幕末でも造れる(かもしれない)結核治療薬
題名に(かもしれない)と付けたのは筆者に化学系知識が無いので自信が持てないのと、北里大学の監修を受けた『JIN−仁−』でも出来なかった為。
体系的に学ばずつまみ食いの為以下の内容は陰謀論レベルだが、取り上げるのは1912年に合成されたイソニアジドである。
ただ結核菌は上記薬に対し耐性を得やすい為、単体では殆ど使われていない。
イソニアジドの合成にはヒドラジン、エタノール、イソニコチン酸が必要。
ヒドラジンはアンモニア水溶液に塩素ガスを加える事で製造出来、イソニコチン酸はメチルピリジンを酸化させれば造れる。
メチルピリジンはコールタール中に0.2%含まれ、1846年に英国で単離に成功した。
日英間の条約は1854年の日英和親条約が最古。
確実に入手する為にはクリミア戦争が終わりセポイの大反乱が起きるまでの間が最速だが、コールタールに希硫酸を掛けるとメチルピリジンを回収可能。
日本にコークス炉が出来るのは明治時代だが前倒ししよう。
結核は感染後数カ月〜2年以内に80%が発病する為高杉晋作(1839〜1867)や沖田総司(1842〜1868)を結核で死なせずに済むかもしれない。
※新選組の1865年の診断記録に労咳患者一名と記録が残っている。
メチルピリジンはアンモニアとアクロレインから合成可能だが、アンモニアは肥料やヒドラジン製造と競合し、アクロレインは物を燃やせば生成するが吸い込むと咳と胸焼けのような症状を起こし、直接触ると火傷する刺激臭を放つ物質である。
アンモニア、塩素、ヒドラジンの防護対策も大変なのに抱え込む訳にはいかない。
コークス炉やコールタールの処理は重工業系に任せよう。
パラアミノサリチル酸製造はどこまで前倒し出来るか……。
サリチル酸の単離は1838年、工業生産開始は1885年。
アセチルサリチル酸は4気圧以上の圧力が出せる蒸気機関が登場する1830年代に製造可能な事は以前述べた。
だがパラアミノサリチル酸は合成に100気圧、125℃の環境が必要とあるのでハーバー・ボッシュ法を行えるレベルにならなければ厳しい。
日本でその状態が産業レベルで維持出来るようになったのは1924年以降である。
参考サイト
メチルピリジン
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B4%E3%82%8A%E3%81%98%E3%82%93-3166326#goog_rewarded
wiki
ヒドラジン、イソニコチン酸、メチルピリジン、アクロレイン
他