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【一】 エドガー (第一幕第一話の約十二年前)

「エドガーさまぁー?」

「どちらにおいでですー?」


 近衛騎士と乳母たちが、服やブラシを手に自分の名を呼びながらぱたぱたと部屋の中を走り回っている。エメラルドを填め込んだような澄んだ緑色の瞳でその様子をそっと覗き見ながら、エドガーは悪戯が成功したことに満足してくすりと笑みを浮かべた。


 案外気付かないものなんだな。こんなに近くにいるのに。


 エドガーのいるそこは、地上からそれなりに高い位置にある、大きな樹の幹から伸びる太い枝の上。幹からすぐそこの窓に伸びる枝に沿うようにして、うつ伏せに肘を立てて寝そべっている。

 そうしていると、窓から部屋の中の様子が見て取れた。

 城の三階にある自分の部屋の窓から、すぐ目の前に伸びる大樹の枝に跳び移れそうだというのは、エドガーが前々から考えていたことだ。

 今朝、射し込む日の明るさで起床した。空気を入れ替えようと窓に寄ったときに見えた青空があまりにも綺麗だったので、もっと近くで見たくなり、決行したのだった。そのせいで、直後に部屋へとやってきた乳母たちが酷く慌てることになってしまったのだが。

 騒ぐ乳母たちの声に、異変に気付いた近衛騎士たちが集まり、あっという間に大騒ぎになってしまった。

 彼らが窓の外に目を向ければすぐ、エドガーのにやにやした顔が見えるはずなのだが、そんなところに人がいるはずもないという先入観からか、エドガーにはなかなか気付かない。やがて彼らは、姿の見えない主君を呼びながら部屋を出て行った。

 その声すら完全に聞こえなくなると、エドガーはやっと開放されたとばかりに身体を起こして伸びをした。そのまま背中側に身体を倒し、両足を伸ばして幹に背をもたせ掛ける。


 ふぅ、ようやく行ったか。結局気付かれなかったな。まぁ、いいか。見つかったら、どうせまた今日も勉強と剣術と馬術の稽古をさせられるだけなんだから。


 誰も自分を見つけてくれなかったことに少しだけ寂しさを覚えつつ、エドガーは束の間の休息を満喫しようと気分を切り替えた。

 優しく風が吹き、柔らかい蜂蜜色の髪と質の良い綿で作られたパンツの裾が軽く靡く。


 シェルストレーム王国の第一王子であるエドガーは、十一歳になって半年ほど。いずれこの国を背負う者として様々な教育を受けてはいるが、それを素直にあるいは自発的に享受するにはまだ幼過ぎる、遊びたい盛りの年頃だ。

 それでも、下に控える弟二人と、可愛い可愛い末姫の手本となるべく、毎日文句も言わず頑張っている──と本人は自負している。

 実は城内の者たちからは、全く違う人物として認知されているのだが、エドガー本人はそれを知る由もない。

 それにしても、とエドガーは遠くを見やった。


 ここ、思っていたよりもずっといい眺めだ。広く見渡せるし、気持ちがいいや。窓から跳ぶなんて初めてだったけど、意外と簡単だったし。また来ようっと。


 エドガーが仰ぐ先には、昨夜まで数日間降り続いていた雨が嘘のように澄んだ青空が、高く遠くまで広がっている。あまりの気持ちよさに目を瞑って大きく息を吸い込んだそのとき、女の子の可愛らしい声が聞こえてきた。

 初めは何を言っているのかすらわからなかったが、どうやらエドガーの隠れている木に近づいて来ているらしい。だんだんとそれが幼い子供のはしゃぎ声と、その後を追っているらしい別の女の子のものだとわかってくる。足音が聞こえないのは、木の下が手入れされた芝生に覆われているせいだろう。


「うふふ、ちょうちょさん、まって」

「クリスティーネ様、お待ちくださいませ。走ったら危ないですよ」


 はっきりと聞き取れたその声で、エドガーは近づいて来るのが誰なのかようやくわかった。五歳になる末姫のクリスティーネとヤーロース侯爵令嬢だ。

 エドガーにとって、クリスティーネは目に入れても痛くないほど可愛い妹である。父に似た二人の弟とは異なり、母譲りの蜂蜜色のふわふわな髪と深い緑色の大きな瞳が自分とそっくりなものだから、余計に可愛く映る。

