③王子の城
眠る時も起きている時も、美雨は家にいる間じゅう、ずっと窓の外を眺めていた。
白い城壁の中、日毎に高くなる丘の上の塔。
そのどこかに誠司朗がいる。
そう思うと機械音が空に響くたび、美雨の眼には広い背中が浮かんだ。クレーンが長い首で機材を動かしていると、黒く焼けた太い腕が浮かぶ。
日が暮れると塔の中から照明がもれ、溶接の火がちろりちろりと揺れる。
暗い部屋の中でも、あそこに誠司朗がいる。それだけで美雨は寂しくなかった。
明日になれば誠司朗に会える。美雨は幸せな気持ちで眠れた。
ところが幾日か過ぎたある日。
突然、何の前触れもなく誠司朗は美雨の前に姿を現さなくなった。
他の作業員たちは何も変わらず同じ時間同じように休息をとるのに、朝も夕方も誠司朗だけがいなかった。
二日経ち三日が経った。一週間経っても誠司朗の姿はない。
もう美雨は我慢ができなくなり、勇気を出して道端で休憩している巨人たちに近づいた。
「あ、あ、あの!」
震える手を握りしめ、俯きながら必死に声を振り絞る。
「セージロ、どこ!?」
泣いているようにも見える少女の突然の出現に、男たちは目を丸くした。
だが誠司朗がいつも構っている少女だと気づくと、彼らは口元を綻ばせる。
小さく震えながらもありったけの勇気を出した少女に、彼らは応えてやりたくなった。
「あいつは作業中に事故っちまってな」
「!?」
美雨は聞いた言葉に思わず顔をあげた。
「でも大丈夫だ。ちょっと骨、折っちまっただけで、大したことない。心配なら、会いに行くか?」
ひとりの白髪の男はそう言って優しい微笑みを彼女に向けた。
「あそこのアパートにいる。一階の一番奥だ」
男が指差したのは、車道を渡った路地の奥に見える白い建物だった。
「お嬢ちゃんが行ってやれば、あいつも喜ぶよ」
美雨は大きく頷いた。
「心配してくれて、ありがとな。一人で行けるか?」
彼女は再び大きく頷く。
「そうか、気をつけて行けよ?」
「あ、ありがとう、ございます」
美雨はぺこりとお辞儀すると、ぱたぱたと駆けて行った。
「あいつも、罪づくりな男だねえ。あんなおチビまで夢中にさせちまうなんてよ?」
男たちは小さな姿を見送りながら、その健気さに顔を見合わせて苦笑した。
美雨は教えられた場所の言われた扉をノックした。
すぐに返答はあったが、ドアが開けられるまでに幾らか時間が掛かった。
じっと待ち続けた美雨の前に現れたのは、右足にギブスをはめ松葉杖をついた誠司朗の姿。
「美雨じゃねえか!どうした!?よくここが分かったな」
誠司朗は思いにもよらぬ訪問客に心底驚いているようだった。
美雨はやっと会うことが出来た喜びと安堵に泣きそうだった。だが誠司朗を困らせたくはないとぐっとこらる。
「ケガしたの?」
「ちょっとしたヒビだからすぐに治るよ。医者もこれぐらいでよく済んだなって驚いてた」
誠司朗は後輩の不注意で崩れた機材の下敷きになったと、何でもないことのように笑って話した。
「お茶でも飲んでくか?」
「うん!」
誠司朗はダイニングチェアーにしているパイプ椅子を引くと、そこに座るようにと言った。
靴を脱ぎ部屋へ上がった美雨はゆっくりと見まわす。自分の家と大して変わらない間取りだと美雨は思った。だが誠司朗の部屋の方が綺麗に片付いていて、変な匂いもしない。
「ほい」
出された麦茶は大きなガラスのコップに入っていた。美雨が両手でやっと持てるぐらいだ。
誠司朗も美雨の向かい側に座って同じように麦茶を飲み始めた。
「あ、そうだ」
何かを思い出した誠司朗は、器用に松葉杖をつきながら奥の部屋へ入っていく。
戻ってきたその手には一冊の本があった。
「美雨、本読むの好きだろ?これ、読んだことある?」
