第三十二話
「そろそろ大広間に戻りませんか?」
私が再度提案すると、ヴィクトル様が、左手を掌を上にして差し出して来た。
「アン=マリー嬢」
そう名を呼ばれた私の背中をぞわりと悪寒が走る。引き攣りそうになる表情を何とか堪えて、ヴィクトル様の手と顔を交互に何度か見比べた。
「なんですか、突然改まって。大変気持ちが悪いのですが」
私の言葉を聞いて、手を差し出したままのヴィクトル様の眉間に皺が寄る。
「今までずっと、敬称を付けろと仰って来たのは貴女でしょう」
「でも、ずっと無視され続けてきたのに、何の前触れもなく突然譲歩されると気味が悪いです」
「前触れは十分にあったと思いますが」
「それでも、気味が悪いものは気味が悪いです」
「前触れは関係ないということですか」
「確かに、そう言われるとそうですわね」
「つまり『アン=マリー嬢』と呼ぶなとおっしゃりたいのですか?」
「そういうわけではないのですけど。でも、ヴィクトル様にそう呼ばれると、なんか、こう、気持ちが悪いんですもの」
「では、どうしろと?」そう質問した直後、ヴィクトル様はにこりと笑顔を貼り付けた。「あ、名を呼ぶな、以外でお願いしますね」
くっ、先を越された……。
私は嘆息した。同時に、ヴィクトル様に『マリー』と呼ばれることに対して、既に慣れてしまっていることを自覚する。もはや敬称付きの正式名で呼ばれる方が、違和感を覚えるようになってしまっているくらいだ。そう、違和感。何か裏がありそうで気持ちが悪いとか気味が悪いとか、そういう感覚もあるけど、それ以上に違和感がある。私は再度嘆息した。
「──もう『マリー』でいいです。皆、そう呼んでおりますし」
「確かに、クリスティーネ様も、王子殿下方も、そう呼んでいらっしゃいますね。おかげで貴女の名前を覚えられたようなものだ」
「人の名前くらい普通に覚えてくださいませ」
私が咎めるように言うと、ヴィクトル様は一瞬表情を歪め、直後堪え切れなかったのか噴き出した。
「貴女がそれを言いますか」
くっ……。確かに、従者その二、その三で覚えてた私が言えることじゃないかも。
改めて、未だ湧き出るくつくつという笑みを抑えようとしているのか口元を歪めたまま、ヴィクトル様が再度左手を差し出してきた。私は渋い表情を隠さぬまま、その手に右手を乗せる。ヴィクトル様は、私が中庭から廊下へと続く階段を上るのを、非常にスマートな所作で導いてくれた。
「意外でした」
歩き始めてすぐヴィクトル様が口を開いた。自分の足元からヴィクトル様の方へと視線を移す。ヴィクトル様は私の足元を見ていて、目が合わなかった。
「何がでしょうか?」
「ダンスがお得意でないそうですね」
あー……そういえば、さっきエリオットがバラしてたわね。半眼になった私の耳に、ヴィクトル様の声が聞こえてくる。
「先程、ウィリアム様やエドガー様と踊られているのを見ましたが、そう仰るのが謙遜にしか聞こえないほどに見事でした」
「からかっていらっしゃるんですか?」
「そう見えますか?」
「ええ」
即答した。
だって、得意じゃないって言ってる人が踊ってるのを見て「見事」って評するなんて、揶揄か嫌味以外に何があるって言うのかしら。
私がダンスを習っていたときの、先生の苦悶の表情は未だに目に焼き付いている。なんで私が出来ないのか、理解できないって表情にデカデカと書いてあった。基本的な一つ一つの動きはできても、それを連動させるのが苦手なのよねー。一緒に習っていたエリオットがそつなくこなしていただけに、先生は余計に困っていたんだと思う。
頭で考えない、身体で音楽を楽しんで! ──いやいや、そう言われましても出来ないものは出来ないんです、って感じだったな。
そんなわけで、ダンスは本当に苦手だ。今までだって可能な限り避けて通る道を選んできたくらいだ。
ヴィクトル様が顔を上げた。私を見下ろすその表情は薄く感情が読み取れない。
「私はダンスがまったくできませんから」
ヴィクトル様が言った。そして、感情の判別できない表情のまま、続ける。
