シュン9
魔法使いが囁く。
――君の助けになれればと思って。
その手を取るかどうか、まだ決められずにいる。
*
上の空で廊下を歩いていたせいで、しかめっ面で待ち伏せる女子生徒――いとこの愛莉に気づくのが遅れ、捕まった。
「ちょっと来て」
学校ではもめ事を起こしたくない。仕方なく妥協して、愛莉の後についていった。もちろんこっちから会話を振ることもないし、道中向こうも頑なに口を開かなかった。
先生相手なら世間話程度の愛想は振りまくけど、愛莉相手なら顔色を窺いながら言葉を交わす必要もないし。
無言のまま歩き、ほどなくして連れてこられたのは、無人の美術室だった。慣れた様子で中へと入る様子に、美術部員なのか、と思った。まあ、心の底からどうでもいいけど。
不機嫌さのにじむ顔の中にもどこか優位さをにじませる愛莉は早々に、ポケットから切り数枚の紙を切り札的な仕草で取り出し、表にして机に並べた。
鮮明とは言い難い、カラーの、どうやら写真らしい。と、気づくと同時に、自分の顔から表情が剥がれ落ちた。
望遠レンズでも使ったのか、ぼんやりしつつも顔がわかるように撮られたそれに写っている人は、まぎれもなく、俺のハニーだった。
それだけならまだいい。いや、よくはない。どう見ても盗撮だ。
だけどそんなことがどうでもよくなるほどの不快感を、一緒に写る相手に覚えた。……あの浮気男だった。
どこかのアパート、おそらく浮気男のだろうけど、そこにふたりが車で帰ってきたところを数枚、アパートから出てきて、……抱き合ったその瞬間が、数枚。はっきりと写真に収められている。
車で帰って来た写真の、背景はまだあたりは明るい。そして抱き合っているのは……夕刻だ。
つまり、少なく見積もっても、一時間は一緒に部屋にいたことになる。
密室で。ふたりきりで。
ご飯を食べたと白状したあの件のときのことだろうか。それとも、俺の知らないところで、しょっちゅう会ってるのか。
愛莉の思惑通りになるのは癪だけど、嫌な想像ばかりが膨らんで、それらをひとつひとつ殺していくだびに、心がひたりと冷えていく。
「………………へえ?」
ついもれたそれがよっぽど冷淡な響きだったのか、勝ち誇っていた愛莉がわずかに身を震わせた。そのままこわがって消えてくれればいいのに、強がる愛莉は顎を上げて高慢的な物言いをする。
「ふ、ふん。残念だったわね。お母様が言った通りになったでしょ? もう飽きられてるんだから、さっさと別れたら?」
……飽きられてる、ね。
その言葉を、わずかに残った理性的な自分が口の中で転がす。
本気で飽きていたらきっと、やましい事情を意図して隠したりはしない。言ってしまえいいんだから。――他に好きな人ができた、と。
でもまあ、俺が、そんなことを告げられた瞬間にハニーを殺しかねないと思われているのなら、別だけどね。
実際それもいいなと思ったことはある。ハニーが俺を捨てるのなら、殺して自分のものにしてしまいたいと、思わなくもない。
思わなくない、けど……。
「……愛莉さ、そんなに俺と結婚したいの?」
冷静さを取り戻すため、一旦話の論点をずらした。ちょっと意地悪に口の端をあげて、片手を壁につき、愛莉の顔をずいっと覗き込んだ。いわゆる壁ドンだ。男慣れしてないだろうとは思っていたけど、案の定頰が怒りではない朱色に染まった。
「結婚したいです、って、かわいく言ってみたら? 俺の気が変わるかもよ?」
だけどこのいとこの性格上、下手に出て俺を受け入れるようなことを言うはずがない。わかっていておちょくっているのは、結局のところ、ただの憂さ晴らしの八つ当たりだった。
「や、やめてよ! あんたとなんかっ、お、お断りよ!」
どん、と胸を押されて素直に身を離し、薄い笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。
「だったらなんで、こんな人のプライベートを調べるような真似してるの? 叔母さんに、俺と結婚するくらいなら死ぬ、くらいの脅しをすれば済む話だよね?」
