ハニー1
どこかから、スマホのアラーム音が聞こえてくる。
うぅぅー……ん、もう朝……?
だけど耳慣れたそのやたら軽快なメロディーがやけに遠く、そしてくぐもって聞こえている。
私は頭までずっぽりと潜った布団から腕を伸ばして、サイドテーブルの上を探った。でも指先なぶつかるのはこの間奮発して買ってしまったアンティーク風のランプだけ。
あれぇ、ないー? …………ああ、そっか。鞄に入れっぱなしだったわ。
納得して、いつものように身体を起こそうとした。でも、起きれなかった。
頭が重くて枕から上がらない。
どうしよう、ものすっごい、頭痛いっ!!
二日酔いの痛みに、大泣きして自律神経ぶっ飛んだ痛みがプラスされたような鈍痛。
あまりの痛みにこめかみを押さえて悶えた。
がんがんなどというかわいらしい擬音を通り越して、ごわんごわんしている。
なにこれ。死ぬの?
私、なんか重篤な病気を発症したんじゃ……と、思いかけたところで、昨日あった出来事を思い出した。
正直忘れていたかったけど、残念なことに思い出してしまった。
彼氏を、また幼馴染に寝取られて、泣きながらやけ酒したんだった……。
というか、あいつ。もう彼氏でもなんでもないわ。ただの知り合いだ。
そもそも幼馴染の方も、昔からの友達っていうよりかは、ただの腐れ縁なだけだったし。
それに……、まただし。
なんでみんなあの子の見た目とか、雰囲気とかに騙されるんだろう。
あんな、心に闇を飼っている女に……。
まあ、幼馴染のことは置いておくとして、元カレだ。
本当に腹立つ。二、三発殴っておけばよかった。
頭痛と後悔に顔をしかめながら、こめかみを押さえて、ベットから転がり出ようと左を向いた……のはいいが、そこで私の身体は停止した。
ぶつかったのだ。そこに、あるはずのない障害物に。
頭痛のせいで気づかなかったが、よくよく隣を見ると、狭いシングルベットの左半分が不自然に、こんもりと膨らんでいるではないか。
そう、まるで……人が一人、丸くなって眠っているかのような……。
あまりにおそろしい想像に、痛みも忘れてさぁっと青ざめた。
真っ先に確認したのは、ここが自分の部屋であること。さっきランプに触ったけど、もう一度部屋全体をぐるりとこの目で確認して、ひとつ安堵した。
なんかテーブルの上が、パーティーした後のような散らかり具合なんだけど、部屋を間違えたわけではなさそうだ。
だったら、次だ。
私はおそるおそる自分自身を見下ろした。
昨日着ていた服のまま。
……ストッキングは伝線しているが。
それはそれでどうかと思うけど……うん。幸いノーブラでもなさそうだ。
どうやら最悪の事態は起きてないらしい。
そもそも隣で丸くなってるのが人とも限らないし。捨てられた大型犬を拾った可能性も、なきにしもあらずでしょう!
あはは、と笑って、布団をめくり――速攻で元に戻して、両手で顔を覆った。
はい、アウトー!! お持ち帰りしてしまったぁー……!
なんてことだ……。
しかも顔つきや肌ツヤが、若い人のものだった気がする。
一瞬だったけど、ハタチ前後だった気がする!
私はもう一度布団をずらし、隣でよく眠る人物をよく観察してみることにした。
さらさらとした前髪をそおっとどける。その下に隠されているのは、なんとも無防備でかわいい寝顔だ。
毛穴はどこだ、と尋ねたくなるくらいの瑞々しく健康的な肌がうらやましい。若さが憎いわ、このやろう。
伏せられたまつ毛は長く、控えめな泣きぼくろがひとつある。鼻は高すぎず低すぎずまっすぐ通っていて、唇は桜色でつやつやしていた。
おおっ、なかなかなイケメンじゃん。
なのになんでこんなアラサーの、涙で化粧のはげたストッキング伝線女にお持ち帰りされているんだよ、君……。
ああ……、やってしまった……。いや、やってはないけど。
私が布団を剥いだことで寒くなったのか、青年は眉間にシワを寄せて身体を縮こまらせた。
これ、起こすべき? だけど、せっかくよく寝てるしなぁ……。
寝た子は起こすな! が、うちの家訓だし。
それに、眼福だしね!
枕に肘をついて、にまにましまがら眺めていると、無粋なスマホのアラームがまた鳴りはじめた。
すっかり忘れていたけど、スヌーズさんは今日も真面目に私を起こそうとしている。
はいはい、今行きますよ!
丸まる青年をまたいで床へと降りて、頭痛をこらえて鞄の置かれた玄関まで這っていった。
玄関マットの上でばたりと倒れている黒の通勤用鞄。昨日までとは違う部分がひとつあり、首をひねる。
紐に買った記憶のないファンシーな人形がついていたのだ。
手のひらサイズで、レースのドレスを着た、愛らしい顔立ちの女の子の人形。
人形というより、ドールと称した方が正しいかもしれない。
あれ? これってもしかして、ゲーセンのUFOキャッチャーにあった……。
手にした人形と目が合い、鈍く痛む頭の底の底から、失われていた記憶がじわじわと蘇ってきかけたところで、背後に気配を感じた。
はっとして振り返ろうとしたけど、私の方がわずかに遅かった。
斜め上から伸びてきた青年の両腕に、背中から閉じ込められて、息を呑む。
「おはよー、ハニー」
甘えたその声にかぶせて、警告音のようにアラームが鳴る。
「お、おはよう……?」
疑問形な私の返事が不服だったのか、戒めが強くなった。おかげで彼の息遣いを耳朶で感じてしまう。
「なに。忘れちゃったの?」
忘れちゃった、ですと?
いやむしろ、忘れちゃってたら、どんなによかったか。
私の身体は正直にだらだらと汗を流す。
冷や汗って、本当に出るものなんだ。背中だけではなく、あちこちの毛穴から。
そんなどうでもいいことを考えて現実逃避していると、耳元で彼が、意地悪く囁いた。
「もちろん、忘れてないよね?」
酒に呑まれて犯した私の失態を、彼はそのたった一言で表した。
――昨日、結婚したこと。
「あ、はは……」
とりあえず私にできたのは、引きつった顔で笑うことだけだった。