え、子供の言うことをマジに取るなよ 錯誤
民法95条の本文では、錯誤とは、表示に対する効果意思がなく、しかも、その意思の不存在につき表意者の認識が欠けていることをいう。
法律行為の錯誤は原則として無効であるが、表意者に重大な過失があれば表意者が無効を主張することができない。
つまり、親族間の口約束でしかなくとも、お互いに同意をし合った経緯があるのならば、寛二郎に対して錯誤を誘導した悪意の表意者である私自身が錯誤に陥っていたからとしても、寛二郎に無効を主張できるわけないのである。
寛二郎は私付きの護衛官を選ぶに当たって、私の思惑を見事に外したのだ。
加藤と加藤と離婚したはずの伊藤が仲睦まじく出社して行ったダイニングに、その代わりにという風に滑り込んできた男が私の今日からの護衛官なのだと自己紹介をした。
彼は真紀と同じ年齢の二十六歳であるが、大学院生の真紀と違って高校を卒業した後に警察に入ったという未成年の補導がお手の物っぽい面倒そうな男だ。
そんな経験豊富な彼は昨年警察を退職し、我が社の小人の巣に中途採用されたばかりなのだそうだ。
そんな経歴だけでもウザイという私の前に壁の様に聳え立った男は、測るまでも無く一八〇は超えている見た目からしてウザイ大男だった。
彼が今時の男の子体型でなく一昔前のがっちり体格だとしても、私が「かんちゃん似」と言ってしまったのだからそこは仕方が無いだろう。
また、真紀と同じ年齢であるところは、私の言った同世代に当たるとして許そう。
何しろ、現役男子高生に車を運転させての護衛など不可能だ。
大体、外見だけで言えば、寛二郎の外見はとても好ましいというか、実は好みだ。
問題は、寛二郎に似た奴かどうか、は、外見的に似ているかではなく、寛二郎のウザイところに似ているかどうか、である。
あれほど口やかましい寛二郎にそっくりな男は避けるだろうと考えての「かんちゃん似の人」と進言したにもかかわらず、現れた男は融通の利かなそうな寛二郎の息子かクローンかドッペルゲンガーなのである。
彼は田神吉保だと自己紹介した後、細々と本日の私のスケジュールを読み上げ、その上、危険行為に関してのくどくどしい注釈までしやがったのだ。
無駄に細かい所までそっくりだ。
もしかして、寛二郎は自分を知らないのだけでなく、自分を大雑把で大らか過ぎる人間だとでも思っているのであろうか。
それならば、なぜあいつはあの時あんなにも「それは駄目だ」と叫んだのであろう。
寛二郎は独身を拗らせての不安定な奴なのかもしれない。
男にだって更年期障害があるというではないか。
真紀は背が高く寛二郎似の男であっても、厳つい顔の男は好みではないらしく、田神に簡単な挨拶をするやコーヒーを入れにキッチンに消えてしまった。
厳つい男と取り残された私は、今日明日と一緒に行動をせざる得ない田神と少しでも親密になるべく話を振ってみた。
誘拐されたら誘拐犯と仲良くしろとは、伊藤の言葉だ。
親近感が湧いた相手には酷い行為を出来なくなるのが人間であり、生存時間が延びることで生還確率が増すとの事だ。
伊藤は海外赴任した社員の安全管理をもしていたからか、物凄く、経験話が重くて怖い。
本人には言えないが。
「わぁ、今日からよろしくお願いします。明日のライブにもご一緒してくださるのですよね。曲をシェアしましょうか?」