ハニー40
遅くなってすみません。
ちょっと長めです。
いろいろご容赦くださいm(_ _)m
達巳は私の不注意な行動を見ていたらしい。
「蜜ッ……! 怪我は!?」
と、シュンを押しのけんばかりの勢いで、私の両肩を掴んでこわばった顔を近づけてくる。
「や、あの……平気、だけど……?」
見てわかると思うが、すり傷ひとつない。
一応ざっと上から下まで確かめ、ほっと安堵した達巳が、急にがしっと抱きついてきて、抵抗しながら慌てて横目で見たシュンの表情に、戦慄した。表情筋が、ぴくりともしてない。感情が抜け落ちたように、ただぼんやりと、抱擁される私だけを見つめている。
さあっと頭が冴えて、この体勢はいかんだろうと気づき、もがきにもがき、なんとかその邪魔な腕から抜け出し、おそるおそるシュンと向き合った。
「え、えーと……シュ、シュンくん……?」
「………………ん? なあに?」
意識をどこかへと飛ばしていたシュンは、返事をするまでに間があった。声は優しい。だだ目は、笑っていない。
あ、はは……。
笑ってごまかせる状況では……ない、ですよね。
「ち、違うからね?」
「……ふうん?」
だめだ! なんかだめな気配がぷんぷんしている!
「私が好きなのはシュ――」
「待って!」
言い切る前に鋭く遮られて、唇をその手のひらで素早く封じられた。
そんなあ……!
一世一代の、とまではいかないけど、わりと本気の告白を中途半端な状態で遮られた。
消沈しておとなしくなったからか、ややあって私の口から手を退けたシュンが、底冷えするような視線を移したのは、しばし存在を忘れ去っていた達巳だった。
シュンは達巳を見据えつつ、おもむろに胸ポケットに指を入れ、二つ折りの紙を引き抜く。歪な形に折られたそれを突きつけるように開かれたそれに、目を見開いたのは横から様子を窺い見ていた私の方だった。
写真だ。一枚の。
自分自身と、私を抱きしめているように見える達巳の姿。
いつのことか。背景と服装を確認する。思い当たったのは、あの日だけだ。
そしてこれは、よろめいた達巳をとっさに支えただけの、たんなる介助シーン。それをわざわざ密会シーンのように撮っているところから、撮影者の意図をひしひしと感じる。
「これは違う!」
焦って写真を取り上げようとしたが、ひらりとかわされた。
「お願いだから、ハニーはちょっと黙ってて」
シュンにしては強く有無を言わさないその口調に、傷つきながら口をつぐんだ。実際にはやましいことはしていなくても、私の中に後ろめたさがあるから、逆らえない。
シュンは私の存在を視界に入れることなく、それを寂しいと思いながら、まっすぐ達巳にだけ問いかけるのを黙って眺めるしかなかった。
「おじさん、これ、わかるよね?」
おじさんと言われたことに達巳がむっとして、
「ああ。たぶん、蜜にプロポーズしたときの写真だな」
と、ふてぶてしく言った。
おい、おじさん、余計なことをぬけぬけと!
シュンの絶対零度の冷ややかな眼差しがこちらにも送られる。否定したいのに、しゃべるな、とその半眼が脅してくるので、首をすくめることしか叶わなかった。
きちんと話さなかった、私が悪い。
私の行いが、この悪状況を招いている。自業自得だった。
「プロポーズ、ね。……なにも知らない人は、気楽でいいよね」
皮肉っぽくシュンが呟き、達巳が怪訝そうに眉をひそめる。
「わからないならいいよ。わからない方がいいかもね。――それで? プロポーズ、成功したの?」
辛辣なシュンの手加減ない一言に、達巳が言葉につまる。私本人が目の前にいるのに、嘘は言えないだろうし。
それを見てシュンがちょっと笑う。それは嘲りなどではなく、静かな怒りを孕んだ笑みだった。私ですら、思わず一歩後ずさったほどの。
「大切なものを失ってから、後悔しても、もう遅いんだよ」
達巳はシュンの胸ぐらを掴んで憤怒に染まった顔を寄せた。
一触即発か、と思いきや、シュンが達巳になにかを囁きかけた。すると達巳は虚を突かれたように瞠目し、憎々しげにシュンを突き放すと、どこかへと足早に去っていった。
なんなの?
