記憶
あのときのおばあさんにありがとうを捧げる。
僕はたまたまそこを通りかかって、そしてふと関心を向けたとき、初めて思い出すことができた。僕は立ち止まらずにはいられなかった。
幼稚園の時、僕はあるおばあさんにお世話になっていた。いつも笑顔で飴玉をくれる優しい人だった。その人をどのように呼んだか。それはよく思い出せないが、母親に聞いたところ幸さんという人だった。
幸さんの家は自宅の近くにあったが、小学校とは真反対の方向であったために卒園後はあまり行くことがなかった。そのため幸さんがいつ亡くなったのかを僕は知らない。ただ郵便受けに増えてゆく郵便物を見れば、亡くなったことはわかった。
今にして思うと幸さんは最後に何を言っていただろうか。僕の中の記憶からは幸さんという人物は消えていなくなっていた。それに気がついてしまったのは、幸さんの家のバルコニーが崩壊したことだった。そのことが近所の目を集めたことは言うまでもない。当然僕もそのことを知っている。ただ僕はそのことをただ平然と見ていたのだ。
そうして家の取り壊しが決定した。外観だけは鮮明に覚えている。植物が絡みついた玄関の扉、のびのびと成長して枝の先がばらばらになった木、雑草が生い茂る庭。すべてが自然に帰ろうとしていた。僕の記憶もそうだったのかもしれない。あの家が幸さんという主を失ったのと同じように、僕の記憶からも幸さんという人を失っていた。
認識というものはどんな人間にも存在する。それが途切れたときから世界に取り残されて失われる。僕も決してないとは言い切れない。友達をろくに作らずに生活して、そのうち会社に就職して、定年し、助けが必要なときに周りに助けを乞うこともできず、誰にも気づかれないまま消えてしまうとしたら――僕はその未来を予想して少しだけ怖くなった。
もし幸さんがあのとき世界から、もしくは周りの人から消えてしまうと感じていたとしたら、僕は何をすべきだったのだろうか。
もう僕は振り返ることがない。そこにある空き地にはもう何もない。そして、失ってしまったものは戻ることはないのだから。でも少しでも幸さんを覚えておくことにしよう、そう思った。
僕は再び歩き始めた。
はじめまして、雪村真月と申します。
文章自体は学校の課題(八百字前後のショートショート作品)で書いたものです。
『記憶』、単純なタイトルと前書きとあらすじで申し訳なく感じています。
しかも文章も単純なのです。ただ、忘れることで観測するものがなくなり、そして存在がなかったように扱われることなんていくらでもあります。
失ってしまってからでは遅いといいますが、失ってから「本当の意味で」失うのを防止するほうがよほど重要なことなのです。
それは失われた人への感謝や弔いになるのだと思います。
雪村真月でした。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。