②王子と少女
窓の外は丘の上の白い城壁はそのままに、空が青く晴れ渡っていた。
美雨は身支度を整えランドセルを背負う。
肩に乗るその重さに石鹸の香りを思い出し、肩ベルトを掴む手に力が入った。
さっき公園でしっかりと髪を洗った。きっと臭くないはずだ。美雨はそう自分に言い聞かせ、ドアノブに手を伸ばした。
昨日は言えなかった言葉を今日は絶対に言おう。
そう心に定めていたはずが、青い空の下に出てると、今日は丘に行くのをやめようかという気になる。
きっとまたあの大きな男たちがいる。美雨の心臓は思い出しただけでひどく打ち、ぎこちない動きをしてしまうのだろうと思うと、彼らの傍を通るのは気が進まない。
だが丘を登らずに迂回すれば、いつもより登校に時間がかかってしまう。
それにクラスメートや上級生たちの通学路を通れば、またしつこく絡まれるに違いない。
美雨は一度自分の体を嗅ぎ、服も汚れていないかを確認すると丘に向かった。
だが頂上には、男たちの姿はなかった。
あのメガネをかけた青い人もいないのか。
少し残念な気もしたが、これで緊張せずに済む。
美雨の小さな肩はほっと安堵のため息と共になで降りた。
「おはよう」
「ひぃっ」
背後からの突然の声に美雨は飛び上がる。
振り返ると、昨日の男が鋼板のゲートからから顔を出していた。
「学校か?気をつけてな」
軽く手をあげる男に美雨は口を開こうとしたが、声がでなかった。
アリガトウ。
ただそれだけの言葉がどうしても言えないもどかしさに苛立ち、美雨はまた男から逃げるように走り出した。
学校に着いても、美雨はもやもやとした気持ちがずっと続いた。
ありがとうも言わずに逃げてしまった自分のことを、彼は怒っているだろうか?
こんな自分に笑いかけてくれたというのに。みんなの笑顔を消してしまう、こんな自分に。
美雨は今度こそちゃんと言おうと決意した。
夕方、また昨日と同じ時間に丘を登れば、同じ場所で男たちは休息をとっていた。
だが美雨の探している顔はどこにもみあたらない。
意気込みもむなしく、美雨は俯きながら彼らの傍を通り過ぎようとした。
「お!今帰りか?」
顔をあげてみれば、タオルで額の汗を拭きながら男がこちらに向かってくる。
美雨は見る見る顔を赤くし再び俯いた。
「き、き、きのうは……」
美雨は今にも消え入りそうな声を振り絞る。
「ん?なんだ?」
聞き取ろうとして男は美雨の顔の前に耳をつき出した。
美雨はビクリと肩を震わせ、首を後ろへ引く。
焼けたチョコレート色の頬や首筋に流れる汗が太陽の光を反射させている。
昨日と同じ石鹸の香りが美雨の鼻をかすめ、小さな心臓がどきりとした。
走り出したい衝動をこらえ、美雨は一歩うしろへ下がった。
「あの、あの、あ、ありがとうっ!!」
叫ぶように告げ、俯いた姿勢から深々と一礼する。
ランドセルの中身がガサリと頭の方へ偏り、美雨が姿勢を戻すと再び音をたててもとに戻った。
男が「どういたしまして」と返答をするやいなや、美雨は駆けだした。
「何だ?昨日の礼か?」
一部始終を見ていた同僚たちは少し苦笑している。
だが男は、「そうみたいだ」とどこか嬉しそうに笑っていた。
ついに言えた。美雨の胸は清々しい気分でいっぱだった。
心臓は胸を突き破りそうなほど打ち、服の上から抑えてもいっこうに鎮まらない。
だがその顔に笑みが漏れていることを、彼女は自分でも気づいていなかった。
その日から決まって男は美雨を見かけると、「いってらっしゃい」、「お帰り」、そう笑いかけるようになった。
だが、こくりと頷くだけの美雨に、男は、大人から声をかけられることを嫌がっているのかもしれないと思った。
それでも、子供だというのにひどく内気で表情に乏しい少女が気になり、男は声をかけずにはいられなかった。
ある朝、男のもとに機材の発注トラブルがあったと上司から連絡が入った。
指示通り自宅から請負会社へ直行するも、単なる記入ミスだったため早々に解決した。だが、現場に入った頃にはもうとっくに美雨の登校時間を過ぎていた。
今日は煩わしい大人がいなかったと、少女はほっとしているのだろうか。男はふとそう思ったが、すぐに仕事に追われ気に留める暇はなかった。
だが、その日の夕方。下校してきた美雨が男を見つけると、顔を赤くしていくのと同時に彼女の口元が緩むのを彼は見逃さなかった。
どうやら嫌われてはいないらしい。
男はいつもより満面の笑みで美雨に声をかけたのだった。
それから数日が経った頃、美雨は目を反らしながらもぼそりと返事をするようになった。そしてもう何日か経つと、ちらりと男の顔を見るようになった。
そしてついには、「いって、きます」とその小さな手を男に向けて振ったのだった。
少しずつ心を開いていく美雨の変化に、ささやかながらも男は喜びを感じずにはいられなかった。
梅雨も終わりに差し掛かったある日のこと。
委員会の集まりが行われていたために図書室に入ることが出来ず、美雨は仕方なく帰ることにした。
いつもより早い下校時間ではあの男に会えないだろう。
