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宗春、田沼時代の技術基盤

 徳川宗春(1696~1764)は、尾張徳川家第7代目当主である。


 1731年から尾張藩主として活動し、1733年に庶民の娯楽の為からくり職人の玉屋庄兵衛(初代、生没年不詳)を招き、1735年には吉宗から貰った高麗人参の栽培を開始する等技術や珍しい物に理解と興味、関心があった。


 同時期に行われた享保の改革で西洋の技術書の輸入が緩和され、それに伴って西洋由来の奢侈品や技術に関心を持つ蘭癖大名も出現するが毛色が異なる。


 宗春が尾張藩主になる頃には世界初の自転車、陸船車(享保14年、1729年完成)、竹田式陸船車(翌1730年完成)新製陸舟車(1732年完成)等が登場していた。


 だがチートを突っ込もうにも1732年にウンカが原因で発生する享保の大飢饉に対処せねばならず、オマケに尾張藩は彼の代に財政赤字に陥った為、家臣と幕府が結託して1739年に蟄居させられてしまった。


 基礎技術はあったがまずは上記問題を解決せねばならない。


 この頃の欧州は、


 1704年、ザクセンでマイセン磁器試作。


 1709年、ダービー1世がコークス製造に成功。


 1710年マイセン量産化


 1712年、英国でニューコメン式蒸気機関発明。


 1735年、ダービー2世がコークス量産化。


 1736年、ゴムの利用方法が欧州に紹介される。


 1747年、ドイツで甜菜からショ糖抽出。


(商業化は1802年)


 1748年、英国でボーンチャイナの試作。


 1769年、キュニョーの砲車、ワットの蒸気機関発明。


 ……等、技術面で東アジアに追い付き追い越しつつあった時代である。


 田沼時代(1764~1786年)開始時に意次は既に平賀源内と接触していた(1761年に認知)


 1770年代から東北や関東では不作が続き、1772年に明和大火が発生。


 1780年に源内が獄死、1782年から天明の大飢饉(~1788)が発生。


 1783年には岩木山と浅間山の噴火が起き、火山灰による川床の上昇により水害が続発。


 翌1784年には息子の意知が暗殺され、1786年には意次を重用してきた家治が脚気衝心で死去した事がトドメとなり田沼時代が終焉を迎えた訳だが、各種チートを実行するなら期間が長い田沼時代の方が良い。


 源内は1764年に秩父鉱山を開発。


 石綿、鉄を発見し、たたら製鉄で鉄を精錬したものの人件費等で赤字になり失敗した。


 人件費以外にも建材需要の大きい百万人都市の江戸近郊で木炭を大量に消費するたたら製鉄を行えば赤字にもなるだろう。


 尚、塩原太助(1743~1816)が独立し炭団を発明するのは源内没後の1782年である。


 太助の独立を早め蒸気機関と共に東京炭鉱も開発せねばならない。


 鉱山開発や1771年に焼物を製作した源内なら耐火材に知見が有り、蒸気機関にも関心を示すだろう。


 彼は1776年に6年かけてエレキテルを修理しているが当時の日本は銅や蒔絵を輸出しており、吉宗の代にケーブル被覆材となるグッタペルカを樹液中に含んだ杜仲を輸入、栽培しているので電気、通信の知識を持つ人物が現地の漆、蒔絵職人と協力すれば理論上は電信の敷設も可能。


 源内は高松藩時代薬草園関係の役職に就いていたが、その知識が活かせるかどうか不明。


 源内の本草学の師で朝鮮人参、甘藷、木綿の栽培、サトウキビからの製糖法に長じた田村藍水(1718~1776)に杜仲栽培を投げるのは年齢的に厳しいので、彼の弟子でツンベルクからリンネの植物学を学んで解体新書の翻訳にも携わった中川淳庵(1739~1786)に杜仲や甜菜の栽培、事業化を委託した方が良さそうである。


 初期の電信はボルタ電池で稼働したので電源は問題無い。


 源内はエレキテルを原理も分からないまま修復した為、電気関係は日本の電気学の祖である橋本宗吉(1763~1836)に任せる方が無難かもしれない。


 白熱電球は最低でも1865年に製作される水銀を充填したスプレンゲルポンプが必要だが、源内が1765年にガラス管にアルコールを充填した寒暖計を作っていたし、水銀を封じたからくり人形も宝暦・明和年間(1751~1772)には存在している。


 先の宗吉の他、1795年の改暦に関与しからくり職人としても名高い細川頼直(1741~1796)と接触、確保出来れば電気関係は主人公が関与せずともよかろう。


 電球が出来ればひよこ電球による保温や下部からの照明で有精卵、無精卵の選別も楽になり、養鶏コストが下がる。


 スプレンゲルポンプでX線を放射するクルックス管も作れるので化学的知識と写真技術も有ればX線写真も可能。


 源内や淳庵と交流していた杉田玄白(1733~1817)ら蘭学グループ以外の偉人は、浮田幸吉(1757~1847)が鳥人間騒動を起こすのが1785年と時期が遅い上に飢饉の最中で、谷田部(現茨城、つくば)の名主飯塚伊賀七(1762~1836)が発明を開始するのは40代。


 享保の大飢饉以降関東に甘藷栽培が広まっていたが、天明の飢饉と風水害もあって発明どころでは無かった。


 近隣に住む伊能忠敬も打撃を受けている。


 飢饉対策はそもそも冷害で米が育たず、品種改良を待っていられないので牡丹キャベツの食用化、東北地方はじゃがいも、関東圏は甘藷だけでなくかぼちゃ栽培も奨励する位しか思い浮かばない。


 伊賀七が落ち着いた頃には当時日本最高の望遠鏡を製作した国友一貫斎(1778~1840)とも交流出来るが、その頃には暗殺を阻止した意知の代に移り変わっている(意次は1788年没)


 転生、転移者を放り込むなら大火の傷が癒え、電気関係を現地の偉人達に委託可能な1770年代後半からが無難か。


 参考文献……江戸の科学者達


 参考サイト


 段返り人形

 http://okatsuji.ac.jp/sagano/room1/karakuri3.html


 wiki


 享保の大飢饉、徳川宗春、玉屋庄兵衛、からくり、陸船車、新製陸舟車、江戸の大火、天明の大飢饉、真空ポンプ、スプレンゲルポンプ、クルックス管、X線 写真他

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