シュン14
やたらと長くなってしまいました……。
「はぁ……」
ため息が乾いた風にさらわれる。
知らない間にパスポートを取得させられていて、学校に報告を終えて、気づくと出国していた。いわゆる、高飛び?
だいたい仕事が早すぎる。前もってこうなると予測していないとこうはならない。
あの飄々とした義父の手のひらの上で踊らされてる……。
そして彼は、あの後叔母たちがどうなったのかとか、なにも言わない。俺の耳に入らないようにしているらしいから、あえて尋ねなかった。
そしてこっちに到着以来、あちこちの観光スポットに連れ回された。もはや観光だ。
……早まった、かな。
だけどあのまま日本にいたら、間違いなくハニーが恋しくなる。
わざと離婚届を書いてこなかったのは、時間がなかったこともあるけど、大人たちに対する最後の抵抗でもあった。
ハニーにとっては、いい迷惑だろうけど。
だから、気づいてなければいいのに。
別れたつもりで、ずっと既婚者のままだったらいいのに。
「――シュン」
慈しみを込めて名前を呼ばれ、振り返る。
もちろんそこにいるのはハニーではない。似ても似つかない、金髪の外国人。……ここでは俺が外国人だけどね。
「ハーイェクさん」
「パパとは言わないにしても、せめて名前で呼んでほしいのだけれど」
彼は苦笑し、一度スマホへと目を落とす。
「……なにか、あったんですか」
「いや、大丈夫。監視をつけているから、彼らがミツに接触することはないよ。そうそう。相続放棄の方も会社の乗っ取……再建も、つつがなく進んでいる。きっと君がここにいる間に、すべていいように進むよ」
……すべて、いいように。
乗っ取りという不穏な言葉は、空耳ということにした。
だけどすべてこちらの思惑通りいいように丸く収まったとしても、それに伴って失ったものの修復は、もう無理だろうな。
彼の言うすべてに、ハニーは入っていても、ハニーとのことは入っていない。
一方的に別れを告げて逃げてきたんだから、絶対に嫌われたに決まっている。これは自己責任だ。これだけは、人のせいにはできない。
務めてにこりとして、お礼を伝えた。
「ありがとうございます」
「うん。また一緒に暮らせて、嬉しいよ。もっと早くに決断していればよかったと、今は後悔している」
すぎたことはどれだけ悔やんでもどうにもならない。この人の罪悪感が少しでも消せるのなら、一緒に暮らすことくらいたやすい。
「悪いけれど、これから仕事に行かないといけない。夕方には帰って来るけれど、夜はどうする? どこに食べに行こうか?」
いつも外食はさすがに健康に悪そうだからと、なんとなく、ひとつ提案してみた。
「俺、作ります。マーケットも見て回りたいから」
ふと昔……大昔、かあさんが留学中に市場でのことを話していたことを思い出した。肉がおいしかったとか。肉ばかり食べ歩いたとか。……あれ、今なんか、血の繋がりを感じた。
「ひとりで平気かい?」
「大丈夫です」
「知らない人について行ってはいけないよ?」
なんでついて行くと思われてるの?
心配そうな彼に、いつの間にか車に乗せられていて、いくらここが外国だからと言っても、とか、俺っていくつだっけ、とか、情けないような切ない気持ちになった。子供扱いにもほどがある。
ひとまず人の多い市場をひとり歩く許可は下りたから、とりあえず頭の中を空っぽにして散策をはじめた。
普段、というか、日本にいると特に自分の身長や体格気にすることはないけど、すれ違う人との目線が少し違うだけで、自分が小さく感じる。矮小なのは、その通りだけど。
染めたのではないナチュラルな金や茶の髪や、神秘的な瞳の色、そして、響きの異なる言語。半分以上は聞き取れない。それを楽しいと思ってしまうのは、おかしいのかな。
ここでは無理して笑わなくてもいい。口さがない言葉も聞こえない振りをしなくてもいい。いい子にしていなくてもいい。……自由だ。
だけど、どうしようもなくひとりだった。
今は彼が守ってくれる。親の愛情。ほしいと思っていたもの。思って、いた、もの。
過去系だった。
今ほしいものは、自分から手放した。
このごたごたが収まるまでは……収まっても、会いに行けない。だいたいどんな顔して会えばいいんだろう。
食べたかったはずの肉の手前で、足を止めた。お腹は空いている。かなりの空腹。それなのに、食べたいものが他にできてしまった。
「……ホットケーキ、ないかな」
これだけ店があるのに、自分の求めるものがない。
甘くてしっとりとして、ふわっと優しくて…………ハニー……。
これが、ホームシック、なのか。
俺の家は、あのハニーのアパートだったから……。
「……帰りたい、なー……」
じわ、と目頭が熱くなってきて、うわ、と自分にドン引きしながら目元をこすり、顔を上げたときだった。人ごみの中に、一瞬、幻覚が見えた。
ハニーだった。ハニーがいた。
ついに妄想が実体化して見える領域にまできてしまった。どうしよう。なに科に行けばいいんだろう。眼科? ……心療内科?
