①城壁の外で
幼い美雨の心には、不快な苛立ちが渦巻いた。
窓の向こうに見える小高い丘。
そこに鋼板でできた囲いが一晩のうちにそびえていた。
ついにタワーマンションが建設されるのだ。
都心から離れたこの町では初めてのことだった。
町はシンボルとして宣伝し、町人の最新の関心事となった。
学校でも、芸能人が住むかもしれない、コンシェルジュがいるそうだ、などとマンションの話題で持ち切りだ。
だがいつどこに建てられるのか美雨に教えてくれるものはいなかった。
マンションのことだけではない。友情も愛情も、美雨に注ぐものはいない。
彼女の世界は本の中の物語と家の押し入れだけだった。
母親もクラスメートたちも彼女を受け入れてはくれない。
唯一愛してくれた父親は、家を出ていってしまった。
お前は悪い子だから捨てられたのだ。母親が言うのなら、きっとそうなのかもしれないと美雨は思っている。
父親に捨てられても、母親に突き放されても、クラスメートたちの無慈悲な言葉でさえ彼女の心を乱すことはなかった。美雨は思考を固く閉ざし、彼らが侵入してくることがないようじっと俯いて耐えた。
だが、丘の上の白く無機質なものを見た時、いとも簡単に美雨の心はざわめいた。
なぜ胸の中が騒ぎ立つのか、美雨自身にもよく分からない。
ただ、ただ、不快で仕方がなかった。
図書室の片隅で本を読みふけっていた美雨は、色付き始めた空を見て、家路へと重い腰をあげた。
人通りのない道は柔らかな風が吹き、彼女の滑らかな頬を撫でていく。
鳥のさえずりや虫の声に混ざり、微かに機械的な音が空に響いた。
音の方へ視線をあげると、丘の上に突き刺さるあの白い鉄鋼の壁が視界に入る。
美雨は悪の巣窟でも見るかのような目で睨んだ。
いったいどんな奴らが丘を占拠したのか。
美雨は自分の目で見てやろうと思った。
意を決し、丘を登る。
見上げても、映るのは固い壁ばかり。
敵の本拠地に近づいていくほど、機械音と男たちの声がはっきりと大きくなる。その威勢のよさに、美雨は怖じ気づきそうだった。
だがここで来た道を引き返せば奴らに負けたも同然だ。それだけは絶対にしたくないと、美雨は自分を奮い立たせ突き進んでいく。
頂上に着き、不意に昇り坂が途切れると、思わぬことに彼らは塀の外に出てくつろいでいた。
何人もの男たちがアスファルトの上で胡座をかいている。
足元の膨らんだ色鮮やかなズボン。汗のしみ出た大きな背中。赤や金色の頭。低い声や黒く焼けた肌にぎらついた目。
短い人生の中で初めて目にする土木作業員たちが、美雨には巨人のように映った。
美雨は急に怖くなり、ランドセルの肩ベルトを両手できゅっと握る。
ここから逃げなければ。
だが急にバタバタと足音をたてて走り出した少女を、そこにいた誰もが振り返った。
視線が頬に刺さり、美雨はますます逃げ出したくなった。
緊張のあまり足がもつれる。あっと思った時には、美雨の体はアスファルトの上をヘッドスライディングするかのように転んだ。
その拍子にランドセルが開き、教科書や筆箱が飛び出して派手な音をたてた。
「大丈夫か?」
頭上から降り注ぐ、低く穏やかな声に美雨ははっとした。
真っ青な色の裾の広がった足元が近づいてくるではないか。
慌てて体を起こそうともがく美雨の上に、巨人の大きな影が覆いかぶさった。
美雨の全身は怖さのあまり硬直する。
だが巨人は小さな体を両手で軽々と持ち上げると、すとんとその場に立たせた。
「怪我はないか?」
美雨はこくこくと頷く。
「よし!泣かずに偉いな!」
頭に大きくて固いものが乗せられ、美雨の視界はぐらぐらと揺れた。
頭を撫でられたのだと気がついたのは、視界が揺れなくなっても頭のてっぺんが温かかったからだ。
大きな手が伸び、その指が膝や手の平の砂をそっとはらっていく。
どうして自分に優しくするのか。美雨は不思議に思い、巨人の顔を見あげた。
短く刈りあげた黒い髪と眼鏡をかけた細い目。日焼けした浅黒い肌に派手な青色のニッカボッカはよく似合っている。
その少し垂れた目が、美雨の知っているどんな大人よりも柔らかな印象を覚えた。
巨人は細い目をいっそう細めて美雨に笑いかける。
「よし、じゃ、兄ちゃんが教科書、ランドセルに入れてやるからな」
ランドセルの蓋の部分が開けられ、美雨の頭の上に乗せられる。
美雨は自分がどしたらいいのか分からず、ひたすらじっとしていた。
空っぽなランドセルに教科書が入ると、その重みで美雨は後ろに倒れそうになった。
「おっと」
倒れかかった体はすぐにランドセル越しに支えられる。
椅子にもたれかかったような、しっかりと安定した衝撃。美雨は自分が倒れそうになったことすら分からなかった。
ふわりと石鹸の香りが鼻を撫でる。
微かに汗の湿気を帯びたそれが巨人の匂いだと気づいた美雨は、逃げ出したい衝動にかられた。
匂いが分かる程に誰かが近くにいる。それがひどく恥ずかしいことのように思えた。
自分はきっと臭い。クラスメートにいつも言われている。お前は汚くて臭いと。
実際、美雨は自分がいつ最後に風呂に入ったのか覚えていなかった。
石鹸の香りがするこの巨人に、臭いと思われたくない。
美雨はランドセルのかぶせぶたがパタパタと揺れるのも構わず、一目散に駆けだした。