私の聞き間違いでしょうか?
「エイミー、俺と君との婚約はなかったことにしよう」
「そうね。殿下。それがいいわ」
二人の声音はあまりにも和やかだった。
穏やかな初夏の日差し。
青い空はどこまでも澄みきっていて、庭のバラが咲き誇っている。
美しい中庭でのお茶会に用意されたお茶菓子は、さすが公爵家のものだけあって上質だ。
甘いけれど少しもしつこくないクリームと、サクサクのパイが重なり合ったミルフィーユ。異なる食感の組み合わせが何とも言えない至福である。
その美味しさに心奪われていた私、フィリア・カルニスは、交わされた会話をそのまま聞き流しかけた。
「ええっ!」
ようやくにその言葉の意味を理解した私は、貴族子女にあるまじき驚きの声をあげた。
そして、目の前の高貴なカップルを見る。
男性の方は、皇太子アルバート・ランデール。漆黒の髪、こげ茶色の瞳に、意志の強そうな眉。通った鼻筋。少し強面ではあるが、驚いた私に向ける表情は穏やかで柔らかい。
彼の対面に座っているのは、公爵令嬢のエイミー・デリンド。長く美しい金髪で、碧い瞳。お人形さんのような長いまつ毛だ。豊満な胸にびっくりするほど細い腰。やや釣り目ではあるけれど、絵に描いたような美女である。
「あら。どうしたの? フィリア」
エイミーが大声をあげた私にむかって、優しく微笑む。
この二人──皇太子のアルバートが九歳、公女のエイミーが七歳からだから、もう十年も婚約している仲だ。
政治的な婚約には違いないけれど、本当にお似合いの眼福なカップルで、熱愛という雰囲気こそないものの、長年連れ添った熟年カップルのような落ち着いた雰囲気がある。
見ているだけで幸せになれる──私の推しカップルだ。
私は辺境伯の娘で、エイミーの一つ上の十八歳。ここ数年はエイミーの『相談役』という名の取り巻きをしている。こうして二人の逢瀬に付き合うのも初めてではない。
ちなみに私の他に同席しているのは、エイミーの義理の弟にあたるジニアス。
ライトブラウンの髪で緑色の瞳の美形だ。彼の表情に変化は見られない。ジニアスは弟とはいえエイミーと同じ十七歳。いずれ皇族に嫁ぐエイミーの代わりに、公爵家を継がせるために遠縁の子を引き取ったと聞いている。
それにしても。
三人とも穏やかで、動揺しているのは私だけ。
「どうしたって、えっと……」
ひょっとして、私の聞き違いだったのだろうか?
婚約を解消するって聞こえたのだけれど。
「お二人とも、先ほどはご冗談をおっしゃったのでしょうか?」
私は恐る恐る尋ねる。
美しい二人のカップルに間にある空気はどこまでも穏やかで、別離の話をしているようには見えない。
「冗談って、何のこと?」
エイミーが不思議そうな顔をする。
「あ、いえ、きっと私の聞き間違いですね」
私は慌てて首を振った。
二人は誰もが羨むベストカップル。加えて政治的な意味合いも大きな婚約である。
こんな茶飲みついでに、さらさらと解消してしまっていい関係ではないはずだ。
「ミルフィーユに気をとられて、勘違いをしてしまったようです。申し訳ございません」
私は謝罪する。
公爵家の料理人が作ったミルフィーユは美味しい。ただ、ミルフィーユって、パイがポロポロ落ちてしまいそうで、上品に食べるにはものすごく注意を払わないといけない。
ちょっと、意識を集中しすぎたのかも。うん。きっとそうだ。
「フィリアは甘いものが好きだよな」
アルバートが微笑する。目がとっても優しくてドキリとした。
私は思わず俯く。美形の笑みの破壊力は相変わらずすごい。
仕えるべき主人の婚約者に心奪われるなんて許されることではないけれど、なんというか、美形の微笑みって、ほぼ凶器だと思う。勝手に心臓をつかんでいくのだから。
とはいえ、越えてはいけないラインを越えるつもりは毛頭ない。私はエイミーの相談役というこの役目が何より大切なのだ。
「フィリアが気に入ってくれて嬉しいわ。ジムも喜んでいるはずよ」
エイミーも嬉しそうな顔だ。ジムというのは公爵家お抱えの料理人の名である。
ああ、いつもと同じだ。私はほっと胸をなでおろした。
私に与えられた『相談役』は、エイミーの個人的な悩みを聞くことはもちろん、ちょっとした護衛であり、エイミーの立場で想定されるもろもろのトラブルから守ることが仕事である。
我がカルニス家は、代々国境を任されている家で、国内きっての武闘派である。幼き頃から辺境の魔物を狩るように育てられた。私も幼少期より剣の腕を磨き、魔術を学んできた。もちろん、貴族子女としての作法も学んでないわけではない。
「公爵家のスイーツも美味いが、宮廷料理人のスイーツも絶品だぞ? 食べに来ないか?」
「それは、えっと。さすがに父に叱られますので」
せっかくのお誘いだけれど、首を振る。
