日本陸軍の情報収集能力と機械化対応
サイパン陥落後の一九四四年七月、本土決戦を見据えて日本陸軍はチヘを筆頭に既に開発済みの戦車の生産を開始すると共に、新規開発中の各種対戦車車両の開発を加速した。
今回問題視するのは四式十五㌢自走砲、通称ホロである。
同車は上記年月に独の十五㌢自走歩兵砲各種を参考に開発され、翌八月に試作車とHEAT弾が完成、
十二月に米潜や空襲で戦力を減らしつつフィリピンに派遣されM4戦車と交戦したが、技術的、情報的に同車の開発、配備は丸三年前倒し可能だった。
三年前の一九四一年七月に山下奉文中将を団長とする陸軍遣独使節団が欧州から帰朝。
機械化推進を訴えていた。
使節団が独仏伊白等に滞在していた頃、独が保有していたホロに対応する自走砲はⅠ号十五㌢自走重歩兵砲しか制式化、対仏作戦で使用されていなかったが、日中戦争の際上海に構築されたゼークトライン突破時に直射支援砲兵を欠いた為参加兵力の六割、四万人の死傷者を出し、ノモンハン事件の際第二十三師団付属の輓馬砲兵が質量に勝る敵砲兵からの砲撃により人馬を問わず死傷していた日本陸軍にとっては砲の機動化、機械化は焦眉の急だった。
日本に対しHEAT弾の売り込みがあったのは1937年。
現物が入ってくるのは四二年五月。
三八式十五㌢榴弾砲を開戦時までにチハに車載し機動化、フィリピンに派遣する事はタイムスケジュール的に可能だった。
四一式山砲でもM3軽戦車を撃破出来た事からホロの適度な装甲と過分とも言える十五㌢榴弾砲の火力があればより少ない損害で勝利する事が出来、四四年以降の戦いでも活躍しただろう。
開戦劈頭は魚雷不足で米潜の活動が大戦後半程活発ではなく、制空権はこちらにあるので損耗する事無く最前線まで派遣出来、史実以上の支援砲撃を行う事が出来たのだが……。
物はあったが陸軍の対応が変温動物並みに遅い上に認識、判断能力に問題がある事が全ての元凶である。
機械化や戦車開発に関して特にその傾向が強く、56口径75㍉砲を搭載する全備重量32tのチトを製造し、完成こそしなかったが40tに達する55口径105㍉砲を装備するホリを開発していたにも拘らず、自衛隊時代にも61式戦車開発時に50口径90㍉砲搭載は兎も角車重25tを主張する等影響は戦後まで続いた。




