発明の前倒しのIF
銀輪部隊……史実では1941年に現地の自転車を略奪した部隊だが、まず自転車の歴史を見てみよう。
日本で自転車が輸入されるのは幕末からで、現代に繋がる安全型自転車の国産化されるのは1890年。
この頃はロバートトムソンの事績は忘れ去られ、英国のダンロップがより実用的な空気入りタイヤを再発明し、アルバート・ポープは同地で自転車製造を学び米国に帰国。
90年代に組み立てライン方式で自転車を大量生産、特許も押さえ自転車の帝王と呼ばれた。
品質管理システム自体は幕末から輸出品の生糸やお茶を対象に導入されていたので、対象の範囲拡大と共に大量生産方式を追加すれば日本でも日清戦争前に一定品質の自転車、発想の転換が必要だが製作難易度が自転車並みのリヤカーも量産出来たのである。
鉄は86年に釜石製鉄所が稼働していたし、ゴムは陸軍が銃のガス漏れ防止用Oリングとして調達していた。
ただ、日露戦争時にフォードやキャタピラを投入するより明らかに地味。
この頃の車両はタイヤにカーボンブラックを添加していない為、高価でパンクしやすかった。
尚日本で原料加工から包装まで自社で完結一貫生産させた最古の企業は花王で1902年、大量生産システムを取り入れたのはブリジストンで1908年の事である。
飛行機
二宮忠八が進言した頃の国内外の状況を見ると、前年の1894年に世界最古の自動車レースが仏で開催され、後に計算機や飛行機を開発する矢頭良一が大阪で勉強を始めている(当時16歳)
忠八は戦時中衛生兵で戦後は製薬会社に勤めていたが、矢頭良一は身体が弱く31才の若さで肋膜炎を起こし死去。
もし96年頃から共同研究していたら飛行安定性の問題も修正され、矢頭氏も早死にせず世界初飛行の栄誉に与っていたかもしれない。
TV
日本のTVの父、高柳健次郎は東工大を1922年に卒業。
恩師、中村幸之助の「十年後、二十年後に役立つ物を作れ」
という言葉に影響を受けて研究テーマを模索中、購読していた科学雑誌に掲載されていたテレビジョン開発論文を読み関東大震災直前にTV開発を決意。
被災後地元浜松に戻ると開校したばかりの浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)に着任、TV開発を開始。
八木宇田アンテナ等周辺技術と統合運用する構想の持ち主が居ればTV放送も早まっていただろう。
尚戦前の同校は28~30年に城憲三※1が数学を教え、37~39年には本田宗一郎が聴講していた。
モペッド
自転車に補助エンジンを取り付けた物。
ホンダが1947年に開発したA型は一年毎にB、Cと改良され最終型のFは最盛期月産7千台をマーク。
58年に登場するホンダ・カブの原型となる。
原型のエンジンは35年に軍の無線用発電機として開発され、本田宗一郎氏はノモンハン事件を終え後送された戦車を修理している。
巡り合わせが良ければA型は10年前に誕生し、米英独には及ばないにせよ軍の機械化も成っていたのである。
ガソリンの消費量は増えるがシンガポールは史実より早く陥落したかもしれない。
※1……日本にコンピューターを紹介し後の興隆を予見した人物。 コンピューターパイオニアの一人。
参考文献
マンガで読むロングセラー商品誕生物語、読むクスリ
参考サイト
高柳健次郎
https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/stories/kenjiro-takayanagi
本田宗一郎
https://www.honda.co.jp/50years-history/limitlessdreams/encounter/index.html