 ただ、可愛がっているのは自分だけではない。生意気な弟たちや父王も同様だ。誰が一番好いてもらえるか、四人で毎日のように競っている。

 もう一人のヤーロース侯爵令嬢は、クリスティーネの遊び相手として王妃である母に希望されたという少女だ。エドガーよりも一つ小さいと聞いたから、今十歳だろう。幼いのに、物怖じせずはきはきと受け答えし、面倒見もいいらしい。ほぼ毎日城に上がっているはずなのだが、エドガーは彼女とほとんど面識がなかった。だからこそ、実際はどんな人物なのか興味も湧く。


 大事なクリスティーネの遊び相手だ。どんなご令嬢なのか僕自身が確かめないと。相応しくないようなら、母上に告げ口してやる。

 可愛い可愛い妹の傍に居る者がどんな人物なのか、兄である僕が見定めなくては。


 エドガーがそっと葉の陰から下を覗き見ると、思った通り見覚えのある淡いピンク色の帽子を被った妹姫と、見慣れない藍色の帽子を被った貴族令嬢が木の近くまでやってきていた。広い帽子の鍔のせいで、ヤーロース侯爵令嬢の顔がよく見えず、エドガーは少しだけがっかりした。

 そんな兄エドガーの存在には全く気付かず、クリスティーネは黄色い蝶を追って走っている。


 あーもう、クリスティーネってば、上ばっかり見てると危ないぞ。


 エドガーの心配は的中し、蝶に意識を集中して走っていたクリスティーネの足がもつれた。

「きゃあ」

 あっと思ったときには、前のめりに倒れそうになる──

 そのとき、不思議なことが起こった。

 まるで狙ったかのように突風が吹き、ほぼ転んでいたクリスティーネをクッションのように受け止めたのだ。風はクリスティーネの帽子を吹き飛ばし、彼女の蜂蜜色の髪を扇のように広げる。そしてクリスティーネの身体を抱き起こすかのようにふわりと浮き上がらせ、逆にすとんと尻餅をつかせて去っていった。


 え? 今、何が起こった……?


 エドガーは今目の前で起こったことが信じられずに呆然とした。クリスティーネも何が起こったのか理解していないようで、芝の上に脚を投げ出して座ったまま、目をぱちくりと瞬かせている。

「クリスティーネ様! お怪我はありませんか?」

 その声にエドガーは我に返り、下を確認する。ちょうどヤーロース侯爵令嬢がクリスティーネの下へと走り寄ったところだった。

 ヤーロース侯爵令嬢はクリスティーネを立ち上がらせると、膝をついて真っ白なハンカチで顔を拭う。頬に付いた土埃が取れると、次いで服に付いてしまった埃や芝を払った。

 クリスティーネが躊躇いながらも大きく頷くと、ヤーロース侯爵令嬢はほっと肩の力を抜いた。

「よかったですわ。お気を付けくださいね」

「ええ、ありがとう、マリー。わたくしはだいじょうぶよ」

 マリーと呼ばれたヤーロース侯爵令嬢は、クリスティーネが落ち着きを取り戻したことを確認すると立ち上がった。

「でも、お帽子が飛んでいってしまいましたね」

 マリーが言うまでクリスティーネは気付いていなかったらしい。「えっ?」と声を上げながら頭に手を当てている。そしてマリーの言う通り帽子がなくなっていることがわかると、しょんぼりと俯いた。

「どうしましょう。ばぁやにおこられてしまうわ」

 たちまち目を潤ませるクリスティーネを安心させるように、マリーは自分が被っていた帽子を取り、クリスティーネに被らせた。

 帽子で隠れていた、ハーフアップにされた栗色の長いストレートの髪が露わになる。よく手入れされているようで、その流れには少しの乱れもなかった。

「クリスティーネ様、一緒に探しましょう」

 マリーはそう言ってクリスティーネに笑いかけ、手を差し出した。クリスティーネが鼻をすんと鳴らしながらもその手を取る。

「そんなに遠くまでは飛ばされていないと思うのですけど……」

 そう言いながらぐるぐると辺りを見回していたマリーの視線が、エドガーの隠れている木に刺さり、止まった。


 見つかった!?