「アルフレドが言うには、私は『リズム感』や『音感』というものを持って生まれてこなかったそうです。ですから、ウィリアム様やエドガー様と楽しそうに踊っていらっしゃる貴女を見て……羨ましいとさえ思いました。それなのに、お得意でないというのが意外だと思いまして」
「もし、私のダンスがヴィクトル様の仰る通り『見事』だったのだとしたら、それはきっと、ウィリアム様やエドガー様がとてもお上手で、私を巧みにリードしてくださったからですわ。上手な殿方と踊ると、自分も上手になったと錯覚してしまいますもの」
「そういうものですか」
「ええ」
私は微笑むと会話のためにいつの間にか立ち止まっていた階段を、また上り始めた。ヴィクトル様も私の動作に合わせて手を添えてくれる。
「意外と言えば、私も意外ですわ」
私の言葉に、ヴィクトル様が訝しげな目線を送って来た。その間にも、階段を上る私の補助を忘れていない。
「何がです?」
「ヴィクトル様がこうして普通に女性をエスコートできることが、ですわ」
「公爵家の人間としてマナーは学んでいます」
「そうなのですね。先程、お若いご令嬢たちを一蹴されているところを見てしまいましたので、女性との接し方自体を学んでいらっしゃらないのかと……」
「貴女もたいがい失礼なことを仰いますね」
「あら、お互い様ですわ」
「貴方は本当に……本当に可愛くないですね。見た目は着飾っていても、やはり貴女は貴女のまま変わらない」
「ドレスを着たくらいで人が変われるのなら、誰も苦労致しませんわ。ヴィクトル様も、今日は見た目だけなら非の打ちどころのないほどの紳士ですもの」
私がそう言うと、ヴィクトル様は何故かふっと柔らかい微笑みを浮かべた。
「どうかなさいまして?」
「いえ。──どうも私は、貴女に罵られるのが嫌いではないようです」
私は思いっきり眉根を寄せた。
「またおかしなことを……。そのようなご趣味がおありなのですか?」
「ありませんね」
「では、変な物でも食べましたか? 熱でもあるのですか? それとも頭でも打ちましたか? 今宵の夜会にはお医者様も待機していただいているはずですので、診ていただきます?」
「いずれも記憶にないですね。もちろん医者も必要ありません」
「じゃあ、どうして突然そのようなことを?」
ちょうど、階段を上り切った。ヴィクトル様が足を止めたので私も止まる。ヴィクトル様を窺うと、釈然としないといった表情で私を見つめていた。
いやいやいや、その表情したいのは私の方だってば。
ヴィクトル様が空いている方の手を口元に当て、何かを考え始める。少し険しくなった表情のまましばらく考え込んでいたけど、やがて「あぁ」と呟き表情が緩んだ。
「──なるほど、これがアルフレドの言っていた『異性に好意を寄せている』ということなのでしょうね」
ヴィクトル様からはおおよそ出てきそうにない予想外の言葉に、目が点になった。
「異性に、好意」
確認するように私が復唱すると、ヴィクトル様は頷いた。
「ええ」
「誰が?」
「私が」
「誰に?」
「貴女にですよ、マリー。他に誰がいるというんです?」
はい!?
「あの、全くもって全然少しもこれっぽちも意味が分からないのですが」
「ですから、どうも私は貴女に好意を寄……」
「ちょ──っと待った! ストップ!!」
私は咄嗟に顔を伏せつつヴィクトル様の口の前に両手を広げた。
「どうされました? 貴女が分からないと仰るかr」
「それは自分でも重々承知しておりますが少し黙っていただけますか」
自分から確認しておいて、とても失礼なことをしているとは思うけど。
ヴィクトル様が言おうとしていることは、おそらくアレだ。私の自惚れであって欲しいヤツ。冗談じゃない。
さっきせっかく、今日起こったいろんなことをいったん頭から追い出したのに。さらに問題を追加された私の脳はもう限界なんだってば。回転させ過ぎた摩擦熱で、ぶすぶすと燻り始めている気がする。
「ヴィクトル様の仰りたいことはわかりました。お気持ちは大変嬉しいのですが、私にはお応えできません。どうかお引き取りくださいませ」
そう一気に捲し立てると、私は顔も上げずにドレスを摘まんで頭を軽く下げた。
「失礼、いたします」
居た堪れなくなって踵を返す。私はそのままヴィクトル様の前から走り去った。




