自滅した陸海軍の愚策
1933年、日産と日本GMの間で提携合併の話が持ち上がった。
ユーザーの間ではフォードやシボレーのトラックが好評で、商工省も組立以外にも技術が得られると賛同しているにも拘らず陸軍上層部は低品質高価格な純国産にこだわり、統制経済を目指す岸信介と手を組み潰している。
34年に68馬力(HP)、車重3400kg、積載量が路上2500kg、路外1500kgの九四式六輪自動貨車が採用されたが、民間に広まっていた油圧ブレーキではなく、故障率は従来の国産車と外車の中間程度であった。
片手スパナで整備出来、商工省認定車との互換性もある等整備面では進んでいたが日本軍の車両で油圧式ブレーキになるのは37年からである。
36年1月にGMとの提携がポシャり、日産は経営不振に喘いでいたグラハムページ社から設計図から生産設備まで丸々一式購入。
翌年に日産80型トラックとして生産を開始したがボンネットではなくバンのようなセミキャブオーバーの為車両感覚が掴み辛く、運転手と前輪の距離が近かったので地雷による死傷率も高かった。
80型は最盛期には月産3千台を記録したが、上記の欠点により早々と後継の180型にバトンタッチしている。
戦時中の日本のバス、トラック年間生産台数は42年の34786台がピーク。
GMと提携が成り船の現在位置を定時報告させる馬鹿げた指令が無ければ、史実程船が沈まず鋼材を造船以外に回す事が出来、同じくGMと提携した独のオペル社製トラック、オペル・ブリッツ(6気筒68馬力(PS)、路外積載量1500kg)のように敗戦までに最低10万台は造れたのだが……。
ブリッツは37年にエンジンをシボレー系の75馬力(PS)に強化。
45年以降に登場したモデルは73.5馬力(PS)に落ちたが路上積載量は3305kg、総重量5800kgの為37年のモデルも同程度と思われる。
路外では積載量が6割に減るので2000kg程度。
日本ではいすゞが提携していた英ウーズレーの75馬力(HP)エンジンを32年に国産化していたが品質はお粗末で、トラックは39年以降にディーゼル化の為85馬力(HP)の統制型に更新されている。
ウーズレーとの競争を考え75馬力、2t積みトラックを1934年に生産出来れば九〇式野砲(1600kg)や九一式十㌢榴弾砲(1750kg)を早期に機動化出来たのだが……。
陸軍と革新官僚が合併を潰さず、海軍が無線封止を民間にも拡大していれば電力がネックだが史実程生産力は落ちなかっただろう。
「3人で押さえると発進できない」と評された九四式軽装甲車35馬力(HP)にも採用されていれば機動力と整備性は向上し調達価格は下がった。
九四式六輪自動貨車の整備性と原乙未生の統制型エンジン制定及びチハの発展性を除き、陸軍の車両開発の不味さは利敵行為と言っても過言ではない。
参考サイト
年間生産台数
https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/another_win/unu_jpe6_d7_p171_h03.html
wiki
オペル・ブリッツ
他