影を往く
2020
夜が好きだ。自分の顔が見えないから。いや、見たくても見られない、この鏡一枚すらない古びた部屋では。毎月幾ばくの金を大家に支払って、薄汚い部屋という居場所で、私は生きながらえている。それでも光るものがある。それは壁に貼った写真。私はそれを見る度に、今日も歩かなければならぬと背を押される。そして私は今日も歩く。
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2019
「今夜何食べたい?亮介の好きな物作ってあげる。」
「ああ、じゃあハンバーグでよろしく。」
別に好きな訳では無いが、こういった質問にはそう答えると決めている。決して彼女、由美に対して愛情がない訳では無い。幼い頃から孤児院で生活してきた僕にとって、これが精一杯の愛情表現なのだ。
孤児院を出て2年が経った。懸念だった大学生活も次第に慣れ、ようやく浮世の人間の一人として生きている実感が湧いてきた。この間入った洋食屋でオムライスを食べた時、ふと父親の顔を思い出した。遠い過去の人になってしまったような気がして、胸を抉る。父は僕が12の時に死んだ。
研究員だった父は朝から晩まで研究に勤しんでいて、たまに顔を見るのはテレビか科学雑誌に載った写真でだった。その代わり、誕生日や学校の行事には他所の家庭もビックリなほど力を入れていた。きっと、母の分も自分が頑張らねばならないと思っていたに違いない。だから僕は幸せだった。慎ましくも楽しいこの日々が永遠に続くと思っていたのに、小学校の卒業式前日、父はこの世を去った。胸に突き立てられた包丁は、背中まで貫通するほど深く刺さっており、警察は恨みの筋による犯行と見て捜査を進めているが10年以上経った今でも真相は分からない。
そんなことを考えている間に、彼女がいれてくれたジャスミンティーが冷めてしまっていた。父さん、僕は大丈夫。僕が必ずあなたの無念を晴らす。ハンバーグをこねる彼女の背を眺めながら、ジャスミンティーを飲み干した。
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2017
今年の冬は例年に比べて冷え込むようで、東京も辺り一面雪国のように真っ白だ。雪国に行ったことは無い。雪を見て思い出すのは、ただあの日の、あの部屋の写真だけ。だから雪は好きじゃない。
「あの、これ落としましたよ。」
突然声をかけられ、振り向くと自分と同年代くらいの女性が立っていた。手には丁寧に畳まれたハンカチ。
「ああ、すみません。」
「間違ってたらすみません、K大学の守山ゼミの方ですよね。」
「K大学…。そうですが。」
「やっぱり!私も同じゼミなんです。」
なるほど。同級生か。
「太宰がお好きなんですか?これ太宰展のハンカチですよね。」
「ええ、まあ。」
勇気を出して問う。
「ちょっとお茶しませんか。」
真実に近づくために。
「…いいですよ!私、由美っていいます。」
「私は亮介。橘亮介といいます。」
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2018
「遅刻!最近ほんと上の空なんだから!」
「ごめんごめん、湊かなえの新刊読んでたら遅れちゃって。」
「ほんと読書だけは敏感なんだから。初めて会った時だって本の話ばっかだったもんね。」
「え、そうだっけ?」
「物忘れもいい加減にして!」
ごめんごめんと謝りながら、コーヒーをすする。彼女と付き合い初めて一年が経ち、孤児院を出てからの日数をそろそろ越えようとしていた。明るい彼女の笑顔はどこか父親と重なり、居心地が良かった。そう言うと彼女はムッとするので、本当は母親の笑顔と似ていると言いたいところだが、あいにく僕は母の顔を見たことがない。僕が生まれて直ぐに病で亡くなったのだと父から聞いた。
「由美は内定貰ってるんだっけ?」
「まだ全然、亮介もだっけ。そろそろヤバいよね。」
「まあね。でも自分が社会で何をしていいか想像もできない。院にいた頃からそうだけど何をするにもドン臭くて、仕事をしない方がいっそ社会の役に立てるんじゃないかと思ってしまう。」
「言えてるかも。」
ニヤニヤ笑いながら、彼女はストローをちょんとつまんでジュースを一口飲んで言う。
「でもそれでいいよ。私はあなたと暮らして行ければそれで十分。ただ慎ましく暮らせていけるだけのお金があればいい。」
「…そうだね。僕もそう。」
「でも無職はいけない!人間が腐る!何か好きなこととか、ものとか無いの?」
「僕はそういうのが一向に無くて、実を言うと今日も起きてから何も食べてない。」
「またそうやって…。すみませーん。このランチセット2つお願いします。」
「…太るよ。」
「いいの!」
実を言うと、昨日も何も食べていなかった。でもそれで良かった。人生において、欲というものを一切持たずに成長してしまったが、初めて一緒にいたいと思ったのが彼女だったから。
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2020