私はお菓子が大好きだ。
宮廷料理人のスイーツは食べてみたいとは思う。でも、幼い子供ではないのだから、お菓子が食べたいという理由で宮殿に行ったと厳格な父に知られたら、激怒されるのは目に見えている。
「だったら内緒にしておけばいい。俺に会いにくれば、いつでもフィリアの好きなだけ用意させるぞ?」
アルバートは、冗談とも本気とも言えない表情だ。
すごく魅力的だけれど。
食欲に釣られてはダメだ。
私はエイミーの相談役だから、こうして皇太子と親しくさせていただいている。けれど、それはエイミーがいるからこそ許されているのだ。
父のことがなくても。
これでも私はまだ未婚。
この国では珍しい赤い髪をしていることを除いては凡庸な容姿で、アルバートから見れば恋愛対象外なのも理解している。
おそらく友好を深める意味で誘ってくれているのだろうけれど。
さすがに世間体が悪すぎる。
「アルバート殿下、たぶんそれでは、一生伝わりませんよ」
ジニアスが呆れたようにため息をつく。
「何のことでしょうか?」
ジニアスの言葉の意味が分からなくて、私は首を傾げた。
「ほらね」
ジニアスは何故か肩をすくめる。
何故だろう。エイミーとジニアスが、私とアルバートをとても残念なものを見る目で、見ているように感じるのは。
意味がさっぱり分からない。
「ところで。殿下は、どういった形で発表なさるのが良いとお考えでしょうか?」
コホンと、エイミーが一つ咳払いをした。
話がどんどん進んでいく。どうやらミルフィーユに夢中で、私だけ話を聞いていなかった可能性がある。完全に置いて行かれていて、今さら『何がどうしたのか』と聞けない雰囲気だ。
「できるだけ円満にいければいいのだが」
「多少のことなら、私が被ってもよろしいですよ」
エイミーが微笑む。どこか楽しそうな笑みだ。
「方法はあります」
ジニアスはアルバートの方を見た。
「間もなくベリテタ王国の使節団が我が帝国にやってきますよね? 接待役は殿下のお役目と伺っております」
「そうだな」
ベリテタ王国は、我がランデール帝国の隣国である。豊富な資源を持つ国で、大切な貿易国だ。
「どうでしょう? 使節の接待役の補佐役として、カルニス嬢を任命なさっては?」
「え? 私?」
突然、自分の名前が出てきて、私はびっくりした。
「はい。カルニス嬢は、ベリテタ語も堪能ですよね?」
「それは……そうですが」
私の母はベリテタ王国出身だ。だから人より知っている方だとは思う。それに領地は、国境線に近いため、ベリテタ王国の人間との交流も多い。
「カルニス辺境伯と奥方は王国でも有名な魔龍退治の英雄。その娘であるカルニス嬢が補佐となれば、きっと喜ばれるでしょう」
私の両親は両国共通の国境にあるリンデルの森に出た魔龍を共闘で倒したことをきっかけに、恋に落ちた。
二人の英雄の婚姻は、我が国でも、ベリテタ王国でもかなり話題になったカップルだったと聞いている。
「それはそうね。いいと思うわ。さすがジニアスね」
エイミーが手を叩くと、ジニアスははにかむように口元を隠した。
「でも、普通は」
「そうだな。使える人間は多い方がいいし、カルニス家の名に親近感を持つものは多いだろう」
アルバートが頷く。
「えっと、でも」
皇太子の補佐は普通、側近と皇太子の婚約者のはずだ。
私はその婚約者の側近ではあるけれど、皇太子直接の部下ではない。
「義姉さんもベリテタ語は使えなくはないけれど、ベリテタ王国の赤の魔術師と呼ばれた人の娘であるカルニス嬢の知名度にはかなわないよ」
「私の指示で手伝っているってことにすればいいわ。私は裏方に徹するから」
「それは……何かが違う気がいたします」
表に出て接待するだけが仕事ではない。会場のセッティングから、人の手配などを含めて仕事はいくらでもあるのは事実だけれど、表に出るのはやはり婚約者であるエイミーであるべきだと思う。
「フィリア、俺を助けてくれ。頼む」
アルバートが私を真っすぐに見つめる。そんなに真剣に見つめられると、脈が速くなってくるからやめてほしい。
皇太子に乞われれば臣下として従うことに異論はない。けれど、何かが違うという気持ちがぬぐえない。
「承知しました」
それなのに向けられる熱い視線に頬が熱くなってきて、思わず頷いてしまった。
「では決まりだ。早速明日、打ち合わせをしたいから、宮殿に顔を出すように」
「明日?」
「大丈夫よ。私も一緒に行ってあげるから……最初はね」
いたずらっぽくエイミーが笑う。
「とびきり美味しいお菓子を用意させておこう」
アルバートが楽しげにウインクをする。
「はい」
宮廷料理人のお菓子はとても楽しみではある……けれども。
どうしてそんな話になったのか、さっぱりわからなかった。