劣っていた。
何故長々とオーストリアの歩兵砲の性能について述べたかというと、独が28年に、日本が34年に制式化した37㍉砲より軽く高威力な為。
木製車輪の3.7cm Tak28L/45は310㎏、ゴムタイヤのPak36は328㎏。
九四式速射砲は327㎏、空挺用のらく式砲は300㎏未満。
貫徹力は
100 500 1000 1500
Tak28/Pak36 39 33.5 25.4 22
九四式徹甲弾 35 28 20 17
一式徹甲弾 52 41 31 23
一式速射砲 58 46 34 26
である。
九四式速射砲はタングステン弾が試作され、200mで53㍉の貫徹力を持つが配備されなかった。
ドイツとオーストリア間の関税同盟からオーストリア併合に発展する筈が仏の妨害で遅れた為、欧州で不況が拡大しナチスドイツの台頭を招き、再軍備前にベーラー砲を採用出来なかった。
もし仏の妨害がなければ独の対戦車能力は強化され、不要になった37㍉砲により大陸で日本の損害が増え、連合国もマチルダⅠ、ⅡとKV1、2を除けば苦戦しただろう※1。
妨害された独は兎も角、日本が九四式速射砲の代わりに採用出来なかったのは不思議だ。
ベーラー社が自主開発していた頃、オーストリア駐在武官として山下奉文が27〜30年まで着任していた。
30年から32年まで近衛歩兵第三連隊長として栄転している頃、31年に各戦車への射撃試験を行った技術本部は、歩兵が運用する従来の37㍉砲では対戦車能力に劣ると判断。
榴弾についても威力半径が口径が倍近い九二式歩兵砲以下の為榴弾の製造を停止している。
翌32年に山下は軍事課長へ転任。
軍事課は予算が管轄で、歩兵課、騎兵課等各兵科と同格、兵器の配備数等を折衝するのだが、33年に歩兵が運用する対戦車砲として37㍉砲の新規開発を決定。
要求性能は発射速度30発/分、300㎏以下、1000mで20㍉装甲を貫徹し破片が車内に被害を及ぼし得る事。
とされていた。
ベーラー砲の開発が27年以降なら山下が存在を知らぬ筈はないから、本部は前任者からの報告を受けた上で37㍉砲の強化開発に動いたのだろう(前任者不明)
37㍉砲の威力不足は参謀本部も既に認識しており、防盾を欠いているとはいえ軽く徹甲弾、榴弾威力共に37㍉に勝る47㍉砲をこの時点で採用していれば、マチルダを除き戦車に苦戦しなかった。
尚九四式速射砲の防盾重量は13㎏なので付けても293㎏で済む。
どうせ日本の国力では一式機動砲※2への完全更新は開戦前には不可能なので、九四式の代わりにベーラー砲が採用されなかった事は極めて残念である。
尚一式機動47㍉砲の原型砲は53.5口径、567㎏。
口径を0.25延ばし機動砲に改修後は800㎏に増えているが、増加率を九二式歩兵砲(204㎏)に適応すると287㎏となりベーラー砲と共通化が可能。
※1……シャールB1の装甲厚は60㍉だが、鋳鋼だった為強度は額面の80%以下しかなかった。
※2……38年3月に輓馬牽引が前提の砲、翌39年10月には車両による牽引が可能な試作砲が完成しているので、開戦を控えていなければノモンハンには間に合い、40年には制式化出来たと思われる。
参考文献
間に合わなかった兵器
参考サイト
アジア歴史資料センター
山下奉文
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamashita_tmyk.html
wiki
Da 47/32、Pak36、九四式37㍉速射砲、一式速射砲、アンシュルス、一式機動四十七㍉速射砲、19−K、53−K。




