ハニー36
人がせっかく大学のことを調べておかずやおやつを大量に作り置きしているのに、シュンがなかなか顔を見せに来ない。
「忙しいのかなぁ。どう思う、アメリア」
「勉強してるんじゃないのかなー?」
もちろん人形がしゃべっているわけではなく……。
――ピーンポーン。
突然の呼び鈴に、私はびくんと肩が跳ねた。ついでにアメリアは手から吹っ飛んだ。
いい歳して人形遊びをしていたことに対する動揺だった。
……宅配、かな。
アメリアをテーブルに置いて、玄関へと駆ける。
「はいはーい」
しかし覗き窓から見えたのは、宅配のお姉さんではなく、待ち焦がれていたうちの子、シュンだった。
慌ててドアを開け放つ。
「シュン? なんで呼び鈴?」
「……うん。……入ってもいい?」
シュンは笑顔を浮かべているけど、やや俯き加減で私の膝あたりを見つめている。
彼が通れるように通路を開け、玄関を閉めた。鍵も忘れずに。
シュンはいつものようにテーブルへと向かう。けど、様子がおかしい。なにかあったんだろうか。
原因がわからないけど、とりあえず……、
ご飯をあげなくては!
「なかなかシュンが来ないから、おかずのストックがいっぱいだよ」
冷蔵庫を開くと、シュンが両手を挙げた。
「わーい!」
無邪気に喜ぶシュンは、いつものように手伝いをしてくれる。
落ち込んでいるように見えたけど……気のせい?
「ねえハニー、ホットケーキも食べたい」
デザートにホットケーキ……。重い。
食べれるなら、まあいいけど。
請われるままあまやかしてホットケーキもチンし、その間に夕食を並べると、シュンはいただきますをしてご飯をうまうま食べる。だが、いつもよりも噛むペースが若干遅い。口に合わないというよりかは、味わい噛み締めているような感じだ。
「なにか……あった?」
「なんにも。ハニーは?」
間髪入れないその切り返しに、つい言葉が詰まる。
察したシュンがぴたりと箸を止め、じぃっと私の目を凝視してくる。
達巳とご飯をしたことに後ろめたさに、背中から妙な汗がにじんだ。
「なんにも、ないよ?」
「うわぁ。相変わらず嘘じゃん」
もうすっかりと見抜かれているので、居住まいを正し、テーブルに額をあてる勢いで素直に謝罪した。
「ごめん。シュン以外と、ご飯食べた」
「…………ふうん。誰と」
正直に相手を告げると、シュンはしばらく思案顔をしていたが、やがてひとつ、やるせないようなため息をついた。
「二度と、行かないで」
「……はい」
「声が小さい」
「はい!」
「あとでスクワット千回ね」
膝が壊れるわ!
なんで膝ばっか集中攻撃なのさ。
「膝が潰れて歩けなくなったら、ハニー、もうどこにもいけないし」
理由が病んでいる。
「嫌なの?」
「いえ、喜んで……」
「次はないと思って」
「う、はい」
スクワットはする。あとで必ず。だけど今はすかさずホットケーキの皿をずいっと前面に押し出して、色々とごまかした。
「やった!」
シュンが嬉しそうな顔で、ホットケーキをぱくつく。それを眺めているときが一番の癒しで至福のときだ。
シロップの追加をかけてあげると、シュンは輝く笑みでそのとろりとした琥珀色の液体が流れるのを見つめる。かわいすぎる。
「あ、そういえば。ハニーのホットケーキって、蜂蜜じゃないよね」
「ああ、蜂蜜ね……あんまり、ね」
食べれるけど、好きかと問われたら、そんなに好きではないかもしれない。
「そうなんだ? 名前のせい?」
「そういうわけでもないかな? ただの好みの問題」
蜂蜜って、ちょっとくせがあるから。
「蜜って呼ばれるのは、嫌い?」
「そんなことはないよ」
「じゃあ……」
きゅっと眉を寄せたシュンが、テーブルの上にあった私の手の上に、自分の手を重ねてくる。ちょっとだけ指を動かしたら、絡めるようにぎゅっと握ってきた。
やっぱりいつもと様子が違うなと、顔を窺うと、真剣な表情とかち合い、次の瞬間、私の息は見事なまでに停止した。
「――蜜」
視線をまっすぐに私へと向けたシュンの口から出た、たった二文字の言葉。私の名前が、胸のどこか深いところにある、すっかりと乾き切ってしまった場所に響いた。
シロップみたいに、じわりじわりと広がって満たされていく。
同時に、耳に自分の鼓動が聞こえて来た。
あれ、あれ……?
