シュン11
差し出された手を、その日は取ることはなかった。
だけどその提案に、心が揺れ動いたのはまぎれもない事実で、ハニーと離れたくない気持ちがある反面、留学というその響きがなかなか耳から離れていってくれなかった。
前に叔母が同じことを言った。留学させてやると。そういう甘言で俺を騙そうとした。それと違うことは、彼の表情を見ていたら明らかだった。
それにあの人はふざけて見えて、真面目なところで嘘はつかない。冗談を言ったりはぐらかしたりしても、根は誠実な人だ。
そうじゃなければ、うちの母親がわざわざ再婚なんてしていなかっただろうし。
悩んで悩んで、ハニーなら、待っていてくれるんじゃないかという、自分勝手な淡い期待ばかりが募る。
待っていてほしい。そう言えば、ハニーのことだから忠犬のように待っている……と思う。
だけど、本当にそれでいい?
彼女の好意におんぶに抱っこ。いつまで経っても、同じ位置に立つことさえできていない。
そうやって幾度問いかけても答えが出ず、それなのにハニーを両親の墓に連れて行った。その時点でもう心は決まっていたのに。
ハニーの心を繋ぎとめておくために、母さんを利用してしまった……。
ほんと、いつの間にこんなに執着していたんだろうね。
たかが写真一枚に、心をかき乱されるほどに。
迂闊でお人好しな彼女が、愛しくて愛しくてたまらない反面、ひどく憎らしかった。
そんなどろどろとした感情を覆い隠し、それでも普段よりも速い歩調で校門を出たところで、彼と目が合った。青々とした葉桜並木の下、車に寄りかかり、こちらへと顔を起こして、穏やかな笑みを刻む。
「そんなにこわい顔をして、どこに行く気? お腹が空いているなら、一緒にご飯でもどうかな?」
悠長にご飯を食べている場合ではないのに、正直な身体がぐぅぐぅと空腹を訴えた。最悪だ。
「今日はお肉を食べに行こうか。私が焼いて、よそって、ふぅふぅしてあげよう」
いえ、結構です。と結構辛辣に返したのに、まったく話を聞かないこの外国人に、体格からして敵わず、結局ほぼ無抵抗で連れ去られた。
……まぁ、ね。肉はうまかったよ。
肉がうまくないわけないけどさ。
それにしても、普段見るドリップの出たペラペラの赤身肉とほんとに一緒なのかと首をひねるほど綺麗な霜降りの、明らかな高級な焼肉を奢ってもらって、いたたまれない。
この間の返事をもらいに来たのだろうことは明白だから、早く答えを出さなければいけないのに、口が重いのをいいことに、黙々と肉を食べ続けた。
「学校はどう? 楽しい?」
子供じゃないんだからさ、と思いつつ、まあまあと答えておいた。目下の悩みは、進路と叔母たちのことだけだ。
それと……ハニーがお人好しすぎること?
「彼女とは? うまくやっている?」
その心を読んたような問いかけに、つい彼を睨みつけてしまった。
「全然ラブラブだけど? 他人が入る隙間ないし」
本当はもやもやしまくってるけど。
「それは残念」
なんかさ、ハニーは名前からして、変な虫を寄せすぎ。
その虫の中に自分が入っているのが悔しいけどね。
苦笑する彼は、子供扱いの俺に焼けた肉を取り分けてくれる。腕を伸ばしてうまい箸使いで巧みに肉をつまんだとき、首元で揺れる光が見え、目を見張った。
「あ……それ、って……」
でも、まさか。そんな……。
……いや、だけど。この人なら、やりかねない。
血が繋がっていないのに、ちょっとだけ思考が俺と似てるから。
「ああ、これ」
彼は愛しげな眼差しでそのダイヤモンドを指で撫でる。それでもそれがなんなのかは、口にするつもりはなさそうだった。
俺が気分を害するかもしれないと思っての配慮、なのかもしれない。
だけどまさか、ね。
かあさんの骨をダイヤモンドにしちゃうなんて……さすがの俺も言葉が出て来ないし。息子としては、ちょっと……。
好きな人と死別しても一緒にいたいという願いは理解できるから、気持ち悪いとか、そういう負の感情は一切なかった。ただ、無性に、やるせない気持ちになっただけだ。
しばらくお互いに黙々肉を食べ、気まずさが薄れてきたこと、彼がふいに、ひょいっとこちらに腕を伸ばしてきて、制服の胸ポケットからふたつ折りにした例の写真を鮮やかに抜き取った。
あまりにも自然な動きで奪われたせいで、反応が遅れる。
写真に目を落とす彼は、顎を指でさすりながら、やっぱり、と呟く。
「……やっぱり?」
おうむ返しで聞き返した。それは、ハニーが浮気をしたと思っているような口ぶりではなかったから。
「シュンは嫉妬深そうだからね。こんな写真を見た直後に、のんきに焼肉なんて食べていない。ということは、信じているのだね、彼女のことを」
そうだよ。誰よりも俺が、ハニーのことを信じている。悪い?
だから他人にどう思われようと、はっきりと誤解を解いてあげられる。彼女はただの……お人好しなのだと。
嫉妬深いは、事実だけど、はっきり言って余計なお世話だ。
「でもね、君が動じないと、相手の行動はエスカレートしていくかもしれないよ? ……彼も、あまり役には立っていないようだしね」
ぴん、と写真の中の浮気男を指で弾く。
そこでようやく、彼がさっき言った「やっぱり」の意味を悟った。
まさか――、
「この浮……男が、あの人たちと、手を組んでるってこと?」
よくできました、と目を細めた彼が、テーブルに片肘をついてこちらを眺める。
慈しみに満ちた瞳、とでもいうのかな。だけどたぶん、俺の向こうに母さんを見ているだけだ。俺は母さんの一部みたいなものだからかな。別に構わないけど。
「私とおいで。ここにいるべきではないよ。君のために、ひいては彼女のために」
前にも言っていた。俺のために、ハニーのために。
ちょっと待って、なんで、ハニーのために?
ハニーに俺の人生を背負わせることに対してやんわりと非難していたんだと思っていた。けど、違う?
話を続ける彼の囁きが散り散りとなって、耳をかすめはするけど脳へと響いてこない。
あれ、さっきこの人は、なんて言った?
まだこの程度で済んでいる。――エスカレートしていく、かも、しれない……?
「今は我慢すればいい。すべて終わってからまた、はじめればいいのではないかな? それでだめなら、それだけの関係だったということだよ」
諭すようなそれらをすべて無視した。青ざめたまま席を立つ。勢いをつけすぎて椅子が倒れたが、構わない。あとで店員が直すだろう。
「帰っても、いいですか」
なんだろう、嫌な予感がした。
漠然とした不安に、語調が揺れる。
杞憂ならいい。
とにかく、早くそばに行かないとと、踏み出したところで、
「いいよ。送って行こう」
彼は伝票を手に立ち上がり言った。
それを断らなかったのは、考えるまでもなく、車の方が早いからだった。




