発明の評価前倒し~日本編~
和泉要助
1868年、鈴木徳次郎、高山幸介らと共に人力車を発明。
人力車が特許制度が整備される前に普及した為、後述の臥雲辰致と共に経済的利益を享受出来なかった。
臥雲辰致
1873年に紡績機ガラ紡を発明。
発明が保護されなかった為に、ガラ紡を改造したコピー製品の氾濫と、均質に編める洋式紡績機の普及により開発資金を回収出来なかった。
尚発明品の見学の為トヨタグループ創業者、豊田佐吉が東京に出向き、彼に紡績と特許関連で影響を与えている。
屋井先蔵
1887年に独のカール・ガスナーに次いで世界で二番目に乾電池を発明。
しかし、
・特許取得料が高額で用意している間に先を越された
・市場が育っていなかった
・乾電池が出来る訳がないという周囲の無理解
・価値を理解した外国人に自分が発明したと主張される
等の理由で日清戦争で軍から大量の注文が入るまで赤貧に苦しむ事に。
戦後は電池王と称された。
商標登録は江戸時代から行われていたが、特許制度の不備に苦しんだ人々であった。
二宮忠八
日清戦争直後、軍に飛行機開発を進言するも消極的で、資金を集めている間にホワイトヘッドやライト兄弟に先を越され機体を破壊。
後世の復元によれば水平、垂直尾翼がない為安定した飛行は出来なかったとされる。
鈴木梅太郎
1910年に米糠からビタミンB1をオリザニンと命名、抽出、発見した人物として知られる。
脚気を防ぐ栄養素と銘打って発表したが、伝染病説を採る日本医学界から非難された上に、翻訳時に新しい栄養素であると言う一文が訳されなかった為国外に知られず、単体分離に成功するのが31年と遅かった不遇の人。
翌11年に治療薬として販売したが用いられるようになったのは1919年以降。
尚単体分離は難しいようで、ビタミンCの単離は1932年、ペニシリンも1940年に再発見された当初は多くの成分を含んでいた。
八木秀次
1925年、指導していた宇田新太郎と共に八木宇田アンテナを開発、発表。
海外では英米が評価、活用したが日本で認められるのは1942年になってからだった。
代田稔。
乳酸菌ヤクルト・カゼイ・シロタ株の発見、培養に成功した人物。
1930年にシロタ株を発見したが直ぐにスポンサーが現れず、商品化は35年にずれ込んだ。
西澤潤一
赤色LEDの改良、緑LEDの発明等半導体関係の特許保持数世界最多。
1957年4月に日本で半導体レーザーの特許を取ったが米国でも取らなかった為同年11月に出願した後発のグールドに取られる。
1964年、光ファイバーの屈折率を外側に向うにつれて低下させる事で光を収束、長距離通信を可能にする特許を出願したが書類作成を専門家に依頼せず提出した為中々理解されず、後発のチャールズ・カオに抜かれた上に先に製品化もされた。
日本の特許庁は類似性を認識していたが黙殺。
小堀保三郎
1963年に現在主流の火薬式エアバッグの特許を取ったが奇抜かつ当時の消防法に抵触する為採用するメーカーは現れず、生活苦の為夫婦共々自殺してしまった。
世界に普及するのは死後の事である。
参考文献
マンガでわかるロングセラー商品開発物語、間に合わなかった兵器、海軍技術研究所
参考サイト
屋井先蔵
https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/ijin/1271581_38939.html
https://www.baj.or.jp/battery/history/history01.html
以下wiki
和泉要助、人力車、ガラ紡、屋井先蔵、二宮忠八、鈴木梅太郎、八木宇田アンテナ、西澤潤一、光ファイバー、小堀保三郎。