 一瞬どきりとするエドガーだったが、マリーの視線が自分から僅かにずれていることに気が付いた。

 その視線を追ってみる。すると、エドガーの隠れている枝よりも下の、クリスティーネたちのいる側の枝に、淡いピンク色の何かが引っ掛かっているのが見えた。


 あんなところに……!


 突風に驚いたせいで、エドガーはそんなに近くに帽子が飛んできていたことに全く気が付いていなかった。高さにして、城の二階と同じくらいだろうか。どちらにしても、大人の背丈でも脚立がないと届かないだろう。

「ほら、クリスティーネ様、あそこにありましたよ」

 マリーが明るい声で帽子を指差すが、案の定クリスティーネはまだしょんぼりしたままだ。

「でも、あんなにたかいところでは、とどかないわ」

「そうですわね……。では、また風が吹いて取ってくれるようにお祈りいたしましょう。クリスティーネ様、手を組んで目を瞑ってくださいませ。私も一緒にお祈りいたしますわ」


 風がだって? なんて適当なことを。そんな都合のいいことあるわけないだろう。


 クリスティーネとマリーが祈りを捧げ始めるのを見て、エドガーは呆れ、小さく嘆息する。

 それでも、可愛い妹があの帽子を取り戻したいと望むなら、採る行動は『手伝うこと』の一択だ。

 エドガーは足元の枝を軽くこつこつと叩いてみた。木は太く逞しく地に根を下ろしており、エドガーが中で多少動いてもびくともしない。これなら大丈夫だろうと、エドガーは帽子へと近づくため、生い茂る葉に身を隠し、二人に気付かれないよう注意しながら枝の間をするすると移動する。

 見つかると乳母たちを呼ばれて厄介なことになるのは目に見えているから、秘密裏に事を進めるのが一番大事だ。最後は枝を揺すって落としてやれば、風のおかげだとでも思うだろう。

 エドガーが問題の枝の生え際まで辿り着いたとき、マリーの声が聞こえてくる。

「ほら、クリスティーネ様、風が吹いてまいりましたわ」


 まさか、僕が帽子の傍まで来たことをわかって言ってるんじゃないだろうな?


 エドガーは再びどきりとした。が、本当にさわさわと葉擦れの音が聞こえてくる。その音はあっという間に大きく激しくなり、エドガーを包み込んだ。

 本当に風が吹いてきたのだとエドガーは悟った。それも、かなり強い。片腕で枝を掴んで身体を支え、躍る葉から顔を守ろうと反対の腕を上げて庇う。目を開けていられないほどの風に煽られ、平衡感覚が崩れた。


 しまった……!


 そう思ったときには、身体が大きく傾いていた。エドガーは為す術もなく背中から落下する。

「うわぁああ!!」

 地面に着いたときに来るであろう衝撃に覚悟を決める──が、予想に反して、ぼよん、というクッションのように柔らかなものが背に当たるだけに留まった。

 警戒しながら目を開けるのと同時に、身体を受け止めていたものがなくなり尻餅をついた。

「ぐっ、痛てて……」

 エドガーは打ったところを擦りながら身体を起こした。その傍らに、風で煽られたクリスティーネの帽子がひらりひらりと舞い落ちてくる。

 エドガーの姿を認めてか、クリスティーネの驚く声が聞こえてきた。

「おにいさま!?」


「お兄…さ、ま……?」

 マリーの困惑した声も聞こえてくる。

 一国の王太子が侯爵令嬢相手に情けない姿を晒すわけにはいかないと、エドガーは帽子を手に立ち上がった。打った尻が痛いが、それを顔に出さぬよう精一杯去勢を張る。

 嬉しそうに笑顔を見せるクリスティーネに帽子を手渡し、驚いた表情のままのマリーに向かって名乗った。

「僕はエドガー。クリスティーネの兄だ。君は、ヤーロース侯爵令嬢だったな」

「貴方が、エドガー殿下……」

 マリーは呟き、直後にはっとした表情になると、洗練された優雅な仕草で頭を下げる。

「大変失礼いたしました、殿下。わたくしはクリスティーネ殿下の遊び相手をさせていただいておりますヤーロース侯爵家のアン=マリーでございます。拝謁が叶い、大変嬉しく存じますわ」

