ハニー32
夫婦の決め事その2、夫の進路の決定には妻が介入する。
ちなみにその1は、夫が高校を卒業するまで、夫婦の営みはなし。というもの一択だ。
これこそ私による私のためのルール。
だって自制しておかないと、シュンがそこまで言うならもういっかな、って流されそうだし。
援交してるおじさんの気分は味わいたくないです、はい。
でもここの高校の制服、女子はかわいいし男子はかっこいいよな。セーラー服しか着たことないから、ブレザー憧れるわ。
そんなほとんど犯罪者のようなことを考えながら、制服姿やジャージ姿の高校生たちがちらほら窺える学校の正門をくぐった。
保護者会があることは全校生徒が知っており、あちらこちらに保護者会に臨む、または終えたお母様方がいらっしゃる。
その中で私は、浮いているような、そうでもないような、案外中途半端な風情を醸し出していた。
母親に見えなくてもせめて先生に見えるようにスーツのままきたから、服装は浮いていない。それに、三十代の若い親御さんだっているだろうし。
だけどそういう、子育てを経験したお母さん独特の雰囲気は皆無わけで、彼女たちの視線にさらされると、さすがの私もそこはかとなく居心地の悪さを感じた。
事前に聞いておいたシュンの教室は四階だという。エレベーターがないとか、苦行か?
不満を胸に、キラに言われて持参した携帯スリッパを履いて、私はえっちらおっちら階段を上る。
携帯スリッパのクッションが逆に歩きにくい。手すりに掴まり二階の踊り場で一息ついて階上を仰ぐと、さらりと涼やかに前髪を揺らしたシュンが降りてくるのが見えた。
窓から校庭が見下ろせるから、私が来校したことを知って駆けつけてくれたのかもしれない。
しかし階段をただ降りてくるだけのことなのに、うちの子はやたらと様になるな。
「ハニー!」
いや、シュンよ。その呼び方だけはやめてくれないか。
人目はあまり気にしないたちだとしても、羞恥心はまだ捨てていない。それでも、シュンがにこりとして差し出してきた手のひらは、無下にできずに取る。
せっかくの親切を邪険にするのは悪い。私の羞恥心より、シュンの好意の方が大切だ。
ハニーハニーとじゃれついてくるシュンをなだめつつ階段を上りきると、廊下にちらほらいたクラスメイトらしき数人の男女が、幽霊でも見たかのように目を見開いて固まった。
お母さんにはちょっと若いからなーって思っていた私は、まったく見当はずれな勘違いをしていると気づいたのは、まったく密やかでないひそひそ声が聞こえてきたからだ。
イケメンで爽やかで優等生。なのにどこか陰がある。そんなところに母性本能がくすぐられて素敵なシュンが、実は、イタい子だったと知った件についての。
えぇー? うちのシュンははじめから、イケメンで甘えっ子で寂しがりやで、どこまでも年上巨乳好きの健全な高校生ですが?
「あれ、今日武史くんは?」
「……なんで、最初に武史のこと聞くわけ?」
しまった。シュンの性格を熟知していそうな武史くんはいないのかと思っただけなのに、逆鱗に触れてしまったらしい。まずい。
「シュンの友達、だから、ね? ほら、あいさつしておかないと。いつもお世話になっております、シュンの家内でございます〜、みたいな?」
しどろもどろだったけど、シュンはころっと機嫌を持ち直した。
「武史は部活。いなくてよかったよ。あてつけちゃったら悪いもん」
……左様で。
「あ、ハニーこっち。まだ前の人がやってるから、静かにね」
私は静かだ。私は。
しかし確かに、今まさにこの目の前にある教室の中では将来を左右する重大な話し合いが繰り広げられているかもしれないのに私語はいかんなと口を閉じて、廊下に並べられた椅子へと着席する。シュンも音を立てずに隣へと腰を下ろした。
「なんかこうしてると、ハニーと同級生になったみたいで新鮮」
普通に話しかけてきたわ。小声なら、まあ、いいか。
一応声を抑えてシュンがくすくす笑い、私もつられて笑む。
「私が高校生だったら、シュンはまず近づかないタイプだわ」
「えー……。もしハニーがクラスメイトだったら、すぐに声かけてたと思うよ?」
「えぇ? たぶんグループ違うからそれはないでしょう」
私は派手でも地味でもなく、クラスの最大派閥に所属していた。そんな普通の女子高生が、イケメンな学園の王子様に告白されるなんて少女漫画的なシュチュエーションは、現実には起こらないものだ。
「いや、話しかけたよ。だってあの日、たくさん人がいる中でハニーに声をかけたのは、純粋に声をかけたいと思ったからだから」
はじめて出会った日のことを言っているらしい。
私はその日すれ違った人たちの中でなぜ、シュンのお眼鏡にかなったんだろうか。不思議で仕方ない。