「今日、雨降るらしいから折り畳み傘忘れないように。」
「ありがとう。行ってくる。」
「ハンカチは持った?」
「いけない、忘れてた。」
「同居してからだらしなさに拍車がかかったよね。」
ため息をつきながら笑っているのを見ると、あながち世話を焼くのも嫌いではないらしい。しかし、僕もそろそろ大人にならなければならない。ハンカチを持っていくのを忘れている場合ではなく、そろそろ結婚も考えなければならない。とはいえお互いにとれる時間も多くなく、結局その日の仕事に没頭することで目を逸らし続けてしまっている。満員電車の吊革を握りながら考えることではないなと思い、イヤホンを着けてロックバンドのメドレーを大音量で流した。
セキュリティ会社の下っ端として働いているが、最近妙なメールが個人アドレスに届くようになった。簡単に説明するならば、ストーカー。例えば、コンビニで何を買った、何時に家を出た、何時の電車で乗り換えた、などである。気持ち悪いところはあるが、実害が出ないと他人事のように考えてしまう気性のせいで何となく受け流していた。その他大量のメールの中で、知った名前を見つけた。守山教授だった。何やらOB交流会の要請らしく、特に用事もないのでOKのメールを返した。そして当日、久方ぶりに大学の門を潜り、教授の待つ控え室へ入る。あ、教授、お久しぶりです。亮介です。お元気でしたか。
「…誰だ、お前。」
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2014
「明後日の卒業式、お休みとれそう…?」
「当たり前だろ亮介!一年前から取ってるよ。」
それは嘘でしょ。でも嬉しい。お父さんの目にはいつもくっきりとくまが出来ていて、加齢臭と薬品の匂いが染み付いた白衣がいつも部屋の隅に干してある。狭くて埃っぽい1LDKに、もちろん友達を呼んだことも無いが、どこよりもこの場所と、ここで過ごす時間が楽しかった。
「その代わり明日は帰りが遅くなりそうで、またコンビニ弁当でいいか…?」
「大丈夫大丈夫。僕コンビニ弁当でも平気。」
「うう、ゴメンな。亮介。」
そう言って炭酸ジュースを飲む父。好きだったタバコも酒もとっくの昔にやめたきり、研究と子育てにだけ没頭してきた。年々丸くなっていく背を抜かしながら、僕が早く父を支えなければと思っていた。それにしても研究一筋だった父が、子育てに真剣になったことは周りの人たちを随分驚かせたらしい。
そして、父は翌日死んだ。何の恩も返せなかった。
殺人現場となってしまった父の研究所は同一犯によるものなのか、滅茶苦茶に荒らされており、生前大事に飾っていたという僕と父が写った入学式の写真がいくら探しても見つからなかった。
父には葬式に呼べるような親族が居らず、結局催されるようなことも無く海に散骨された。その風景があまりに悔しくて、それ以来僕の脳裏には父の笑顔と散骨の様子がへばりついてしまった。どうして父は死ななくてはならなかったのか。ただそれを解明する為だけに生きる日々が始まった。まるで犯人の影になったように。
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2020
守山教授は歳のせいか物忘れが激しいらしく、話している間にだんだんと僕のことを思い出してくれて一安心した。そして何事もなく交流会を終え、夕方から降り出した雨の中帰路についた。犯人を追い始めてから10年以上が経ったが、未だにその輪郭すらなぞれずにいる。数年前に、父の同僚だった研究員の方と話す機会があったのだが、父は子育てに関心が無かったという話や、父は女性と交友関係が無かった話など、根も葉もない話ばかりでうんざりした。もしそれが本当なら僕はどうしてここにいるのか。もし母の話だけでも知ることが出来たなら。そんな時、家に届いたのが僕宛てのハガキだった。
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1970
大学院を卒業した後、研究員になってからただ研究だけを考えて生きてきた。若くして遺伝子研究をリードする存在になったことだけが私の存在を証明してくれる気がして、ある種の強迫観念と化していた。しかしそんな生活の中でも楽しみなのが昼休みに行く定食屋だった。正確に言えば定食屋のマドンナに会うことが楽しみだったが、元来無表情で勉強ばかりしていた私が色恋にふけることは恥ずかしいと思い、感情をひた隠しにしながら片思いのまま数年通い続けていた。そんなある日、学会で研究の成果が認められ、時の人となった。生きたネズミをそのまま複製する研究だった。その成果が耳に入ってか、知らずか、私は突然マドンナにプロポーズされた。この世の春だった。この春がいつまでも終わらなければいいと思っていた時、2つのニュースが舞い込んできた。1つは私の研究が盗用ではないかという話だった。恐らく倫理的もしくは国際競争の問題でふっかけてきた嘘研究だろうが、研究というものは誰が最初に見つけたかが非常に大きな問題であり、デリケート且つ世界的影響をもたらす本研究の盗用問題は国を巻き込んで大問題へと発展した。そしてもう1つのニュースは、妻の妊娠だった。
