ハニー29
シュンは寮に帰らずうちに泊まり、朝、なぜかまだ離れたくなさそうなそぶりでバス停までついてきた。
バスに乗り込んだ私を切なげな眼差しで見送ってくるから、ただ出勤するだけのことなのに、胸を痛めなければならなかった。
これが永遠の別れじゃないんだからね?
周りに気を遣いつつ小さく手を振ると、はっとしたシュンの手があがり、唇が「いってらっしゃい」と動くのが見えた。
その儚げな微笑に、なにか悩みがあるのは歴然で、それがシュンの親戚関係なのもわかる。
だけど私が介入していい問題なのか、どうなのか……。
ため息ばかりついている間に会社に着いていて、俯きながらエントランスでエレベーター待ちをする私の頭上に、ふいに背後から大きめの影が差した。
「Guten Morgen!」
ふぎゃあ!
外国語恐怖症を罹患しかけている私は、痙攣並みに身体をびくっとさせておずおず振り返ると、そこに例の外人さんが、愉快そうに目を細めて立っていた。
流暢な日本語話せるくせにー! この悪徳外国人が!
「……お、おはようございます」
日本語で返すと、ちょっぴり残念そうにおはようと返してきた。
なにを求めているんだ、なにを。
「あなたが、ミツ・ハチヤ? タツミ・リュウザキの元婚約者の」
なんか知らん間に元婚約者になっている。なぜだ。
しかもミツじゃなくて微妙にミットゥに聞こえるし。わざとっぽいけど。
しかし訂正するのも手間だ。
「YES、……って間違えた!」
だめだ! 目の前に金髪碧眼がいたらどうしても無理して英語使ってしまう。英語圏の人じゃないのに。
ぷっ、と彼は口元を手で覆い吹き出した。
くぅ〜。また笑いを提供してしまった。悔しい。
「私は、Alexandr。アレク、と呼んでね」
ウインクつきでお茶目な感じて言われましても。私よりも一回りほど年上なのに。
「ショウシンしている?」
傷心、ですかな?
「いいえ、してません。浮気するやつは死……許しませんので」
危ない危ない。シュンのが移って、浮気するやつは死ね! と言うところだった。
そこまでは思っていない。そこまでは。
「そう? だったら今日、私とデートしませんか?」
「はぁ…………はぁ!?」
「では夕方、迎えにきますね」
では、ではなくて。
ぽかんと間抜けな顔をさらしている私をひとり取り残し、アレク氏は颯爽と長い足でエレベーターに乗り込むと行ってしまった。
一拍置いて、はっとする。
「いや、エレベーターよ! なぜ待たんのか、この裏切り者!」
ぴしゃんと閉まったエレベーターに盛大に突っ込むも、うぃーんという上昇する機械音だけがむなしく響く。
なんかわからんけど、外国人さんとデートすることになった。連絡先を知らないから断りの電話やらメールができない。
シュンの怒りが目に浮かび、ぞっと身震いをしながら両腕をさすった。
そして業後、見計らったかのように会社の前に一台の車が停められた。
日本にも馴染みのある外車のエンブレムがついている。
しかし詳しい追随は控える。私が車に詳しくないのがバレそうだから。
アレク氏は私を見つけて運転席から降りると、スマートな仕草で助手席のドアを開けてくれた。本物の紳士だ。
しかし私はここで、丁重にお断りしなくてはならない。
だってっ、うちの子こわい! 万が一知られたとき、冗談抜きで監禁される……。
「ごめんなさい! デートは……できません」
一気に頭を下げて戻すと、淡い金色のまつげを瞬かせるアレク氏の、きょとんとした青い目と目が合った。
「なぜ? 食事するだけだよ?」
食事だけ、か。それは浮気にはならない……かな?
――でも、
「結婚したんです。達巳と別れてすぐに、出会った人とその日に」
変わり身早いなとか、呆れられるかな、と思ったけどそんなこともなく、一瞬だけ目を見張ってから、彼はにこりと微笑んだ。
「日本でもそんなことがあるんだね」
「あるんですよね、まったく驚くことに」
ははは、と二人でひとしきり笑って、気がつくと車に乗せられていた。
なーぜーだー! お断りしたよね、私!
「友人とディナーくらい、平気平気」
いつ私に外人の友達ができたんだ。世界中みんな友達か。
アレク氏は運転しながら、どこ吹く風だ。
なんて気ままで自由な人なのか。それとも日本以外のお国はみんなこうなのか。
「せっかくだから寿司にしよう」
そう言ってアレク氏が私を連れてきたのはもちろん回転寿司などではなく、お値段が書かれていないお寿司屋さんだった。
回転寿司でコーンマヨから食べはじめる私は、一体なにから手をつければいいのだろうか……?
カウンターに座るアレク氏に続き、私も頭に引っかかる暖簾を払いのけて恐縮しながら隣へと腰を下ろす。
「好きに頼めばいいからね」
注文を悩みに悩んでいる私へと優しく声をかけてくれたアレク氏には悪いが、日本人としてのプライドをずたずたにされ消沈する。
ネクタイを軽く緩めて、慣れた手つきでおしぼりを使うアレク氏を少々恨みがましく盗み見たとき、彼の首元に銀色の華奢な鎖と、ダイヤモンドらしき輝きが一瞬覗いて見えた。
あまりじゃらじゃらとアクセサリーをつけなさそうな雰囲気だったから、なんかちょっと意外だ。
じっと見入っていたからか、アレク氏は首元に手をあて苦笑した。
きっと大切なものなのだろうな。
「お守りですか?」
ええ、まあ、と彼は曖昧に頷いた。
それ以上突っ込んで問うほど親しくはないので、私は素敵ですねと、あたり障りない感じに話を終わらせてお品書きへと目を移した。
もうあれこれ考えず、食べたいものを頼もうとしたとき、ふと浮かんできたのはうちの子の顔で。
おいしいものを自分だけが食べるという罪悪感で胸が痛い。
お土産とか、お持ち帰りとか、テイクアウトが可能なのかどうか聞くべきか否か……。
「たっ、大将! 持ち帰りとか、できたりしませんかね?」
キレのよい包丁で魚の切り身にしていた大将の鋭い眼光が私を向く。
こわっ、と内心大汗をかいていると、「できますよ」とそっけないが普通の言葉が返ってきて胸を撫で下ろした。
うちの腹ぺこシュンくんは今日はバイトだから、帰りを捕まえてお土産持たせてあげようかな〜。
シュンにご飯を食べさせる想像するだけで、自然と口が緩んでしまう。
「……結婚したという、彼に?」
「そうですよ。自分だけおいしいものを食べるのは気が引けて」
ほくほく顔でおしぼりを使っていると、アレク氏が私を眺めて妙にうっとりと目を細めた。
「ミツのそういうところ、好ましいです」
「またまた〜」
知り合ったばっかなのに。どうせみんなにそう言ってるんですよね。勘違いしませんよーだ。
「ああ、惜しかった。もう少し早くに発見してアプローチしていれば。……今からでも、遅くはないでしょうが」
なんか不穏な呟きが聞こえたけど、聞かなかったことにしてコーンマヨを注文した私は、大将に鬼の形相で睨まれた。
アレク氏は完全なる妄想の外人さんなので、色々とおかしなところがあるかもしれませんが、フィクションとしてさらっと流していただけたらと思います( ;´Д`)