ただ……もしかしたら、私がシュンの理想とするお母さん像に近かったからなのかもしれないとは思っていた。
シュンが交際相手に求めているものはきっと、母性だと思うから。
膝に目を落としていると、教室のドアが静かに開いた。視線を上げると、女生徒とその親御さんがちょうど中へと向かって一礼をしたところだった。
彼女は待機中の私とシュンを目にすると怪訝そうに首を傾げながらも、
「シュンくん次だって」
「ん、ありがとう」
おぉっ。うちのシュンの、クラスでの顔が垣間見えた気がする。
彼女と交代するように教室内へとシュンの後に続き入ると、教師然とした幼馴染が、机をふたつくっつけた向こう側に座って微笑んでいた。
ちゃんと先生をしている。人の男を取ってばかりいる倫理観の欠如した女なのに、教師に見える。
そしてそんなやつと未だにこうして普通に顔を合わせられる私は、図太いのか、単に根に持たないバカなのか……。
「どうぞ、座ってくださいね」
椅子を勧められて、シュンと並んで座る。
わ、なんか……緊張してきた。身内の懇親会みたいなものなのに。
すべすべした机の冷たい感触とか、チョークの粉っぽさがほんのりと漂う教室のこの空気感とか、この学校に通っていたわけでもないのに懐かしすぎて、ちょっとドキドキだ。
キラが、さて、とばかりに、成績表やらなにやらをめくりながら口火を切った。
「シュンくんは授業態度も生活態度も真面目で先生方からの信頼も厚く、成績も上位をキープしていますね。クラスでは仲のいい武史くんとよく一緒に行動しています。ただ、もっとクラスの輪にも積極的に混じってくれると、先生は嬉しいかな」
今さらだけど、保護者会っぽい……!
「先生、うちのシュンは武史くんしか友達がいないのですか?」
「ハニー!」
むっとしたシュンが、横から軽く肩をぶつけてきた。
しかし大人組は無視して話を進める。
「そうですねぇ、話しかけられれば誰とでも気さくに話はしますけど、自分から積極的に話をすることはあまりないですね」
「あんまり武史くんだけにべったりだと、密かにカップリングされてたりとかしませんか、先生」
「ハニー!?」
「してますね」
「えっ、してるの!?」
シュンが仰天している。
いや、そりゃあそうだろう。武史くんもシュンとはタイプが違うけどなかなかのイケメンだし?
「うわぁー……。しばらく武史と距離置こう」
いやぁ、それはそれで倦怠期だの、喧嘩だのと、おいしい展開を想像させるネタを提供するだけに終わるのでは?
「そこは仲良くしておきなさい。友達なんだから」
ふい、と澄まし顔を背けるシュン。
私の言うことが聞けないのか、この悪い子め。
シュンをねめつけていると、キラがぱんぱんと手を叩いた。
「はい。いちゃいちゃしないでくださいね」
あなたにだけには、叱られたくありませんが。
しかし。ここへはシュンの将来についての話し合いを行うために来たのだった。
私情は隅に置いておかねば。
「今さらだけど、進学でいいんだよね? シュンは文系理系、どっちに進むの?」
「…………文系」
ほお。文系ですか。
英語が得意なのかな? と勘ぐってみる。
それにしても、まだ悩んでいるシュンを後押しすべく、私は密かに調べていた件をキラへと披露した。
「世の中には後でお金を返さなくてはいけない貸与型奨学金と、お金を返さなくていい給付型奨学金があるそうですね」
「そうですね。シュンくんならこのあたりの大学の給付型奨学金が通ると思いますよ」
キラは拍子抜けするほどあっさりと頷き、さらっと何校かのパンフレットを広げて見せた。
ぬかりなかったか……。さすが担任教師。
だけど当事者であるシュンは、ちらっとそれらを一瞥しただけで、
「どこでもいい。一番お金がかからないところで」
徹底してるな、うちの子は。
「じゃあ、ここはどうかな?」
誰だって一度は聞いたことのある東京の有名大学をキラが薦める。しかしシュンは一瞬眉をひそめてから、別の、束の底に埋まっていたパンフレットを引っ張り出してくると、それを一番上へと置いた。
それは地元の国立大学のパンフレットだった。
「ここでいい」
そこならうちからでも電車を乗り継ぎ片道一時間もあれば通える。それにこの辺りではかなり難関な、語学に力を入れている大学だ。偏差値とか、考えるだけで頭が痛くなりそうな。
「一応滑り止めとか――」
「受かればいいんでしょう?」
自信満々か!
「滑り止めも受けなさい。私の心の安寧のために」
なんで人の合否に本人よりもハラハラしないといけないんだ。
「やだ」
ぷいっと、シュンはまた反抗期の子供のようにそっぽを向く。
受験料を無駄に払うのが嫌なのはわかる――が。
三流大学出でも年長者の言うことはちゃんと聞きなさーい!




