メルト
ただ苦いだけのコーヒーが欲しくなる。動けなくなった蝉が秋の到来を告げた。
感傷的な気分になるのは洋子も例にもれず、意味もなくベランダに出ては冷たくなった風を浴びた。きゅうと縮む感情に夕日を重ねて、季節はずれになってしまいそうなワンピースの裾をつまんだ。
「やさしくしないで」
咎めるようにつめたく言い放った言葉は本心だった。こわかった。無表情でうつむいた彼を直視できず、言い訳もできず、走り去った。最後の蝉の声が聞こえた。
溶けてしまいそうだった。
どろどろに溶かされて生きていけなくなりそうだった。それほどにわたしは彼を欲していた。
溶かされて地面に這いつくばって、彼が手を差し伸べてくれるのを待っているだけ。視界はせまく、彼以外目に入らない。遮断された感覚でただ耳をすます、盲目。
それは砂糖のようで、わたしは煮込まれ、目を閉じる。いけないと思い慌てて起き上がってももう足をとられて動けない。そうしてわたしは沈んでいくのだ。甘い甘い沼に。もう二度と出られない。
そんな夢ばかり見るようになって、わたしはだんだんこわくなった。
彼の笑顔がわたしを捕える罠のように見えた。わたしを深みに誘いこんでいた。欲しているのに、近付けなかった。意気地なし。
洋子はベランダで手足を必死に動かし飛ぼうともがく蝉を眺めた。たぶん、もう飛べないのだろう。
羽をひろげて、しまって、ひろげて、しまって。わたしのようだと思った。そのうちに蝉は段差に転げてひっくり返ってしまった。手足をばたばたと動かしもがいたが、やがて動かなくなった。諦めたのだろうか。
諦念。なんと甘美な響きだろう。受け入れ目を閉じることがどんなに魅力的か。わたしはまだもがいているのだろう。動かなくなってきた手足で必死に飛ぼうとしている。諦めはこわく、でもとても甘い。
わたしの諦めはどこへ向かうのだろう。
冷えてきたからだをさすり、口元だけで笑った。わかっていた。どうするべきかなんて。
冷たい風がひっくり返った蝉を揺らす。風にされるがままの蝉は、もう生きてはいないのかもしれない。ふらふらになって降り立ったのがこんなベランダで、生まれた地面の土はずっと遠くて、不幸にもそのまま動けなくなってしまった。
蝉の生涯がここで終わった。
もう空の色は変わり、季節は蝉を受け入れてなんかくれなかったのだ。
もうもがくことに意味はなかった。結果なんて最初からわかっていた。
蝉は夏の役割を全うして去っていった。わたしの夏の役割は、秋の諦めは。
メルト
わたしはもうもがくのをやめた。