3 『停止の午後』
鳥か獣かも分からない鳴き声が、ひっきりなしに響く。
緑と茶のみの色彩が景色を支配する。
起伏の激しく、小石の散乱する地面は、一矢纏わぬ私の両足をコトあるごとに刺激してくる。
靴とか落ちてたらいいんだけどなあ……。
色々と恵まれている現代日本でも靴は対価の貨幣を支払わないと手に入らないし、そんな都合のいいことはないとわかっているけど。
太陽光は木々に遮られ、光合成の機能は低下し、時間の感覚さえおぼつかなくなる。
本当にテキトーな感覚だけど、もう1時間は歩きっぱなしだ。
このままじゃ元気のなくなる一方。何だか、お腹も空いてきたような気がする。
「ここらで少し、休憩しようかな……」
独り言も自然と出るほど、『疲れ』は私の体に確実に蓄積していた。
乳酸は貯まらないみたいだけど、エネルギーの低下による気だるさは募っている。
少し呼吸も荒くなってきたみたい。
――正直まだ歩けるには歩ける。だけど、無理して倒れてしまったら危険だ。
今のところ幸運にも野生動物に遭遇してないけど、これから会う確率は決して低くない。
肉食動物だけじゃなく、草食動物にも食べられてしまうおそれがある。
「うん、休憩」
私は近くの太い木にもたれかかり、重力に徐々に引かれるように腰を地面にかけた。
……あう、痛い。小石や小枝の食い込む感触だ。
服も落ちてたらいいんだけどなあ。現代日本でも(以下略)。
昨日も今日も朝から暖かかったし、そういう意味では服で暖をとる必要はないと言える。
ただ、全裸なのはちょっと恥ずかしいし、もし誰かに見つかったらすぐに身を隠したい気分。
隠すほど、無い? うん、だって10歳くらいの見た目だもん。そりゃあぺったんこだよ。
あと、下の穴もまるっきりない。
用を足したくなった時どうしようと思ったけど、そういえば便意や尿意を催したことは一度もなかった。
排泄の必要なくなったのかな? そしたら恥ずかしいところ見られる心配ないから嬉しい。
でも植物が老廃物を出さないかといえば、違う気がするんだよなあ。有害物質が溜まったら危ないし、どうやって排出してるんだろう……と思ったけど根っこからか。植物の中の血管みたいな細い管(中学で習ったはずなのに、普通に名前忘れた……)で運搬して、根っこからいらない物質を出しているんだ。
ますます再度根を張る必要があるな。
だけど一度根を張ったらまた引っ込めるときに痛い思いするし、無防備になって危険が増える。
まあでも根を張らないでいると命に関わるだろうし、致し方ないか……。
――待って。根っこを体から出すとき、触手みたいに自由に動かせるとしたら。
引っ込めるとき痛くないように、工夫して根を張れたりしないかな?
とりあえずいつまでも直にお尻を地べたにくっつけてるわけにはいかない。
手のひらを地面に押しつけ、そこから収納されている花の台座を広げるようにして解放する。
寄りかかっていた木に押されるようにして台座は顕現し、私のお気に入りのふかふかの床ができた。
台座や触手はこの少女の体より痛覚が鈍いようで、地面との間に小さく硬いものが数々挟まっているが痛いといった感覚はない。やったね。
それじゃあ、根っこを地面におろしていきましょう。
引っ込めやすいようにできるだけ真っ直ぐ根っこの触手を掘り進めていくと、何だか土の湿り気に対して敏感になっている気がした。
……私、喉が乾いてたのか。
届く光が弱くて地面が乾きにくいから、一昨夜の雨の分が残ってるみたい。
感謝して水分補給しよう。
根っこで水をチューチュー吸ってたりするけど、なんかまだ物足りなさが残る。
うん、やっぱり木漏れ日では光が弱くて満足に光合成できない。
でも光を遮る木々の葉っぱの高さは10メートルどころじゃないから、どうしようもないかな……。
光への渇望とともに上を見上げていると、何か自然とおしべ触手が上に伸びてきた。
あー、確かに木の高さより上に触手を伸ばせば、目一杯日光を受けられるかも。
まだ1日半しか付き合ってない私の植物の体が、そのことを知ってるみたいだ。
だけど、不安が残る。
触手を伸ばして、収納されてる分をどんどん解放していったら、また一気に膨れ上がって暴走しちゃうのでは?