おかしい、心臓が……まずい。
理解した途端、かぁっと頰に熱が帯びた。
ハニーとあまえて呼ばれるのは最初こそ違和感があったものの、すぐに慣れた。けど、これはなんだろう。今日は、今は、シュンが子供には見えない。
見えないと、困る、のに。
「あの、シュン――」
私が口を開きかけたとき、シュンが小さくなにかを呟いた。
「え?」
うまく聞き取れなくて聞き返すと、シュンは目線を落として小さく首を振った。
「……ううん。なんでもない」
すっと手が引かれて、手の甲にあったぬくもりが消え、ひやりとした空気が吹き抜ける。
追いかけて手を繋ぎたいと思ったけど、まだご飯の途中で、それに……私からは難しい。
私の気持ちを知ってか知らずか、シュンは手にコップを持ち、にこりと笑った。
「やっぱり、ハニーの方がしっくりくるね」
「……不本意だけど、そうだね」
ご飯を終えてまったりとしているシュンにしごかれ、三分の一ほどこなしたスクワットに疲れて沈んでいると、そのまま本格的に眠ってしまった。
明け方、ふと目を覚ますと、シュンがそこにいた。
そこ、というか、私の腕の中に。
いつもならきちんと帰っていくのに、今日は外泊の許可でも取ってきていたのか。
癖のないさらさらした前髪を指で梳くと、シュンの口元がほころんだ。かわいい。
あの日目が覚めてシュンがいたときはこんなことになるとは思っていなかったのに、不思議なものだ。
額に軽く口づけると、かすかにシュンの肩がぴくりと反応した。
……起きてるな、これ。
「帰ってないの?」
「うん」
あら。ことの外素直に目を開けた。
間近で瞳がかち合い、ちょっと目線を外す。
「……いいの?」
「うん。今日は、ずっと一緒にいてもいい?」
子犬の目で見つめられて、誰が否と言えよう。
「い、いいよ」
なんか、照れるな。
慌てて顔を背けると、シュンの方へと向くように戻された。
「ハニー、かわいい」
む。
「シュンの方が、かわいいって」
「だから、かわいいは嬉しくない。もっと別の言葉で、褒めて? 一生、宝物にするから」
ね? と、シュンが顔を覗き込んでくる。
……あぁぁもうっ! うちの子はなんて愛くるしいんだろうか!!
私は顔をキリッとさせて言った。
「ストラップにして持ち歩きたい」
「えー、それ褒め言葉?」
最大級の褒め言葉なのに、シュンは不満げだ。
「なんかない? たとえば――」
つつっと指の腹で私の頰を下へとたどり、唇をなぞる。
な、なんの要求……。
「ずっと、キスしてたいな、とか?」
艶の増したシュンの眼差しを直で受けて、初心な乙女でもないくせにあたふたしてしまった。
「そっ、それっ、それは、ほほ褒め言葉なの、かな?」
「でもハニー、俺とのキス、好きでしょう?」
う、バレてる。……好きだけどさ。
だってなんか……甘いし。
「じゃあ、はい。ちゅっ!」
軽いキスだけなのに、なんでこうどきどきさせられるんだろう。
「そうだ! 今日、デートしよう? あのペアルックで」
シュンのゴリ押しで、ついにペアルックが解禁となった。