そんなことを考えながらも、夢中で手を伸ばす。けども、ちょうど恰幅のいい外国人の集団が自分の脇から次々抜けていき、その都合のいい幻影はかき消えてしまった。
中途半端に伸ばされた腕を静かに下ろして、なにも掴めなかった空の手のひらを見つめる。
先に手を離したのは、自分だ。誰に文句も言えない。さっきそう自分に言い聞かせだばかりなのに。
それに。俺に関わると、ろくなことがないし……。
きゅっと、拳を握って、後ろ髪ひかれそうな気持ちを振り払ったとき、唐突に、聞き慣れた日本語を耳がとらえた。
「……――え? あっちの方角? 本当に? サンキューサンキュー!」
ほとんど日本語で、たまに雑な英語を交えて、快活そうなおばさんとハグして手を振った人物が、こちらを向いた。
「……あ」
そう言ったのはどっちだったのか。
あ、の形に口を開けた俺を、おんなじような顔で見合っているのは、やっぱりまぎれもなく、ハニーで。
「え、……なんで、ハニー……え?」
混乱しすぎて別れを告げたこととか、感傷に浸っていたこととか、なにもかも全部吹き飛んで、その胸に飛び込みかけたところで、慌てて踏み留まった。
もしかしてあれのことかな、と思ったのを感じ取ったのか、ハニーが無言で鞄から取り出したのは、一枚の、ぺらぺらの紙だった。
風に揺られるその紙を、おずおず、いや、渋々受け取る。薄い紙の感触が本物で、それで改めて目の前にいる彼女も本物なのだと、すとんと腑に落ちた。
俺の気持ちなんてお構いなしに、ハニーは言う。
「忘れもの」
ぽかんとしながらも、覚えていたんだと心底がっかりした。
それと同じくらい、こんなもののためにここまで来てくれたことを、申し訳なく思った。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの? シュンはなんにも悪くないよ。悪いのは、私を含めた大人たち全員。――でも」
こつん。と、額に手刀が落とされ、瞬く。
前、ハニーに手刀を落としたときの仕返しのように、同じだけの力だった。
全然痛くないけど、驚いた。
「人に刃物を向けたらいけません」
あー……バレてる。情報源は、浮気男あたりだろうか。
「……ごめんなさい」
「うん、わかればよろしい」
手刀がほどかれて、前髪のあたりをくしゃ、と撫でられた。胸の奥がぎゅっと疼く。抱きしめたい、というか、抱きつきたい。
けど、と、手にした紙に気持ちが沈む。
ハニーの心は、この記入された離婚届から明らかだ。
離婚するために、こんなところまでやって来たんだから、当たり前と言えば当たり前だ。
「ごめんね、シュン」
謝られて、ますます心が地底深くまで沈んでいく。
「結局口ばっかりでなんにもしてあげれなくて、傷つけてばかりで」
「別に、ハニーには傷つけられてないけど……」
俺が、勝手に嫉妬しただけだし。それに、
「傷ついたのは、ハニーの方じゃん。俺が単純で考えなしに結婚なんてしたから、怪我までしそうになって。今だって、早く他人に戻りたいから、離婚届持ってこんなところまで来たわけだし……」
しゅんとうなだれると、ハニーは呆れたのか大げさなため息を深々とついた。
「あのねえ、どうでもいい相手だったら、離婚届を送りつけはしても、直接持って行ったりしないでしょうが。これは口実で、シュンに会いたかったから来たの!」
「……え?」
思わず顔を上げると、ハニーはバツが悪そうな顔で続けた。
「私のうぬぼれかもしれないけど……子供は大人を守らなくてもいいんだよ。皮膚は弱いけど、身体自体は怪我しても簡単には死なない程度に頑丈だと思うし。それよりも……シュンに別れを告げられたことの方が、よっぽどこたえた」
えっ?