あんな苦しい思いはもうしたくない。
2本だけ――2本だけ伸ばしてみよう。他の触手が出しゃばらないように、慎重に抑えながら。
というわけで私はおしべ型触手を2本真上に伸ばし、木々の上に向けて一直線に進ませる。
2メートル、3メートル、4メートルと触手は順調に伸びていき、難なく大木の身長を越すことができた。
葉っぱの壁を越えたおしべに、暖かい日光が降り注ぐ。
はう……やっぱりこれぐらい光が強くないとね。
そう考えると、あの花畑の環境ってかなり恵まれてたんだなあ。遮蔽物もないし、根付きやすい平らな地面だし、景色が綺麗だし。
それでも私は1箇所にとどまる気はないし、いるなら他の人にも会ってみたいから、こうして森の中を進んでいるわけだけども。
今はひとまず休憩。十分疲れが取れたら、また移動しよう。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
異世界に転生して2度目の疾走。
1度目は開放的な花畑で、歓喜と興奮に満ち溢れたもの。
しかし、2度目の今は障害物の多い森の中、焦燥感と緊迫感に駆られている。
何故かって?
「グルルゥゥゥウウウ……バウッッ!! グラルァアアアアアアッッ!!」
めちゃくちゃデカい狼に追われているから!
漆黒の瞳、黒地に赤いペンキを無造作に塗りたくったような色合いの毛並み、そして爪や牙はサーベルタイガーのものかと思うほど鋭く伸びあがっている。
形からしてすでに地球の狼のそれとは一線を隠すが、本当に恐ろしいのはサイズ。
四足歩行のくせして、背中が私の身長より頭一個分大きいのだ。
それゆえに伸びた犬歯や爪も1メートルあるんじゃないかという長さで、余裕で私を串刺しにできそうなほど。
追いつかれたら死ぬ……!!
再出発してからまた1時間ぐらい進んで、最初に出会った動物は恐怖の肉食動物ではなく、手のひらサイズで可愛らしい白ウサギだった。それでも角が1本生えていたけど。
その後、角が3本あるシカとかムササビとタヌキのハイブリッドとかいろんな小さな動物達と遭遇したけど、みんな私が近づくとすばしっこくて逃げていった。
そうだよね。自分より大きい動物(?)がいたら普通逃げるよね。
つまり草食動物が私を食べるのは休憩して動かないでいる時だけということになる。気をつけよう。
などと考えていた矢先である。
ああ、何でこんな凶暴な猛獣に出くわすの!?
怖い。怖いよ。
2度目の休憩していたら、遠くからぬうっと大きな影が現れて。
大きな獣の影……口と牙に赤黒い血がべっとりついていたのが、何よりも恐ろしい。
それに、よく見たら黒い体毛に僅かな白が付着していた。
捕食された相手について最悪の想像をしてる間に、私に狙いを定めた大狼が迫ってきて……。
恐怖で遅れた。根っこを引っこ抜いて、台座をしまうのが間に合わなかった。
花びらの1つが、鋭い牙の揃った口に食いちぎられたのだ。
いくら痛覚が鈍いと言っても、体が引き裂かれる痛みは、根っこをぶちぶち雑に引っこ抜いた時の比じゃなかった。
熱くて、寒くて、空白が傷を突き刺してるようで――一心不乱に走って気を紛らわせでもしないと、きっと正気じゃいられなかった。
――現在、私と狼はリアル鬼ごっこ中。
小さい体を利かせて狭いところに逃げ込みたいところだけど、生憎そういった洞窟とかは見当たらないし、あの狼の巨体なら強引に入口をこじ開けて入ってきそうだ。
だから、今は終わりの見えない地獄の鬼ごっこだ。
スタミナも有限じゃない。息が切れれば足が止まり、爪と牙が届いてしまう。
私がこうして苦しくなっていても、あちらは血走った眼で巨体を揺らして追ってきて……。
……あれ?
距離が開いてる?
もしかして、あちらも息切れしてるのかも。
でもおかしい、一度は肉を食いちぎられたんだ、追いかけっこが始まった時には2メートルぐらいしか広がってなかったはず。普通は体が大きいほうが俊敏で速いんだ、とっくに追いつかれて全身八つ裂きにされててもおかしくない。
なら、私の方が走りが速いの?
大切な思い出を失った私の記憶でも、私の50メートル走のタイムは速い方ではなかったはずだけど。
転生して植物の体になったら、身体能力上がっていたとか? 何で?
どうでもいいよ今は。速く走れるなら、さっさと距離を稼いで巨大狼の視界から外れないと。
はぁ、はぁ、はぁ。
振り向くな。音で感じろ。ただ只管前に進め。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
――ポタッ、ポタポタッ、ポタポタポタ……
はぁ、はぁあっ、
あめ、雨が……降ってきた……。
また時間の感覚を失い、脇目もふらず走っていたら、いつの間にか青空は雨雲に支配されて、森の中は一層暗くなっていた。
狼は……やった、もう見えないし、足音や唸り声も聞こえない。
音をかき消すには、雨はまだ小雨だしね。
なんとか命の危機は脱したみたい。本当によかった……。
雨が徐々に勢いを増してくる。
雨粒が衣服の纏わない緑色の体に当たり、体から熱を奪っていくのを感じる。
寒い……本当だったら、台座を展開して、おしべ型触手にくるまりたいところ。
でも、寒い以上に私は怖い。
森の中、いつまたあの狼のような凶暴な肉食動物が現れるかわからない。
今のところは怪しい影は周りに見えないけど……ううん、見えないからこそ、いつどこで襲ってくるかもわからなくて怖いんだ。
早く森を抜けたい。危険な地帯から早く離れたい。
だからまた、私は一直線に走り続ける。
ああ、本当に服が欲しい!
