第二十六話
はぁ……。
私は大広間の片隅で、一人嘆息した。もうすぐ夜会の開始時刻になっちゃうわ……。帰っちゃだめかしら。
今夜はヤーロース侯爵令嬢として参加しているので、もちろんドレスアップしている。久しぶりに。本当に、年単位で、久しぶりに。
エリオットが用意してくれたドレスは、メインに光沢のあるタフタ素材が使われた濃紺色のものだ。ベルラインのシルエットで、アシンメトリーなデザインとなっている。ボリューム感のあるスカートは幾重にもタッキングされた上で左腿の辺りで縫い留められ、その下からは同じく紺色のオーガンジーとチュールレースを重ねたスカートが覗いている。そして上半身の部分とスカートの一部に、金糸と銀糸で細かい刺繍が施されていた。
衣装ケースを開けたときの第一印象は、とても素敵な品。ただ、自分では絶対に選ばないデザインや色だという不安もあったのだけど、着てみると意外にもしっくりきたことに驚いた。若過ぎず、地味過ぎず、落ち着いた雰囲気。さすがエリオットだわ。アクセサリーやガーター、ストッキング、靴に加え、コルセットまでちゃんと入っていたのには、たまげたけどね。サイズがバッチリだったから余計に……。
あ、自分のドレスアップは全部自分一人でやりました。魔法に手伝ってもらって。コルセットを締めたりドレスを着たりするのはもちろん、ヘアセットもね。ドレスと私自身の年齢に合わせて、シンプルな夜会巻きにしてコームを刺し、留めた。コームの飾りは、ドレスと同じ金糸と銀糸で刺繍された濃紺色のタフタ生地で作られたものだ。靴は濃紺の地にゴールドの細かいラメが全体に塗された女性らしいデザインなんだけど、ヒールはそこまで高くない。ありがとう、エリオット。ホントわかってくれてる。
大広間には、開始時刻の随分前から貴族の面々が集まって来ていた。夜会は貴族にとって重要な社交の場だ。情報交換はもちろん、若い子たち──特に女性にとっては、よりいい条件の伴侶となる相手を探すための、数少ない機会でもある。なにせ社交界デビューから行き遅れにカテゴライズされるまで、たった三年しかないからね。
そんなわけで、昨夜から行儀見習いの侍女たちは一斉にお休みを取っている。行儀見習いよりも、将来の相手探しの方が大事ってワケだ。侍女頭さんも慣れているので、初めから彼女たちに期待していないんだよね。
昨日のバックