履行遅滞なんかじゃないよ
母が搬送された病院までの道中、私を揶揄っていた吉保は、病院の駐車場に車を入れた時には静かになっていた。
私にあからさまな同情ともとれる視線を投げかけてきており、私はその眼つきが嫌で堪らなかった。
「言いたい事があるなら言いなさいよ。」
「ずぶぬれなのに俺は上着も貸してやっていないな。」
「ふふ、ふふふ。」
私は鼻も啜っていた。
だがこれは、間抜けな護衛官が私を濡れネズミにしたままだったからだ。
護衛という契約上の債務を履行しないなんてさ。
いや、これはそれ以上の債務の履行なのか?
「ヨッシー、ばか!言われる前に動いていなさいよ。」
「悪いな。」
運転席の男は背広を脱ぎ、それだけでなくシャツまで脱いだ。
そして彼は自分が脱いだそれらを私に差し出したのだ。
「あんたこそ風邪ひくでしょう?上着だけでいい。」
「俺の上着はお前にはぶかぶかすぎだろ。あるか分かんないお子様のおっぱいを俺は拝みたくはないんでね。」
カッチーンときた私は、ルームミラーにしっかり映ると知っていながら、いや、そのミラーに出来る限り映るようにして上着を大きくはだけさせた。
「うわ!おい!って、お前はどこのSMの女王だ!」
「ビスチェ、って言ってよ。期待したド変態。で、ハイ、ちょうだいその上着。で、あなたはママの状態を斎賀に聞いて来て下さるかしら?」
私が吉保の手から彼の上着を取り上げると、彼は軽く舌打ちをしながら車の外に出て行った。
彼が私に来いと言わないのは、私が母に会ったら母がもっと壊れると知っているからだろう。
あのタイミングの良い救急隊の登場は、彼が全て聞いていたという証拠なのだ。
バタン。
戻って来た?
吉保は上半身だけ車に乗り込ませ、私に怒ったような顔を向けた。
「何?」
「いいから、ここにいろよ。ぜったいに、絶対に車を降りるな。俺というお前の護衛が離れるんだからな!分かっているか?」
「わかっています。はい、宣誓しますよ。」
右手を上げて見せると、彼は不信感丸出しの顔つきだったが、車から上半身を抜き出した。
バン。
車のドアは閉じられ、長身の男は怒ったような足取りで病院の夜間通用口へと向かっていった。
彼が消えてから暗い車の中で数分、あるいは、もう少しだろうか。
一人の時間がとても長く感じて、私は田神を呼び戻すべくベルトのホルダーに手をやった。
「あ、スマートフォンは斎賀に投げたままだった。」
バン!
車のガラスが叩かれた。
「ヨッシー?」
何事かと叩かれた窓を見返せば、そこには真紀がいて車内の私を覗いていた。
私の店のワンピースを着こんだ姿という、亜紀にも見える真紀。
彼女はゴスロリ姿でも、万人に可愛らしく見えるだろう姿だった。
鼻から上だけは。
私が絶対にしない姫メイクできっちりと目元は完璧に作っているくせに、なぜか彼女の口元はピエロのように大きく真っ赤に塗りこめられていたのである。
バン!
母親の口紅を勝手に弄んだ幼児のような真紀が、自我が見えないほどに爛々と輝いている大きな瞳で私を見ている!




