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ハニー43



 日々の仕事に精を出し……といっても普段とやることは同じではあるにしても、私は単調で、あたりまえだった前の生活を取り戻しつつあった。


 鞄の中に忍ばせてある、記入済みの離婚届と……再取得したパスポートさえ、見ないふりさえすれば、だけど。


 シュンはもうイギリスの新生活に向けて現地で準備中だろうし、今は絶対に忙しいだろうし、私の顔も見たくないだろうし……。


 鞄を凝視していると、隻眼のアメリアちゃんが抗議の眼差しで私を射貫いていることに気づいた。


「ア、アメリアさん……?」


 せっかくパスポートまで取ったんだから、日帰りでも行くべきよ、……と言っているように見える。


 イギリスに日帰り。……物理的に不可能だ。


 それに一万キロの距離よりも、心の距離の方が果てしなく遠い。


 会社へと通う足取りが重たいのは、アメリアたちのせいだけではないと思う。


 本当はバスではなく飛行機に乗りたいし、朽ちかけたオフィスビルではなく、イギリスの大学に向かいたい。


 ぼんやりとしながらバスを降りた瞬間、存在すら忘れかけていた男と鉢合わせた。いつもならば無神経な挨拶のひとつをかけて来るのに、今日は顔をこわばらせて一歩後ずさるという失礼な態度をとった。

 

 別にこっちも、用があるわけでもない。踵で華麗に半回転して歩き出すと、無視するなよ、と、なんか微妙にどもりながら達巳は並行してきた。


 間が持たなかったのか、しばらくしてから、顔ひどいな、という安定の無神経さを発揮して、私をさらに怒らせた。


 顔はひどいに決まっている。


 悲嘆にくれて泣き暮らしているのだから、ひどくない方がおかしい。


 だけどそれも、一から十まで全部自分のせいだ。八つ当たりしてしまう前に、どっかに消えてほしい。そこまで自分を嫌悪したくはない。


「ついて来ないで」


「同じ方向なだけだろう。……なんだよ。機嫌悪いな。あんなイカれた子供の子守がなくなって、よかったじゃないか」


 ぼそっと呟かれたその言葉に、カチンときた。


 私は子守なんかじゃない、と言いかけたところで、ふと引っかかりを感じて首をひねる。


「……うん?」


 今日はじめて、達巳の顔を正面からまじまじと見上げた。


「うん? って、なんだよ」


「ねえ、ちょっと。なんで、シュンと別れたって、知ってるわけ?」


 シュンと別れる前に、この男はどこかへと去っていたはずで、その事実知り得たはずがない。


 それに、キラとはあれ以来連絡を取っていないはずだ。なのに、なぜ私とシュンが別れたことを知っているのか。


 そういえば……、


「この間から、妙に変というか……。シュンとわけのわからない話もしてたし、なにか隠してない?」


「……別に」


 目をそらされ、ネクタイを引っ張ってこちらを向かせて半眼で睨み上げた。


「おい、おっさん。一生はげって呼ぶぞこら」


 やはり幼馴染。キラみたいに首をぎりぎり絞り上げた。それでもしょせん私の力なんてたかが知れている。おかげで、力一杯締めつけてやれる。


「くる、しっ……やめ、ろ、って……!」


「言わないと掃除のおばちゃんにあることないこと吹き込むから!」


 よほど掃除のおばちゃんがこわいのか、達巳は酸欠で赤くなった顔を青くすると、私の両手を乱暴に掴み、振り払った。息とネクタイと襟を直して、これ見よがしな深いため息をつく。


「話せばいいんだろう、話せば」


 ふん。わかればよろしい。


「……怒るなよ?」


「前置きはいいから、早く」

 

 達巳は渋々といったていで口を開き、重々しい口調言った。



「ある人と、取引をしんだ」



 ……はい?


 なにを言い出したんだろう、このおっさんは。


「あのイカれたガキの叔母とかいう人と。俺は蜜を取り戻したかったし、あっちは甥を取り戻したかった。利害が一致したから、協力してた。――でも! 蜜が危害を加えられそうになったから、即刻手を引いた! それは信じてくれ!!」


 がしっと肩を掴まれ、やんわりと、しかし断固として払いのける。


 かわいいうちの子に対して、イカれた、っていうのはどういう了見だ、と思うけど、今はひとつひとつ情報を整理したい。


「叔母って、あの居丈高で上品を鼻にかけたような、あの着物の叔母さん?」


「上品を鼻に……たぶんそうだ。甥にはまだこれから先の人生があるから結婚なんてもってのほかだとか、蜜とは別れさせたいってさめざめ泣かれて、協力してくれないかと頼まれたんだよ」


 まさかあの叔母さん、達巳に接触しているとは。


「まあどの道、あのガキは邪魔だったから了承したんだ。言っておくけどな、そのときはまだ、蜜の言う居丈高な態度ではなかった」


 達巳が顔をしかめる。


 なるほどね。本性を隠した叔母さんに、まんまと騙されたわけか。


 それにしてもこの男、悪い女に騙されすぎでしょう。キラしかり、シュンの叔母さんしかり……。女運皆無だな。


「蜜との密会写真を撮るくらいのことだと聞いていたのに、まさか…………あんな風に危害を加えようとしてくるなんて、思ってもみなかったんだよ。……悪い」


「今さらしおらしく謝られても。そのせいでシュンに誤解されたことは腹が立つから二、三発殴りたいけど、自業自得だから我慢してやる。だから教えて。そもそも私は、いつの間に危害を加えられそうになっていたのかを」


 そんなの全然記憶にない。


 というか……私の知らないところで、一体なにが起こっていたんだ?



 

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