第三話
瞬時に、クリスティーネ様の本日の予定を思い浮かべる。
今日は午後にダンスのお稽古がある以外、特に来客の予定も習い事の予定もなかったはずだ。ということは、クリスティーネ様のご家族のどなたかか役職あるどなたかが、何らかの用事で来たのだろう。
「誰かしら?」
「見てまいります」
私はクリスティーネ様に会釈すると、扉へと向かった。
扉を開けると、大きな熊が立っていた。もとい、護衛騎士のカルフさんが立っていた。
いや、熊みたいにずんぐりした男の人なのよ。第二王子ウィリアム様専属の護衛騎士なんだけど。何の因果か家名も『ベアース』だし。ただし、外見から受けるイメージとは裏腹に、かなり俊敏に動くのよね。もちろん剣技の腕は折り紙つき。まぁそのくらいじゃないと王族の専属護衛騎士なんて務まらないんだけどね。
「カルフさん、いかがなさいました?」
私が問うと、カルフさんは皆が想像する通りの野太い声で答えた。
「ウィリアム様がクリスティーネ様を訪ねておられるのだが、ご都合はいかがだろうか?」
「今からでございますか?」
「はい」
専属の護衛騎士が既にここにいるということは、ウィリアム様は扉の影の私からは見えない位置に立っていらっしゃるのだろう。
末姫様を溺愛する兄王子三名が、こうしてクリスティーネ様を訪ねて私室へいらっしゃることは昔から日常茶飯事だ。各々の王子が成人されてからはさすがに頻度が減ったけど、それでも一般的に考えると多いと思う。
「少々お待ちくださいませ。クリスティーネ様に確認してまいります」
扉をいったん閉めさせていただき、振り返ると、クリスティーネ様がこちらを気にしていらっしゃる様子で見ていた。私たちの会話が漏れ聞こえてたのね、きっと。
「お兄様?」
「はい。ウィリアム様です」
私が質問に答えると、クリスティーネ様が微笑んだ。
「ウィリアム兄様がここへ来るのは久しぶりね。お通ししてもらえる? それと、もう一度お茶をお願いできるかしら?」
「もちろんです」
私が再度扉を開けると、カルフさんの隣にすらりとした線の細い身体つきの青年が立っていた。
少し長めの青藍色の髪と思慮深さが滲み出た黒い瞳を持ち、それを和らげるように細い銀縁の眼鏡をかけている。第二王子のウィリアム様だ。
ウィリアム様は非常に聡い方で、成人後は宰相様の補佐をなさっている。国王様譲りな髪と瞳の色とは反対に、ウィリアム様の顔立ちは王妃様に似ており、『綺麗』という表現がぴったりだったりする。しかも、きめ細やかな白い肌してるし。羨ましいったらありゃしないのよね。その代わりに、武道や馬術といった運動の類はお得意ではないと聞いている。ちなみにクリスティーネ様とは四つ離れていらっしゃるから、確か二十一歳だったはずだ。
ウィリアム様、やはり扉の影にいらしていたのね。専属の護衛騎士が主の側を離れて行動するなんて、緊急の場合以外にまずありえないものね。カルフさんみたいに真面目な方なら特に。
私はいったん廊下へ出ると、今出てきた扉のすぐ隣の部屋の扉を開いた。
「どうぞ、お入りくださいませ」
私が促すと、ウィリアム様は軽く頷いてそのお部屋に入られた。
城内でクリスティーネ様に与えられている部屋は二部屋。一部屋目は寝室や読書やお茶を楽しむための完全にプライベートな私室。もう一部屋は、ご友人やお客様との面会に使うためのこの客間だ。私室と客間は、部屋の中からも行ったり来たりできるよう、扉で繋がっている。
ウィリアム様をお通ししたのは、客間の方だ。ご家族と言えども、相手は成人した男性。ましてや隣に控える専属の護衛騎士は、赤の他人だ。王女の寝所を見せるわけにいかない。
なので、ご家族の面会であっても、原則として客間の方へお通しすることになっているのだ。
客間の中央にはクッションの利いた二人掛けのソファ二つとテーブルが置かれている。両間を繋ぐ扉から入っていらしたのだろう、既に下座となる席に腰掛けていたクリスティーネ様が、廊下側の扉から入ってきた私たちを認めて立ち上がった。
「ウィリアム兄様、いらしてくださって嬉しいですわ。今日は何かご用事がありまして?」
「疲れたからクリスティーネの顔を見たくなったと言うのもあるが……。結婚が決まったと聞いて、お祝いを言いにね」
ウィリアム様はそう言いながらクリスティーネ様に近付き、頬にキスをする。うわ、超絵になるわー。そして上座となる位置のソファーに座ると眼鏡をツイと押し上げた。カルフさんは入ってきた扉付近に控えている。
