シュン2 ちょっとハニー
親がいないことを嫌味っぽく言われることには慣れていた。
なにか問題を起こせばすぐに、親がいないからと結論づけられる。だから外面だけはよくなった。
人の気持ちを読むことに長けるように、相手の望んだ通りに行動するような癖がついた。……他人には、特に。
最近では親がいないから、ではなく、親がいなくても、に評価が変わってきたところだったから、ちょっと油断した。
あーあ。ハニーの前でまた子供みたいに醜態をさらしちゃった。
ハニーは危なっかしくて抜けているように見えるけどやっぱり俺よりも大人で、聞かれたくないことは無理に聞き出そうとはしないし、それを匂わせるようなこともしない。
それなのに、あの浮気男……。わかった上で弱みを突いてくるあの性格の悪さ。だから大人の男は嫌いだ。
でもハニーは、捨て猫とか無視できないタイプのお人好しだと思うから、たぶん俺を追いかけてくる。
ただ、俺にも男としてのプライドがあるし、気まずいから、足早に寮へと帰ろうとした。――が。
「――あ、いたいた! シューン!」
さっそく追いついてきた彼女に気づかないふりをして横断歩道を渡ると、タイミングよく信号が赤に変わる。安堵したが、ハニーは予想の斜め上をいって、赤でも駆け足で渡ってきた。
車道もまだ赤だったからよかったものの、轢かれたらどうするんだよ!
「待って待って、シュンくん!」
息を弾ませながら俺の肩に手を置いて引き止めたハニーの額へと、振り返りざまに手刀を落とした。
「あたっ」
「信号は赤で渡ったらだめって、習わなかったの? 轢かれたらどうすんの?」
俺みたいな年下の、しかも高校生に叱られたからか、ハニーは目を丸くしながら、頭をさすっている。
やば、……なにこれ、かわいい。
潤んだ瞳で上目遣いで見られると、こんなときなのにちょっとたまらない。
「ご、ごめんよ……」
「うん」
頷いてから、ハニーに背を向けて歩き出すと、さりげなく隣に並んできた。
おの浮気男は置き去りかと思うと、ちょっとだけ溜飲が下がる。
「あのおじさんには、私から天罰を下しといたからね」
ふっふっふっ、と意味深に笑むハニー。なんか呆れるくらい、悪代官みたいな顔になっている。
うん。そんなところも、かわいいよ?
「あの人と、よりを戻したりしないよね?」
「しないしない! 未来永劫、私はやつと関わるつもりもないし!」
それを聞いて、ほっと一安心した。
あの男がなにかしたところで、このお姉さんは俺のもの。薄っぺらい紙一枚でも、法律という名の強固な鎖で縛られている。
俺が離婚届を書かなければ、ハニーは永遠に別れられない。
もし、ハニーが身体を許してくれたら、ずぶずぶにかわいがって俺から離れられないようにできるのに。
てっきりご飯と引き換えになにか奉仕させられると思ったから気持ちが冷めかけたけど、違った。
ハニーは筋金入りの、ただのお人好しだった。
でもこれまで、誘って拒絶されたこと、なかったのになー。
ま。そんなところも、気に入った要因ではあるけど?
「また付きまとわれるかもよ? あの人が諦めるまで、俺と結婚したままにしておく方がよくない?」
さりげなく誘導すると、ハニーがふむと唸った。行動とか言動とか、ちょいちょい古くさいところがある。
これは育った環境とか、年の差以外の要因な気もする。
「……なるほど。賢いな」
うん。ハニーはちょろくないけど、あんまり頭はよくないよね。簡単に騙されてるしさ。
「でもシュンよ。学校に説明とかしなくていいの? 在学中に結婚とか、退学ものじゃない?」
「黙ってればいいんじゃないの?」
うちの担任、教え子に手を出してたっていう強烈な弱みがあるから、バラしても黙認してくれると思う。
楽観視している俺とは対照的に、ハニーが大きなため息をついて、びたんと額を押さえた。
「がっつり名字変わってるんだから、バレるでしょうよ。それに、就職するなら不利になるよ」
大人の顔で、ハニーが俺をまっすぐ見据えてきた。
ほんと、そういうところはちょろくない。むしろ察しがいい。言ってないのに、就職する前提で話を進めてくる。
「学生結婚って、不利になるの?」
それは普通に困る。でもそんなことよりも、ハーイェクの名で面接受けると、面接官は確実に困惑する。
説明に時間が取られると、必要なアピールが十分にできない。
かといって、もうひとつの名字を使うのだけは、死んでも嫌だった。
「大学生の学生結婚と、高校生の結婚は違うの。学生同士じゃないから、まだ、あれだけど。…………最悪、私が責任とらないとかなぁ」
「え?」
責任とか聞こえた気がしたけど……?