それが残念に思え美雨の足どりは重たい。
じっとりとした暑さを覚えながら美雨は丘を登った。
坂の途中で顔をあげると、ゲートの外でアスファルトに座っている人影がある。
遠目でも青いニッカポッカがよく目立ち、目を凝らせば眼鏡をしている。
美雨の歩調は速くなり軽やかになった。
「こ、こんにちは」
か細くも透き通った声に男は顔をあげる。
美雨を見て少し驚いたようだった。
だがすぐに男は笑顔を浮かべた。
「よっ!今日は早いね」
美雨は胸の奥がくすぐったくなり思わず目を反らす。
いつもならこのまま歩いていくのだが。もう少しだけ、ここにいたい。そう思った美雨は黙って男の隣りに座わった。
ランドセルがアスファルトに当たり肩から少し浮くのも構わず、美雨はただじっと男の横にいる。
「どうした?一緒に休憩するか?」
下を向いたままこくりと美雨は頷く。
男はそうかとだけいうと、持っていたペットボトルに口をつけた。
ごくり、ごくりと男の喉が鳴ると、無意識に美雨は顔をあげ、冷たそうな液体が男の口の中へ消えていくのを見ていた。
美雨の視線に気づいた男は「飲むか?」とペットボトルを差し出す。
それを飲むのか?と問いたげに美雨が目を丸くすると、男は悪戯気にニヤッと笑った。
「嘘だよ。新しいの買ってやるよ」
美雨の返事も待たずに立ち上がると、男は道の反対側にある自販機の前に立ってポケットを探る。
慌てて美雨も立ちあがり、その背中を追いかけた。
ランドセルの中で教科書が揺れがさがさと音をたてる。
「どれがいい?」
美雨は男の顔と自販機を交互に見比べた。
誰かから何かを買ってもらうということも、好きなものを選んでいいと言われることも美雨には初めてのことだった。本当に何かを選んでいいのか、本当に買ってもらってもいいのか。
美雨は迷いに迷い、うろたえた。
「休憩につきあってくれるんだろ?」
そうだと美雨は頷く。
「だったら一緒に飲みながら話そう」
男は小銭を機械の中に投入した。
自販機すべてのボタンが赤く色づいていくのを見て、美雨は世界が広がるような気がした。
「好きなの選べよ?」
小さな自由を前にして高鳴る鼓動。
すぐに何を選ぶのか美雨の心は決まった。
美雨は男が手に持っているペットボトルと同じ中身のものを目指して手を伸ばした。
だがそれは、彼女の背丈では届きそうにもない最上段にある。
つま先立ちしても手が届かない美雨を見て、男は「よっしゃ」とボタンを押した。
すると直ぐにガタンと音がして、自販機の取り出し口に男と同じ模様のペットボトルが落ちてくる。
男はそれを取り出して美雨に差し出した。
「おそいろだな」
その言葉に美雨は、空へ放り投げられたような浮遊感を覚えた。
手や足が今にも踊り出しそうだ。
おかしくなりそうな自分を隠すように、美雨は下を向いてペットボトルを受け取った。
「あ、ありがとう」
二人はゲートの傍の木陰で、またアスファルトの上に座った。
キャップを開けられずにいる美雨に代わり、男はそれを緩め美雨に再び差し出してやる。
恐る恐る黒い液体に口をつけた美雨は、初めて味わう甘さと苦みと炭酸の刺激に眉を寄せた。
「炭酸苦手か?」
美雨は首を振った。
「これ、初めて飲むからびっくりしただけ」
「コーラをか?」
こくこくと頷く美雨を男は不思議そうに見つめた。
「ま、初めては誰にでもあるもんだ。たくさん経験するといい。どうだ?初めてのコーラは。うまい?飲めそうか?」
「うん、美味しい」
「それはよかった。俺もこんなに暑いとシュワシュワしたものが飲みたくなるんだよ」
「シュワシュワ?」
「そう、シュワシュワ」
男が自分の喉元に手をやりシュワシュワと言いながら指を動かす仕草に美雨は小さく笑った。
「大人はさ、働いた後にビールをぐいっと飲むだろ?だけど俺はアルコールが飲めないから、ビールも飲まない。でも、仕事をした後は俺もシュワシュワしたものが欲しくなるんだ。だから家に帰ってこいつを飲むと、今日も一日頑張ったなって幸せに思うんだ」
穏やかな喜びを滲ませた男の顔を見ながら、美雨の脳裏には酒に酔い潰れて眠る母親の姿が浮かんだ。
大人はみんな母親のように酒を飲むものだと思っていた。
酒を飲むと母親は知らない人間になる。だから大人は違う自分になりたいから酒を飲むんだろう、と。
だがコーラを手に穏やかな目で話す男を見て、美雨は大人になったらこの男のようになりたいと思った。違う自分を求めたりはしない、そんな大人に。
その後の取り留めのない会話で、美雨は男の名前が誠司朗であるということ、丘のすぐ近くに住んでいるということを知った。
美雨が自分の名前を告げると、「美しい雨か。良い名前だな」と褒められ顔を赤くした。
互いのペットボトルの中身がなくなった頃、誠司朗は腰をあげた。
「よし。そろそろ仕事に戻るわな」
見上げる美雨に、誠司朗は笑顔で手を振った。
「気をつけて帰れよ?」
美雨は分かったという代わりに、小さく手を振り返した。
大きな背中がゲートの中に消えて見えなくなるまで、つぶらな目はずっと見送っていた。