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マニラ・ガレオン貿易と新大陸の産物

 マニラ・ガレオン貿易は1565年にスペインが開いたフィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ航路である。


 主に中国の陶磁器や絹織物とメキシコ産の銀を載せて片道4~6ヶ月かけて行き来した。


 嵐で難破するのは1568年マニラ発の便が最初である。


 1580年代に日本の諸大名が参入。


 1593年まで年間3隻が両港を出港。


 それ以降は2隻に減った。


 ザビエルを始めイエズス会が九州に拠点を持っている為言葉の壁は少ない。


 この航路を利用すれば新大陸産のとうもろこしやさつまいも等各種農産物を2年以内、1560年代に入手可能(かぼちゃは1541年に豊後に伝来済み)


 ジャガイモは腐敗しやすいがマンガンを添加したソーダ灰ガラス(草木灰、珪砂、石灰)でウォードの箱を作れば持ち帰る事が出来る。


 この頃には既に火薬を国産化しているだろうが、プラチナも輸入出来ればオストワルト法で硝酸をより効率的に作れる。


 アンモニアがネックだが1kg程度の精錬済みのプラチナがあれば400人と馬50頭が詰め、し尿が回収しやすい出城(おがくずや米糠を投入したバイオトイレでアンモニア揮発を抑え固定化)でアンモニアを回収、塩化ナトリウムの融点(801℃)や亜鉛の沸点(907℃)でオストワルト法の反応温度帯(800℃以上)を維持。


 反応促進の為希硫酸を投入すれば上記拠点人数で毎日約5.2kg、年間1.9tの硝石を製造出来る。


 堺や国友を抑えた織田と十年に渡る抗争を繰り広げた本願寺を支えたのは、培養法で硝石を生産した五箇山の働きがあった。


 同地は硝石が質量共に日本最良であり、培養法成立後の1637年に1260貫(4.725t)を生産している。


 幕末期には20tを超え、1865年に最大39tを記録。


 ちょっとしたプラチナと千人が籠もる城一つで織田や本願寺クラスが消費する硝石を賄えるのは大きい。


 参考サイト


 オストワルト法と触媒


 https://rikeilabo.com/ostwald-method


 PDF


 五箇山の塩硝史 -


 最高品質・最高生産量・最長期生産


 wiki マニラ・ガレオン貿易、硝石

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