「いや、なんでもないよ。シュンのためには、早めに離婚するのがいいんだけどね。離婚した後でも、蜂谷の姓が使えるから、ね? 今はお別れしようか?」
子供に言い聞かせるみたいに、優しく諭してくるが、それくらいは知ってる。
はじめは適当な人と結婚して、名字だけもらうつもりだったから。
だけどさ、ハニーと離れたくなくなっちゃったんだから、仕方ないよね?
周辺に煩わしい虫もついてることだし。
「離婚はやだ」
「ちょ、だだこねないの! 自分の将来のためでしょうが!」
「だってハニー、俺と別れたらあの男じゃなくても、他の男と結婚するかもしれないし」
それにすぐによその犬やら猫やら、なにかしらの飢えた動物を拾いそうだ。それこそ、……人間だって。
そんなハニーは、ほんのりと頬を染めながら、視線をあちこちにさまよわせてから、おずおずと問いかけてきた。
「……なんか、おばさんの自惚れとか正直キツイけど、違ってたらものすごい恥なんだけど……シュンくんや。君……私のこと好きなの?」
「好き」
改めて訊かれると照れるが、率直な想いを伝えておいた。ハニー相手だと、迂遠な言い方で伝わらないだろうから。
「その好きは……あれかな? 優しいお姉さんとして、ってことかな?」
「それもあるけど、毎日ハニーのご飯が食べれたら幸せだなって」
心のままに言ってから、あ、間違えた、と思った。
プロポーズの言葉としてはありふれている上、俺が言うと、くちばしを広げる雛鳥のような印象を与えてしまった気がする。
「ご飯ならいつでも食べさせてあげる。だけどね、シュンを養ってあげれるほどの稼ぎはないのですよ。うちはちっさな会社だから」
ハニーが自嘲じみた苦笑をしながら言った。
彼女のことだから、お金目当てで結婚したと疑っているわけではない。純粋に、俺のためを思っている。
――でも、だ。
あの浮気男が突きつけてきたのが現実で、俺のはただのわがまま。
お金があればいいと思ったことは何度もある。バイト以外で稼ぐこともあった。
施しがもらえるのならもらうよ。同情してくれるなら、それを利用することにためらいなんてない。
だけど、なんでかな? この人にだけは、かわいそうな子だと思われたくなかった。
「養ってなんて、……言ってないだろう!」
ぽかんと目を見開いて驚く彼女の前から、俺はくしゃりと歪んだ顔を背けて走り去った。
あーもう! 俺は女子か!
*
やってしまった。
たぶんおそらく間違いなく、シュンの矜持を傷つけた。
でもさあ、現実問題として、あの子の将来が一番大事じゃない?
私はいいよ、バツがひとつつくくらいだから。私くらいの年でバツひとつなんて、珍しくもなんともないし。
ああ見えても多感な時期の男子高生だから、年上の女性に憧れを持つこともあるだろう。
公言していた通り、年上好きのようだから。年長者として、一時の気も迷いのそれを、身体では無理だけど心で受け止めるくらいの度量はあるつもりだ。
庇護欲がむくむくと湧き上がってきている私としては、このまましばらくは愛でてもいいかなぁなんて思いはじめていた。
シュンがそのままがいいと言うなら、今の状態を維持しつつ彼の将来を考えないといけない。
色々案がないことはない、けど……。
「――放棄。もう先延ばしにする!」
シュンの後ろ姿はもう見えない。今さら追いかけて無駄だろう。
私はなにも考えないことにして自宅へと、踵を返したのだった。




