日中戦争と各種火砲と編成
日中戦争初期に旧日本軍は中国国民党軍から、輓馬牽引が前提のPak29(310kg)
自動車牽引可能なPak35/36(328kg)
四式高射砲のサンプルになったボフォースのM1929 75㍉高射砲(戦闘時3300kg、牽引時4200kg)等を鹵獲。
放列車重量3355kgの四式高射砲は九八式六屯牽引車使用時45km/hで牽引出来たという。
四式高射砲と重量が近く、開発当初から自動車牽引が考慮された十四年式十㌢加農砲(射程15.3km、放列車重量3115kg、九二式五屯牽引車使用時の牽引速度16km/h、生産数70門)も上記火砲群を参考に改修すれば時速40km/h以上で牽引可能だった。
ただ後継の九二式十加(射程18.2km、放列車重量3760kg)が存在する為、野砲の機動化を進めていたが師団数増加に伴い軍砲兵に格上げされた旧式砲を高速化する意味はなかったのかもしれない。
ソリッドゴムタイヤとサスペンションを着けた九六式十五㌢榴弾砲(11.9km、4140kg)の牽引速度は24km/h。
高速化の為か九六式十五榴の砲架に九二式十加の砲身を搭載する試験も実施されている。
ソリッドゴムタイヤだった黎明期の自動車は時速30km/hで長時間走行すると熱が籠もり、黒煙を吐いたというからアジアの気候で24km/hは妥当。
空気入りゴムタイヤでも速度に変化が無いので牽引車の能力上限はそんな物かもしれない。
時速40km/h以上で機動可能な火砲は上記の高射砲を除けば九〇式野砲(射程14km、1600kg)、九一式十榴(10.8km、1750kg)、一式47㍉機動砲(6.9km、800kg)位である。
日本陸軍は米独を見習って75㍉野山砲、105㍉榴弾砲から105㍉、150㍉榴弾砲に改編途中で対米戦に突入している。
ドクトリンに馴染まないが加農砲も榴弾は撃てるし射程も長く、榴弾砲より重いが牽引車より軽いので架橋資材を補強する必要も無い。
航空機と艦船に資材を取られた戦時中なら兎も角、ノモンハン事件後に再建する際、値は張るが履帯式牽引車にもう少し金を掛ければ長射程で機動可能な火砲が増えたのだが……。
尚、陸軍は以前も同じような失敗をしており、1929年に採用した八九式十五㌢加農を採用直後に砲脚を閉脚式から開脚式に改修、満州事変に投入していたのだが、当時は砲身と砲床の二車分割だった。
結合に2時間を費やしていたが、1940年に砲も砲床も丸ごと一両で牽引出来るように改修された物が登場。
八九式中戦車をベースにした九五式十三屯牽引車で牽引されている。
話は更に飛び、大正時代に製作された履帯式国産車第一号は牽引車である。
モータリゼーション以前で開発年度も異なり、車両は手作りに近く、八九式中戦車は満州事変時に四両しか戦力化されていない為、牽引車と共に単車牽引可能な重砲の投入は間に合わなくても戦訓を反映した開発は可能で、日中戦争時には戦力化出来たのである。