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1971
当時は若く、貯金も無かった私にとって、国を巻き込んで研究を続けるほどの財力も、同時に妻と子供を養う程の余裕も無かった。そして私は妻と研究を天秤にかけた。今思えば、これが分岐点だったのだろう。私は研究を捨てた。それだけ私にとって妻と子は大事な存在になり得たのだから。その後の顛末は言うまでもない。嘘つきの烙印を押された研究者に、もう居場所は無かった。賠償金と、死にものぐるいで雇われた力仕事をこなしながら、私たち3人は小さな1LDKの部屋に移り住んだ。それでも私たちは幸せだった。そして子どもが生まれ、私は一層仕事に力を入れた。そのままで良かった。それ以上望んでいなかった。私が夜遅く帰宅した時、妻の水商売を目にした時全てが壊れる音がした。
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2020
辻褄が合う。無くしたパズルのピースがぴったりとハマるようにこのハガキに書いてあることは全てが正しいのだと感じた。壮絶な過去に衝撃を受ける以上に、気になることがあった。それはこのハガキを書いた主だ。ハガキにはもちろん差出人の住所も書いてありそこは意外にも近くだった。そこで妻にメモを残して、傘もさしながら雨の中、その場所へ向かった。
随分日が暮れてしまった。辺りは閑散としていると言うべきか、荒れているというか、つまりあまり綺麗な場所ではなかった。古びた小屋の隙間を縫って進むと、これまた古びたアパートが建っていた。
件の部屋の前まで着き、ベルを押してみるが反応が無い。恐る恐るドアノブを握ると、軽いドアが軋みながら開いた。中は電気が消えているものの、思いのほか片付いていて小綺麗な印象を受けた。その真ん中にフードを深くかぶった男がいた。
「お前がハガキを寄越したのか…?」
「ああ、そうだ。」
「なぜ電気をつけない。」
「夜が好きなんだ。自分の顔を見ずに済むから。」
ハッとした。この声聞いたことがある。
男はフードをゆっくりと脱ぐ。
隅から隅まで、僕の顔そのものだった。
急に吐き気を催し、その場で膝を落とし戻してしまう。
「なぜ…。」
「私はお前だ。お前は私。私はずっとお前を追っていた。お前は無頓着だから気が付かなかっただろうが、お前のふりをして大学に行ったり、由美と会ったりしていたんだ。…私が、私と母がどんな暮らしを送ってきたか知らないだろう。あの話には続きがある。」
男はじりじりと詰め寄りながら語りかけるように話し始めた。
「母は病気だった。もともと定食屋で働いていた頃から体が弱く、結婚して私を産んでからもかなり無理をしていただろう。しかし父の収入では親子3人が、増してや小さな私が十分に暮らすことは出来なかった。そこで母は父に黙って水商売に手を出した。当然水商売も楽ではない、だがそれほどまでに追い込まれていたのだ。そしてそれが父にバレた時、父は母を初めて打った。だが、それはもしかすると今まで溜め込んでいたものが爆発したに過ぎなかったのかもしれない。そして父は自暴自棄になり、私と母を追い出した。私たちはこの部屋を借りて必死に生きた。母はそれから程なくして死んだが、私は学校にも行かずひたすら働いて働いて、とにかく父に報復することだけを考えて生きてきた。そしてある日、父が一人で研究を再開していることを悟った。その時は怒りと恐怖が渾然一体として、私はどうにかなりそうだった。そう、複製を作っていたんだ。それがお前だ。橘亮介。」
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2020
「僕が…複製…?」
「お前は10歳の私を想定して私の髪から複製されたクローンだ。実際に、お前は寝食の欲を持たず、人間として生きているとは言い難い存在ではないのか。」
正しい。正しい。そうか、僕は偽物だったのか。いつしか思った、研究と子育てに熱心な父の姿は、実は研究だけを追い求めた姿だったんだ。僕は愛されているのではなく、研究対象だったんだ。ふと部屋の壁を見ると、僕と父の写真が貼ってあった。そうか、こいつは僕を殺すために生きてきたのか。あれ、じゃあ僕はなんのために生まれてきたんだろう。
「お前もまた被害者なのかもしれないな。この因果は今日で終わりにしよう。」
そう言って彼は包丁を抜いた。
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「おかえり、由美。」
「ただいま。あ、人間失格。久しぶりに読んでるのね。」
「ああ、ボクも大人になろうと思って、過去を思い返しながら読んでいたんだ。」
「あ、そうだ。これから夜ご飯作るけど、何食べたい?亮介の好きな物作ってあげる。」
「うーん…じゃあ、オムライスで。」
ミステリーはあまり得意ではないです。作中で研究や就職の話も出てきますが全部デタラメです。ではまたどこかで。