シュン8
三者面談を終えて席から立ち上がり、ドアに向いたとき、ふと、背中の真ん中に視線が突き刺ささった気がして、振り返る。先生が、含みのある眼差しでこちらを見ていた。
この人、絶対ハニーのこと好きだよね。
でも、渡さないよ? もう俺のだし。
これみよがしに腕を組んだら、「こら、まだ校内でしょうが」と、なにも気づいていないのんきなハニーに小声で叱られた。
それを眺めながら、表面上はいたって普通に、微笑ましげにしている先生。
これは、俺たちが恋人同士には見えていないんだろうな。
それとも、まとめて自分のものだと思っているのか。
「失礼しました」
ハニーが生真面目にそう言って退出し、先生の視線から逃れるように後に続いた。
これでやっと保護者会が終わった。進路に関して、ひと段落ついた。
それでも、これまでずっと就職のつもりだったから、正直なところいまいちぴんときていないのが今の正直な心境だった。
奨学金と、ハニーとの同棲。それとバイトをもっと増やせば、生活自体はなんとかなってしまう。こんなに、あっけないほど。簡単に、うまくいく。
これから先、好きな人とずっと一緒に暮らせる。どれだけあるかわからない貴重な時間の限りを、共にすごすことができる。
だけどそれを、素直に喜べない自分がいる。
住むところに食事に、なにからなにまで、ぜんぶだ。これから先も頼ってばかり。ほんと情けない。ふがいない。
それに、四年はさ…………長いよ。
せめてもっと俺に非情さがあれば、それか、ハニーが下心しかない最低な女だったら、ここまで気後れしなかったのに。
理不尽とわかっていても、恨みがましく隣をいく愛しい人を見れば、保護者会という行事を終えた達成感の余韻に浸っていた。
なにこの無防備でかわいい生き物。……キスしたい。
空き教室に連れ込もうかと真剣に悩んでいる間に、ハニーが緩んだ表情を元へと戻してしまった。残念。
「そういえば、シュンは文系なんだね。さっきはキラに合わせたけど、将来なにになりたいか考えてから大学を決めたらいいよ」
「だから、一軒家」
「それは目的でしょうが。そこへ到達するまでの過程の話をしてるの」
「お金が稼げるなら、なんでもいい」
やりたいことがないとは言わないけど、ハニーがそばにいてくれるならなんでも。
ハニーは呆れたような、困ったような笑みをにじませると、そこで話をやめてしまった。
……ああ、失望させた。
昇降口にさしかかったところで慌てて口を開きかけたけど、そこで、できれば一生顔を合わせたくない人の姿が目に飛び込んできて、一瞬取り繕えずに息を呑んでしまった。
ハニーは結構勘が鋭い。それに俺の一挙一動に、敏感に反応する。そこはうぬぼれてもいいところだと思う。
目線の先にいるのは、着物の叔母と愛莉。その二人を目にしただけで、ハニーにはすぐに誰かわかったようだった。
それはもちろん、向こうにも。
「……そちらが、例の」
叔母がハニーを蔑みの目で一瞥をして、そのまま目にしていることをも忌避するかのように、まだましとばかりに俺へと視線をやった。
その屈辱に、いっそ退学覚悟で本気で殴ってやろうかと思った。けど、理性が邪魔をして、拳を握りしめるだけで、それを振りあげることはできなかった。
短絡的な暴力で解決することなんて、なにひとつない。
力を持たない俺は、大切な人を貶められても、睨みつけることくらいしかできない。追いつめられて怯える小動物のように、蛇に見据えられて小刻みに震える拳に、ひんやりとしたものが触れた。教室の冷房で冷えてしまった、ハニーの指先だった。
俺よりも小さな手のひらで、優しく包む。大丈夫だと言われているみたいだった。
「ああ、そちらが、例の」
隣へと視線を移すとハニーが、叔母へと同じ口調、同じ言葉、そして同じ眼差しで交戦していた。
うちのハニーは俺とは違って、守られるだけのか弱い人間ではない。
これくらいのことぐらいで、怯むような性格でも。
そして、俺なんかが思いつかないような、突飛な行動を取る。
肩をぐいっと引き寄せられたかと思ったら、ハニーは堂々と、シャツのボタンがはち切れそうなほど胸を張ると、怪訝そうな叔母に向かって言い放った。
「この子はうちの子ですから、人格形成に悪影響を及ぼすようなあなた方には、今後一切関わらないでいただきたい! 私が責任を持って、まっとうな道へと導きますので! あしからず!」
言葉はおかしいけど、いろいろ言いたいこともあるけど、心意気だけは最高だった。
俺の人格に難があって、まっとうな道を歩んでいないみたいに思われていることには納得いかないけど……まあいいや。どんな俺でも、愛してくれるみたいだから。
叔母はやはり眉根を寄せて、珍獣と遭遇したとでも言いたげに、煙たげに袖を口元まで持ち上げた。
愛莉は愛莉で、対抗馬に上がりさえしていないのに、憎々しげにハニーを睨みつけている。
このいとこは俺と一緒で、なにもできない哀れな小物だ。
どこかの脂ぎったロリコンの成金と結婚すればいいのに。
ハニーと並んで、彼女たちの脇を通り抜けたとき、
「後悔しますよ」
叔母が不穏な響きでそう囁いた。
それはどちらにあてたものなのか考える間もなく、ハニーに腕を引かれてその場を後にした。
ハニーはたぶん、いや絶対、幸せな家庭で育ったんだと思う。
だけど彼女の両親や兄弟のことは、これまで聞いたことがなかった。俺のために言わないのだと気づいて、俺からも聞くことはなかった。
でも、今はなんとなく、知りたいと思った。
「ハニー、家族は?」
ハニーが瞬く。
彼女を家まで送る道すがら、そう問いかけてみた。
「私の、実家の話?」
「うん」
「両親は健在で、弟と妹がいるよ。……どっちもシュンより年上なんだけどね」
あはは、とハニーは苦笑した。
まあ、それは仕方ない。十も離れているから。
「あ、あと、犬飼ってる。雑種の」
「えー、いいなぁ。触りたい」
動物は好きだ。愛情をかければそれ以上の愛情と癒しで返してくれる。
それにもふもふはたまらない。そばにいるだけで幸せな心地になる。
「近いうちにね」
シュンのこと紹介しないとだし、と小さくつけ足した。
それって、そのうちに俺のことを両親に話してくれるって解釈で合っているんだろうか。
マジで? ここ、浮かれていいところ?
「俺、ちゃんとハニーのお父さんに殴られるからね!?」
「あの、そんな苛烈な気性の父親、我が家にはおりませんが? むしろ、私が叱られる気が……」
「十八だから、淫行じゃないのにー」
「高校生というだけで、アウトだから」
昔は十代の結婚なんて当たり前だったのに、なぜ現代はこう、未成年者を制限するのだろう。
そんなことを考えながらハニーを家まで送り届けて、ちゃっかりとご飯をいただいた。
あーあ、早く卒業したい。
あのババアたちが口を挟んで来ない、大人になりたい。
ハニーを守る側になりたい。
そんなことばかりを思いながらの帰り道。
「――シュン」
名前を呼ばれて振り返る。まっすぐ道の先にいた人物に瞠目した。
こんなところにいるはずのない人が、俺を見つめて微笑んでいた。