誠司朗が差し出した本の表紙には、「アンデルセン童話、人魚姫」とあった。それはまだ美雨が手にしたことのない物語だった。
「人魚姫?」
「そう。字が多いから少し難しいかもしれないけど、でも美雨ならきっと読めるんじゃないかな」
誠司朗の手から本を受け取ると新しい本の匂いを美雨は感じた。
「この人魚、美雨に似てないか?」
誠司朗が指差したのは表紙の絵だった。
鉛筆でデッサンされたひとりの人魚姫が長い髪を風になびかせ、海辺の岩の上に座わっている。こちらを真っ直ぐに見ているその目は、寂しげでもあり幸せそうでもあった。
「目元とか雰囲気がさ、どことなく」
美雨にはよく分からなかった。人魚の方が随分と綺麗だし、意志の強そうな目は自分には似つかわない、そう思った。
「美雨はきっと、大きくなったらこの人魚みたいに美人さんになるぞ?」
美雨は目を見開いて誠司朗を見上げた。
「ほ、本当に?」
「それはもうきっとモテモテだ」
からかったような口調だというのに、誠司朗の言葉は美雨の心に深く染み込んでいった。
みんなに嫌われ汚いと言われる自分も、いつかは人に好かれることがあるのかもしれない。そう思うと美雨は嬉しくなった。
だがそれ以上に、誠司朗自身に「美しくなる」そう言われたことが美雨をこの上なく喜びに満たしていた。
誠司朗が自分に似ていると言った人魚姫。いったいどんな人物なのか、それだけで美雨は知りたくてたまらなくなった。
「今、読んでもいい?」
「いいけど、暗くなる前にちゃんと帰れよ?」
注意しながらもどこか嬉しそうに笑う誠司朗に美雨は大きく頷くと、胸を高鳴らせて本の表紙を開いた。
最初の一文を読んだ時から物語の中へ引き込まれていき、美雨は人魚姫となってその世界を漂った。
話が進んでいくほどに、ぼんやりとしていた王子の姿が次第に誠司朗に変わっていく。
不思議な感覚だった。
経験などしたことがないのに、人魚姫の感情や行動が美雨には自分の言動のように思えた。
読み終えると海の底から上がっていくように意識が浮上する。
はっきりしていく視界の中に誠司朗の背中が映った。
松葉杖を脇に挟み、鼻歌交じりに食器を洗っている大きな、大きな背中。
このままいつまでも眺めていたいと言う気持ちと、今すぐ飛びつきたいという衝動に美雨は胸がはち切れそうになった。
それはまるで人魚姫が海から王子を眺めていた時のように。
本を閉じる音に気づき、誠司朗は美雨の方を振り返った。
「どうだ?その話、気にいった?」
ゆっくりと頷く美雨に、誠司朗は満足げだ。
「じゃあ、それ、プレゼント」
美雨はいいのかと、目を見開いて誠司朗を見上げた。
「そのつもりで買って来たんだ。大切にしてくれるか?」
美雨は本をぎゅうと両手で抱きしめ、満面の笑みをこぼした。
「あり、ありがとう」
「よし。じゃ、それ飲んだら、今日はもう帰んな?」
誠司朗の言葉に、さっきまで輝いていたはずの美雨の顔色は瞬く間に暗くなっていく。
楽しいことが終わる。単にそれが嫌なのだろうと誠司朗は思った。
「駄目だ。もうすぐ5時になるだろ?あんまり遅かったらお母さんが心配する」
「ミウのお母さんが?」
「そうだ」
「そう、なんだ」
下を向いた美雨の顔は無表情で感情が何も読み取れない。
誠司朗は今までに見せたことのない美雨の姿に、どこか違和感を覚えた。
だがこれ以上美雨を気落ちさせたくはない。声色を出来るだけ優しくし、誠司朗は笑いかけた。
「しょんぼりするなって。また明日来たらいいだろ?」
美雨はパッと顔を輝かせる。さっきの無表情は気のせいだったのかもしれない。そう思える程の変わりようだった。
「来てもいいの?」
「いいよ?その代わり、一緒に家のことしてもらおうかな。俺、この足だし」
分かったと言って麦茶を飲みほす美雨を見つめながら、誠司朗はしばらく様子を窺ってみることにした。