ハニー31
一時間。
一時間で人間の膝は、一ミリすらも動かせなくなるほど痺れるらしいことを知った。
「シュンくーん! 私の膝が死ぬ!」
「お仕置きだからだーめ」
かわいい口調で意地悪なことを言うシュンは、私の感覚の失われた膝から頭をどかそうとはしてくれない。これだけ苦痛に喘いでいるというのに、私のことなどおかまいなしに、かなーり昔に録画してあったドラマを真剣に観ている。
今知ったが、シュンの好きな女優さんが主演なのだとか。
その女優さんは私よりも少し年上で、人好きする優しい印象の女性で、なにより、豊満なお胸をお持ちで。
うちの子は安定の年上巨乳好きだった。
「うぅぅ……痺れる……麻痺してる…………くっ! 人が苦しんでいるというのに! 他の女ばっかり見て!」
「えっ、嫉妬!? それ、嫉妬!?」
テレビの向こうの人に嫉妬するほど器は狭くありません!
だけどシュンが勢いよく頭をどかしてくれたから、これ幸いとばかりに麻痺している足がようやく伸ばすことができた。そぉっとだ。びりびりじんじんしている足を、そぉっと片方ずつ伸ばして、そのままソファを背もたれに脱力する。
「死ぬかと思ったぁ……」
まだ感覚は死んでるけどさ、と思っているところへ、シュンが鼻先を近づけてキラキラした眼差しで覗き込んでくる。
「ねえ、嫉妬?」
……しつこいよ、シュン。
心の声が聞こえたのか、浮かれていたシュンが一転、すぅっと底冷えするような微笑みで私の目を見据えてきた。
「嫉妬じゃないならお仕置き再開するよ?」
「嫉妬です! テレビの向こうの女優さんに嫉妬しました!」
なんで私は十も年下の高校生に頭が上がらないんだ?
これではいかんな……。
しかし幸せそうに顔をほころばせて腰に抱きついてきたシュンを、適当にあしらうこともできず、なんとなく頭を撫でてしまう。
なにされても、うちの子かわいいからなー。
「学校はどう? 進学先、決めた?」
「うーん……まだ」
「将来なにかになりたいとか、具体的な目標があるとたぶん選びやすいんだろうけどねえ」
「将来の目標? あるよ? 三十までに自分の稼ぎでハニーと三人の子供とうさぎがのびのび暮らせる一軒家を買う」
……マジか。ある意味現実的かつ具体的な人生設計だけど。
というか、三人かぁ。シュンが大学卒業してからだと、私の年齢と体力的に厳しいんじゃないかな、それは。
だけどまあ、それは先の話だ。どうなるかはまだ、わからない。今は話題を変えよう。
「シュンは、うさぎが好きなの?」
「うん。小学校のとき、飼育係だった。子うさぎが生まれて、係の子たちがみんなそのもふもふをもらっていくのに、俺だけ……もらえなかったから」
施設だったから、とシュンは憂いを帯びた表情で言った。
……よし。うさぎは飼おう。これは決定事項だ。最優先の。
「シュンが大学受かったら、引っ越そうか? ペット可なところに」
私を見つめるシュンの目が期待に満ちて潤んだと思ったら、ぱっと逸らされた。
「シュン?」
「……お仕置き、終わりにする。今度は俺の膝に乗っていいよ」
……うん。乗らないからね?
シュンが膝をとんとんと叩いて示し、私はいやいやと断り続けていると、なんの前触れもなく私のスマホの着信音がほのぼのとした雰囲気を裂いた。一瞬で室内に緊迫した空気が張りつめる。シュンの目がみるみる半眼になっていく。
電話に出るなとは言わないけど、出て男だったら、わかってるよね? という圧力を背中に感じながら私はスマホを手に取った。
なんというか、男ではなけど、もっとめんどくさい相手の名前がディスプレイに表示されていている。条件反射で警戒心を携えて、スマホを耳へとあてた。
「もしもし……キラ?」
「ええ、こんばんは。久しぶりだね」
まったく久しくない。先日ぶりなんだけど。
キラの名前を口にしたことで、シュンが瞬時に顔を強張らせて身構えた。
なにかあるのか?
電話の内容が気になるらしく、険しい顔つきのままスマホの反対側に張りついてくる。
シュンは気になるけど、とりあえずさくっと本題に入るべく私から口火を切った。
「用件は?」
「明後日、午後五時四十五分」
唐突にそう切り返されてぽかんとした私とは反対に、シュンが血相を変えてスマホを奪い取ろうとしてきた。
「こら、シュン!」
シュンが実力行使で私の上にのしかり、私は私で耳からてこでもスマホを離そうとはせずもみくちゃになった。
その争う物音が聞こえているはずなのに、電話の向こうのキラは淡々とした口調で話しを続ける。
「他の人の目を気にして、一番最後にしておいたよ。持ち物は特に必要ないけど、学校のスリッパが嫌なら携帯スリッパを持ってくるといいかもしれないね」
「学校? ちょ、シュン! ――で、なんだって? 私が学校に行くの? って、シュン、こら!」
とうとうシュンの執念に敗北を喫したところだったが、キラの言葉は最後までしっかりと私の耳へと届いていた。
通話を強制終了させられたスマホを握り、じり、と後退して逃走を図ろうとしたシュンの腰へとタックルをかまして捕まえる。
「シュン! 明後日、保護者会なんだって? なんで言わないの!」
「ハニーには関係ないだろう!」
腕の中でもがくシュンの足を、足で蟹挟みする。
「関係大ありでしょう! 私が行かなくて誰が行くの!」
「今までだって保護者なんて誰も――」
「今は違うでしょうが!」
私の真っ向からの説教に、シュンの顔が悲しげにくしゃりと歪む。
「ハニーはっ……俺の保護者じゃない!!」
私に保護者という立場で来てほしくないのはわかる。わかる……けど、
「でも、家族だろうが! 家族だから保護者会に行って先生と君の将来のことを話すんでしょう!?」
「か、家族……?」
毒気を抜かれたように、シュンの身体から力がふっとほどけた。
まったく。世話の焼ける夫だこと。
「シュンが夫で、私が妻でしょう? 今後妻の私は、夫の進路に口出しします。覚悟しなさい」
ぎゅーっと締めつけてやったけど、私の力なんてたかが知れているのであまり効果はない。むしろ抱き返される力に私が苦しい。
「…………うん」
シュンのその頷きで、やっと折り合いがついた。
もみ合ったせいで服がはだけまくりで、そのあとシュンに散々迫られ疲弊したが……それはまた別の話だ。