「それって、つまり……別れたくなかった、って解釈で、合ってる? だったら、これはなに?」
手の中の離婚届。保証人に先生の名前があることが、また、なんと言うか……。
「それは……。シュンをちゃんと解放してあげるために書いたもので、シュンが望むのなら笑って別れてあげるつもりだったんだけど……」
俺の刃傷沙汰を聞いただけでその理由まで辿り着いたらしい。そういうとこだけ聡いのはずるい。
「あのとき、あっさり別れるって言ったのはもしかして、俺のため……?」
ハニーにとっての俺は、それだけの存在なのだと勝手に思って暴走したけど、いきなり別れを告げた俺を、そのときも思いやってくれていたんだとわかり、気が抜けた。
なんだ、そっか……そうなんだ。
それでも、嫌だと言ってほしかった俺は、よくばりなのかもしれない。
「……あっさり捨てられたのかと思った」
ちょっと拗ねてみると、まさか! と、大きく否定するハニーに、ようやく頰が緩む、が。
「でもハニー、俺、留学は……」
やめられない。今さら。
違う。ほんとは、……やめたくない。
それに、これから先の人生の中で、彼と暮らせる時間はきっと、今だけだと思うから。
そして、その先はすべて、ハニーにあげてもいい。だから……。
口ごもる俺に、ハニーは苦笑する。
「留学をやめろなんて思ってないし言わないからね? せっかく機会を与えてもらったんだから、思う存分勉強しておいで。……ホットケーキ作って待ってるから」
「…………いいの? いつまでもかかるかもよ?」
「むしろシュンの方がいいの? シュンが戻って来たとき、私は立派なおばさんだよ? それに…………シュンの足枷にだけは、なりたくない」
ぼそ、とつけ加えられたその本音に、ハニーは自己評価が低いなぁ、と呆れた。
「ハニーがハニーなら、なんでもいいよ。ハニーの身体にハニーの心が入っていれば。年齢なんて関係ない。今だってできることなら他のやつらに触れられないように閉じ込めておきたいし、四六時中抱いていたいよ?」
ハニーがほんのり頬を赤く染めて物言いたげな眼差しで見てきた。かわいい。
「ほんとは、早くハニーがほしい。けど、待てる。結局待たせてるのは俺の方だから。子供は大人を守らなくてもいいって言ったけどさ、子供はいつかは大人になるよ。そのとき、大事な人を守れるような人間になりたい」
そのために。広い世界で学びたい。
ハニーの心が揺れているのか、しばしの沈黙。
そして、
「……次、帰ってきたら、いいよ」
と言った。確かに、そう聞こえた。
「いいの!?」
「う……うん、単身赴任だと思って、待ってるから」
まだ迷っている風のハニーを畳みかけるように、やったあ、ともう撤回できないように抱きつき、そしてすぐ少し離れる。自制。
しかも。単身赴任とか。遠距離恋愛よりも、確かな糸で結ばれているようなその表現が最高だった。
「すぐに帰るからね」
それはすぐでなくてもいいかな、とハニーが口にする前に、さっとふさいだ。自制、無理だった。
往来でキスしても、ここでは誰も気にしない。
「ハニーのホットケーキが食べたい」
くったくなくそう望みを口にすると、ハニーは笑ってうなずいた。
せっかく逃がしてあげたのに、みすみす戻ってきたからには、もう逃しはしないからね?
「さっきの言葉、忘れないでね?」
たまに抜けてるハニーは、どの言葉かを聞き返すことなく、軽い調子でうんと言う。
ほんと、かわいい。
優しく、あまくて、お人好しで。
俺の愛しい……奥さん。言質を取ったから、覚悟しててね?
あと一話だけ、お付き合いいただければと思います(>人<;)