おもてを上げてくれ、マリー。君は僕を知っているのか」

「もちろんですわ。殿下は有名ですもの」

 エドガーが言うとマリーは顔を上げた。そして、黒目がちな瞳を細め、唇が弧を描く。凛としていた佇まいが、一瞬で柔らかくふんわりとした笑顔に変わった。

 その落差と、強さの中の美しさに、エドガーは目を奪われた。とくん、と心臓が大きく跳ねる。


 初恋──


「第一王子のエドガー様は、人を困らせるイタズラが大好きで、まだまだ実力もないのに自分は既に優秀だと思い込み、勉学をサボることばかり考えていらっしゃるって」



 ──にはならなかった。


「私たち貴族や王族は、民たちが一生懸命農業や工業で働いてくださるから食べていけるのに、その民たちが安心して暮らすための政を行う知識や知恵を身に付けようとしないで、一体何をなさっているのかしらって常々思っていたのですわ。

 あら、どうかなさいまして?」

 鋭利な刃物と化したマリーの言葉がエドガーの身体にぐさぐさと突き刺さり、血を吐けそうなほどの精神的ダメージを喰らう。

「い、いや、なんでもない……」

 反論しようにも出来ないほどの正論に、エドガーは引き吊る顔をなんとか持ち堪えさせた。誤魔化すように、マリーへの質問を紡ぐ。

「ところでお前、魔法の使い手なのか?」

 それを聞いたクリスティーネが、目をキラキラと輝かせてマリーを見上げた。

「マリー、まほう、つかえるの?」

 マリーはクリスティーネと目線を合わせるように中腰になり、意味あり気ににっこりすると口の前で人差し指を立てた。

「クリスティーネ様、秘密ですわよ?」

「どうして?」

「私がこの力を授かっていると皆に知れたら、こうしてクリスティーネ様とお会いできなくなるかもしれませんから」


 魔法は誰でも使えるわけではない。

 現在、シェルストレーム王国には二十人ほどの魔法の使い手がおり、成人を迎えた者は皆、要所を守る任に当たっている。エドガーはあるイタズラの際にその名簿を盗み見たことがあったのだが、その中にマリーの名はなかった。

 だからこそ、マリーの存在に驚愕していた。どうやらマリーは自分が魔法の使い手だということを公にしていないらしい。貴族令嬢として平穏に過ごしたいのかもしれない。


 でも、知ってしまったからには……。


「そんなのいやだわ。マリーがいなくなったらさみしいもの。

 わたくし、ぜったいに、ひみつにします。おにいさまも、だれにもいわないでくださいね?」

 可愛い可愛いクリスティーネに上目遣いで懇願されてしまっては、エドガーに逆らう術はない。

「……わかった、誰にも言わないよ」

 溜め息混じりにそう言うと、クリスティーネは満足したように微笑んだ。

「よろしくお願いいたしますわ」

 マリーも微笑む。その表情がとても黒く恐ろしいものに見えて、エドガーは内心戦慄したのだった。


   * * *


 それからしばらくの後。


 クリスティーネ王女に、そろそろ専属の護衛を付けようという話が持ち上がった。が、娘を溺愛する父王は、例え近衛であったとしてもクリスティーネの側に常に他人である男を近づけることを厭うた。しかしシェルストレーム王国に女性の騎士はいない。

 そしてそれは、兄王子三人も同意見なわけで。

 そんな中、『女性』かつ『(いろんな意味で)強い』という条件を満たす、護衛となりうる人物に心当たりがあり過ぎるエドガーは、数日の間苦悩することになる。

 可愛いクリスティーネとの約束を守り切るか、それとも、クリスティーネを守るためにマリーが魔法の使い手であることを父に告げるか。

 悩みに悩んで、父王に真実を告げたエドガーは、ずっとマリーといられるようになったことをクリスティーネに喜ばれたものの、約束を破ったことを咎められて数日の間口を聞いてもらえなくなるのだった……。

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