私だけ、蚊帳の外だ。
内心拗ねていると、シュンがやっと私を向いた。向いてくれた。ちょっと笑顔になりそうになり、不謹慎だと堪えた。
そしてうまい具合に私と達巳の間を割くよう折れた写真を一瞥し、私はひとつ深呼吸してから、改めて否定の言葉を紡ぐ。
「それは本当に違うの。達巳のばかが負傷して、手当てしただけで。これだってよろめいて支えただけの、他愛ないものだから、本当に誤解しないで」
「…………わかってる」
そう言ったから、信じてくれたんだって、ほっとしてシュンの顔を見た――けど。
伏せられたまつ毛に隠れた目線が、私のものと噛み合う事はなかった。
シュンが目を合わせてくれない。
そして足元に視線を落とすと、それからもう二度と、私の方を見ようとはしなかった。
「ハニーはほんと、呆れるくらいお人好しだってこと、わかってる。どんなやつでも、放っておけないことも。でもさ……俺の気持ち、考えたことある?」
「そ、れは……」
目の前のことに集中すると、周りが見えなくなる。シュンの気持ちをないがしろにしていたことを、否定は、できない。
だけどだからと言って、シュンを大切に思っていないわけじゃない。
悲しげに翳るその瞳に少しでも映るように、そんなことないと大きく首を振る。シュンは苦笑のような曖昧な微笑みを作った。
「……ハニーは誰にでも優しいから。誰にでも同じだから。きっと、俺じゃなくても――」
「シュンが一番だよ!」
シュンは虚をつかれたというように瞬いてから俯き、しかめた顔を片手で覆った。
「そういう、ところが……」
なにを言ったのか聞き取れず困惑していると、シュンがゆっくりと顔をあげた。今度は私が目を丸くして驚く番だった。シュンはにこりと綺麗に笑っていた。
「だから……さ、ハニー」
吹っ切れたようなその笑顔に気圧され、息を飲む。なんて切り出されるのかなんて、すぐに想像がついた。
聞きたくない。でも、聞かないといけない。
雑踏の中で耳をすます。案の定、決定的な一言がその唇からこぼれた。
「ごめん、ね。もう無理だから……別れよう?」
頭が真っ白になった。それとも、真っ暗になったのだろうか。手を伸ばせばその頬に触れられるのに、いつもよりも大人びた顔のシュンがとても遠く感じられた。
混乱しているわけではない。
いつかそういう日が来ると思っていた。
ただ、それが今だとは、思いもしなかっただけだ。
「……そ、その……写真の、せい?」
なけなしの理性と年上の矜持を総動員して、取り繕った態度で、理由を求めた。
だって、あんなに懐いていたじゃないか。
……違う。わかってる。私のお人好し、いや、軽薄さのせいでシュンを傷つけたせいだって。
ただなにかのせいにして自分の心を守りたいだけだ。これ以上、傷つかないように。
じゃないと、みっともなくすがってしまいそうだ。それは嫌だ。
私はシュンが思っているよりもずっと、彼のことが好きだ。シュンの意思をねじ曲げることだけはしない。
「それもある、けど……」
私の問いかけに、シュンが曖昧に言葉を濁す。
根はとてもいい子だから、もしかすると強がっている私を気遣ったのかもしれない。
それでも私は十も年上で、この目の前にいる子は、まだ、高校生。――子供だ。
今私がしなければいけないのは、わかったと納得して、首を縦にすることだけだ。
別れようと言われて、年上の私が、嫌だ、なんて言えるはず、ない。
鼻の奥がつんとして、それでも呼吸をしないと死んでしまうから、無理やり息を吸い込んだとき、ふとシュンの方から、妙に香ばしい匂いがしていることに気づいた。煙の匂い。もっと言えば、肉を焼いたときの匂い。……焼肉?
あれ? もしかして……、
「他に……ご飯を食べさせてくれる人が、いるの……?」
おそるおそる問うと、目を丸くしたシュンが一拍置いてから、
「まあ、うん」
と、頷いた。
その答えが、正直一番胸に突き刺さった。
「そ……っか。うん。よかった。安心した」
私じゃなくても……シュンが腹ぺこでなければ、うん、それでいい。そう、思わない、と。
「うん、わかった。……元気でね」
がんばって笑顔を作った。大丈夫。振られ慣れてるからこれくらいの演技完璧だ。たぶん。
うん、とシュンのかすれた声で頷き、私に背を向けた。
その背中が遠ざかっていくとほっとして、同時に、年上の矜持で堪え切った涙が頰を流れ、地面に横たわるアメリアの上へと、ぽたりと落ちた。
え、なんでアメリアが地面に、と鞄を見ると、しっかりとつけてあったはずのチェーンが無残に切れてしまっていた。
ああ……車に当てられたのは鞄ではなくて、アメリアだったのだ。
膝をついて、おそるおそるアメリアを掬う。
三つ編みが解けて、まぶたには小さなすり傷。
「っ……ぅ、」
喉がきゅっと閉じてしまって、声が出ない。
さっきのシュンの言葉が遅れて胸をえぐってくる。
――大切なものを失ってから後悔しても、もう遅い。
本当にそうだね。
なんて日なんだろう。大切なものを、同時にふたつ、失ってしまった。
後悔しても、もう遅い。
それでもシュンや。後悔しない人なんていないよ。
だけどそれを教えてあげる機会はもうないのだなと思うと、またまぶたの奥になにかがこみ上げてきた。