熱が逃げてっちゃう! ベンチコートとか欲しい!
本気で木の根本とかに落ちててほしい!!
願っても手に入らないものは手に入らない。自分ができる精一杯のことで工夫するしかない。
触手使えないかな。寝る時みたいにくるまるんだ。もちろん今は走ってるから上半身だけしか包めないけど。
背中から、ツタ型触手を2本出す。ツタと言っても、その太さは私の細腕より一回り太い。
こう、上手く隙間なく胸や胴に巻きつけて……首元もネックウォーマーみたいにして……。
――うん、結構暖かくなった。
触手の方が感覚鈍いし、少女の体の肌を露出させないことが大事だよね。
それでも、触手の隙間から雨粒が入り込み、私の体温を奪おうとしてくる。
これ以上隙間を縮めるように締め付けると、肺まで締め付けるようで走るのに息苦しくなっちゃう。
だから、このままで行くしかない。
どうか、凍えて動けなくなる前に森を抜けられますように……!
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「はぁ……はぁ……はくちゅっ! ……こほっ、こほこほっ」
さむ、さむさむさむ、寒いっ……。
頭が痛い。ぼーっとする。
鼻水が出て息苦しい。
咳が止まらない。体全体がだるい。
エネルギーが少なくなってきた。
喉の渇きを回避するための水は嫌というほど空から降ってきてるけど、雨雲で遮られた日光は徐々に弱くなっていってる。
日が暮れてきているんだ。
休みたい。寝っ転がって回復したい。
でも怖い。森の中が怖い。
早く抜けたい。
足取りがおぼつかなくなってきた。
一歩大地を踏み締めるたびに、ふくらはぎに重りが入れられてるようだ。
でもこんなところにもう居たくない。
森を……森を抜けないと……
――限界。
もう限界だよ。
もう走れない。歩けもしない。
今までのスピードを頼みにして、惰性で前に進んでるだけだ。
嫌だ……こんなところで動けなくなるのは。
食べられたくないよお……。
……待って。
あれ……遠くに見える何か。
頭が痛くなって、視界も何かはっきりしなくなってきたけど……森の割れ目がある。
あれは何? もしかして道?
少し平らに整備されてて、雑草が少しばかり生えてるだけ。
誰かが作った道なの?
あそこまで……あそこまで行けば、きっと安全地帯。
ううん、あの道を辿れば、きっと森から抜けられる。
人にも会えるかもしれない。
ヒドイことばかりだった私の異世界生活にも、ようやくいいことの前触れが見えた。
頑張れ私……今にも止まりそうな両脚の全力を振り絞って……っ。
後ちょっと……木5本分……。
3本、2本、
いっ……ぽ、ん……。
なんとかバランスを保っていた私の両脚もとうとう崩れ、泥と化した地べたに触手で包んだ体を打ち付ける。
ばしゃりと儚い崩壊の音を聞いて、両脚は完全に機能停止した。
もうちょっと、後1メートルなのにぃ……。
こうなったら、両腕で這いずってでもっ……。
触手のとぐろを解き、両腕を解放する。
身に纏うものは消え、地獄のような寒さが私を襲うが、しばしの辛抱だ。
目標まで、後少しなのだから。
匍匐前進。使い物にならない両脚とともに体を、細い両腕のみに任せる。
頭痛と倦怠感が支配したこの小さい体では、1メートル進むのも簡単じゃない。
簡単じゃないけど、気力を振り絞って前に。
前に。
前に。
前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に……。
……き、た。
辿り、ついた。
冷たい上半身に、土色の道の冷たい水溜りが触れる。
やっと、森を、抜ける、ことが……。
ああ、もう、達成感からか、体が動かない。
寒い。
死んじゃう。
台座……台座……っ。
――ああ、はあ、はう……ふかふか……。
おしべの掛け布団、温かいよお……。
雨――雨がっ、入ってきちゃう、花びら閉じないと……。
……ぁあ、閉じ切らない。
食べられたところが欠けて、雨粒が入っちゃう……。
頭痛いよお……寒いよお……苦しいよお。
……はくちっ! うう……寒いぃ……。
熱出ちゃったのかも……。
苦しい……死んじゃう……、
誰か……、
助けて……。
♫ ♫ ♫ ♫ ♫ ♫ ♫ ♫