まあ、娘がだだをこねてあの叔母に響くかは不明にしても。
だけどそもそもこのいとこ、考慮されないからと言って、意思表示しない性格でもないだろうし。
だからつまり、そういうことなんだろう。
「そ、それは……遺言が」
この後に及んでそんな曖昧なものを盾に自分の気持ちをごまかす愛莉に呆れた。
好きだから、と正直に白状すればまだかわいげがあるのに。小学生から成長してないのか。
「遺言遺言……、もう聞き飽きた。祖父さんがどういうつもりだったかはもう永遠にわからないけどさ、叔母さんたちの魂胆はもうわかってるんだよ。家を継げってことは、会社を継げってことだろう? ……その傾きかけた会社をさ」
愛莉は俺の言葉に、ぽかんとした顔で数度瞬いた。
演技ではない。自分の親の会社の実情を、ほんとになにも知らなかったらしい。ため息が出そうだ。
あの叔母が、心底嫌悪する施設育ちの俺を後継ぎとして持ち上げようとしてる時点でなにかあると察しなよ。
「経営者が祖父さんから叔父さん変わってから、じわじわきてたみたいだけど、経営かなり苦しいらしいよ。全部聞いた話だけど。……まあ、そうでなくても継がないけど」
責任のすべてを押しつけるためのスケープゴートになんて、なってやらない。叔母の思い通りにはさせない。
俺を担ぎ上げようとするのは、遺言通りにしておけば、なにかあっても祖父さんのせいにできるからだ。
もしかしたら、もう会社には見切りをつけているのかもしない。あの人はそういう強かな人だ。
俺に留学させてやると言ったのは、つまるところただの保険。経営を学ばせて会社を継がせ、可能性は低いけど奇跡的に持ち直すのもよし、潰れたとしても、やっぱり施設育ちではだめね、と、あくまでも自分の夫の無能さから目をそらして、俺に責任転嫁することができるから。大切なのは自分だけの、最低な人間だ。
経営学など、これっぽっちも興味がない。学びたいことを学べないなら、留学なんて意味がない。
俺の言葉でも鵜呑みにする素直さはあったのか、愛莉が真っ青になっていく。嘘ならよかっただろうけど事実なだけに、さすがにかわいそうになってきた。一応これでも血の繋がったいとこで、たまに殴りたくなるけど、目の前でのたれ死んでいたら寝覚めが悪い。
「倒産はしないから心配しなくていいよ。日本で新規拡大したい海外の会社が吸収合併してくれるみたいだから」
社員はクビにならずそのまま残るらしい。……と、聞いた。これも伝聞だけど。
だってさ、叔父さんに経営能力が欠けていただけで、社員さんには罪はないもんね。
と。まあ、そんなどうでもいいことよりも――。
目下の問題は、この忌々しい写真、だよね。
一枚だけ、抱き合ったものだけを選んでつまみ上げ掲げる。
ふたりの親密さがよく撮れていると思う。ハニーから腕を回しているようにも見えるし……。
握り潰して燃やして川に流してしまいたいのを我慢して、表情を微笑で固め、莉乃へと視線を移した。
「この写真、叔母さんが誰かに撮らせたんだよね。ほんと、ご苦労なことだね」
表面上は余裕ぶってみせる。内側は、人には見せられないことになっていて、ちょっと引く。
だってどんな理由があれど、男の部屋に入って、そこで短くないときをすごしたという証拠だから、これ。
それが浮気でも、浮気でないにしても、だ。
それでも……ね。
「…………信用してなきゃ、こんなに、進路のことで悩んでないし」
なんの話かわかっていない愛莉が、え? と掠れた声をもらしたが、聞き流した。答える義理はない。
「叔母さんに言っておいて。もし万が一なにかの不幸でハニーと別れたとしても、俺の戸籍は永遠にそこには入らないから。……ただ元に、戻るだけだから」
これ、もらってくね、と写真を一枚胸ポケットへと差し込んだ。もちろん、ハニーと浮気男の間を、丁寧に折りたたんで。
軽いパニック状態の莉乃を捨て置き、今後のことを考え憂鬱と焦燥が入り混じった複雑な気分のまま美術室を後にした。
幸いなことに、愛莉が追いかけて来ることはなかった。