「ウィリアム兄様がこうして会いに来てくださるのは久しぶりですね」
「そうだな、そう言われると久しぶりか。最近忙しくて、あっという間に時間が過ぎてしまう。でも今日はどうしてもクリスティーネに直接会って、言いたくてね」
そんなお二人の会話を聞きながら、私はお茶の準備に取り掛かった。
せっかくだ、カルフさんの分も淹れてあげよう。職務中だけど、お茶くらいならウィリアム様も怒らないと思うし。
それにしても、ウィリアム様ってばお耳が早い。ご本人ですらさっき聞いたばかりのお話なのに、もう知っていらっしゃるんだもの。まぁ、宰相様の補佐として勤めていらっしゃるから、知っていて当然なのかもしれないけど。
「婚約おめでとう」
「ありがとうございます」
「兄上が聞いたら猛り狂いそうだ。ヴィカンデル王国に宣戦布告しないといいのだけど」
「まぁ、お兄様ったら」
ウィリアム様が冗談めかして言うと、クリスティーネ様も手を口元に当てて可笑しそうにクスクスと笑い、続けた。
「確かにエドガー兄様はわたくしに甘いですけれど、エドガー兄様だって、この婚姻がシェルストレーム王国へもたらしてくれる恩恵のことは重々ご承知のはずですわ」
「もちろん、エドガー兄上だってそれがわからない人じゃないさ。アルフレド殿とクリスティーネの婚姻は、我が国にとって大変喜ばしいことだと思うよ。
でも、事実と感情が別だということは、クリスティーネだってわかるだろう? わたしだって、本音は可愛いクリスティーネを隣国とはいえヴィカンデル王国へなど嫁がせたくはないのだからね」
「お兄様……」
「クリスティーネがシェルストレーム王国からいなくなるかと思うと寂しいよ」
ウィリアム様はそう言って寂しそうに微笑んだ。クリスティーネ様も目を伏せる。
「わたくしもお兄様方と離れてしまうのがとても寂しいです。すぐお隣の国とはいえ、きっと、なかなか会えなくなってしまいますもの……」
──えーっと。
なんかしんみりしちゃってるけど、お茶、お出ししていいかな? ちょうど美味しい飲み頃になったんだけど。
少し迷ったけれど、私はやはりお茶をお出しすることにした。きっと一息つけば落ち着く。この沈んでしまった空気も、散ってくれるはずだ。
私は音を出さないように移動し、お二人の間にあるテーブルへとティーカップをそっと置いた。一つはウィリアム様へ、もう一つはクリスティーネ様へ。
お二人が無言のままカップを手に取り口を付ける。ウィリアム様はほぅと息を吐き、私に微笑みかけてくださった。
「ありがとう、マリー。やはり貴女が淹れるお茶は美味しいな」
「ありがとうございます。殿下にお褒めいただけるなんて光栄ですわ」
うん、少しは場が和んだかな。
私は頭を下げてお二人の傍らから辞し、用意しておいたもう一つのティーカップをカルフさんへと運んだ。カルフさんは驚いたようだったけど、すぐに破顔して「ありがたく頂戴する」と受け取ってくれた。
私はそのままカルフさんの隣に立ち、主たちを振り返る。ちょうどウィリアム様が笑みを納めて口を開きかけたところだった。
「──相手のアルフレド殿には幼い頃に一度ご挨拶したことがあるだけで、詳しいお人柄はわたしも知らないんだ。でも、大変出来た方だと聞き及んでいるよ。気掛かりなのは、わたしを含め、宰相殿ですら、アルフレド殿の方から申し出てくださった真意を測れていないことだけだね。
国や政といった柵はもちろんあるけれど、兄として、クリスティーネには幸せになってもらいたいんだよ。だから、これだけは覚えておいて。何かあったら私たちを頼っておいで。父上も母上も、エドガー兄上もフィリップも、もちろんわたしも、皆お前の味方だから」
「まぁ、ウィリアム兄様。ありがとうございます」
ウィリアム様の言葉に、クリスティーネ様が微笑みながら頷いた。
嫁いだ後は、実際に『何か』があっても、そう簡単にクリスティーネ様が自国を頼ることはできなくなる。それをお互いにわかっていらっしゃるのだ。
だからこそ、ウィリアム様は心配されてるのね。宰相様ですらヴィカンデル王国の意図がわかっていないんだもの。国にとって喜ばしい婚姻であっても、クリスティーネ様にとって辛いものなってしまったら……って考えて。国力に圧倒的な差がある以上、現時点でクリスティーネ様は人質のようなものなのだから。