1930年の技術の卵と貧乏と発想
1930年の日本でフェライト、ヤクルト、マグネシウム回収技術が開発された。
開発者周辺に商才がある人物が即座に現れなかった事や、不況に冷害、三陸大津波や室戸台風等によりどれも企業化は1935年にずれ込んでいる。
フェライトはパラメトロンの概念があれば点接触型のゲルマニウムトランジスタを凌ぐ性能の計算機が1936年までに稼働可能であった。
史実ではパラメトロンの概念は1954年に発表され、1960年に完成したPC−2(1962年時点で販売価格6千万円)の性能は加減算毎秒6250回と、米国が大戦中に完成させる事が出来なかったENIAC(加減算毎秒5千回、49万ドル)より25%速い計算機をENIACの2割強の予算で造る事が出来た。
冷戦期に米空軍が運用したSAGE(防空システム)より低性能だが、コンセプトを流用したSABRE(座席予約システム)をベースに国鉄が開発したマルス(1959年に稼働した座席予約システム)の為輸入したBendix G-15(ノイマンの部下が1956年に米国で販売した真空管コンピュータ−。加算速度毎秒3704回)より高性能でもある。
バトルオブブリテンより高度な防空システムや1950年代末に稼働する列車の予約システムを1930年代後半には構築可能な為、パラメトロンの概念がなかった事は個人的には八木宇田アンテナの流出と無関心並みに惜しい事である。
フェライト磁石としても日本最大のバリウム鉱山である小樽松倉鉱山が1932年に開山する為、バリウムフェライトの製造知識があれば1952年にオランダのフィリップスが開発するバリウムフェライトは勿論、開発環境の近代化が前提だが1980年に開発されるバリウムフェライトも視野に入る。
フィリップスの技術者はバリウムフェライト発明前に来日し、フェライト発明者の加藤与五郎博士にバリウムフェライトの可能性について相談、アドバイスを貰っていた。
加藤博士は『バリウムが怪しい』と睨んだが後塵を拝する事になってしまった。
フェライト磁石は−20℃を下回ると起電力を失う為、航空機や寒さが厳しい地域の屋外では使えないが、52年、80年それぞれの磁力は1934年に開発される新KS鋼の1.9倍、2.5倍である。
ニッケルやコバルトを使わずモーターを小型化出来る為安く電化可能で、浮いたニッケルを低性能に泣いた点火プラグに充当出来たかもしれない。
ヤクルトについてだが、第一次世界大戦後に独から賠償としてハーバーボッシュ法関連設備以外に醸造学、細菌学、医学関連設備を取得するか、代田本人か京大医学部に三井系の大日本麦酒(醸造学を学ぶ為1900年代に独に技術者を派遣、宣伝に医者を利用)と伝手があった場合、史実より早くシロタ株の同定が早まった可能性が高い。
東大医学部が最高峰とされていたので難しいが……。
乳牛に呑ませれば乳量が1割増えるカウマグネットも安価なバリウムフェライト磁石の普及を背景に30年代に導入されていれば33年に試験導入、34年には拡大している筈で、カルピスやヤクルトの価格が史実より下がり5才以下の幼児死亡率も低下したかもしれない。
志願兵の年齢下限は17歳の為、大戦後半の兵の質低下を補う事も可能だった。
マグネシウムはダクタイル鋳鉄だけでなく発展型で自動車のターボに用いられたハイシリコンダクタイル鋳鉄を実用化、可能ならターボからステンレスを置き換えたい。
ダクタイル鋳鉄が水道管として量産されるのが1954年。
エンジンに用いられるのは50年代中盤だが、丁度61式戦車を開発している頃である。
統制型エンジン240PS/1.2tから61式戦車に正式採用された三菱の12気筒ディーゼルエンジン650PS/2.2t(冷却ファンや換気用に一部を吸われ570PS)に近いエンジンを戦時中に開発可能だったのだ。
国鉄が戦前に設計し戦争による中断を挟んで戦後に投入したDMH17のようにインジェクター(燃料噴射装置。日本は国産化出来ず独のボッシュをコピー。戦前の物より過給器無しで出力が20%向上した)の改良が反映されている為、それを割り引いて7.37%軽量化可能。
明治期の細菌培地の寒天の利用可能性や、白熱電球フィラメントの竹等もそうだが、日本は技術の種、卵を自分で育てる能力も見抜く能力も無いとは言わないが乏しいのではないだろうか。
こういう事象が国力の差に繋がるのだろう。
参考サイト
クボタ
https://www.kubota.co.jp/innovation/evolution/pipesystem/detail/detail.html
pixv DMH17
wiki
61式戦車、DMH17
皆貧乏が悪いのか。




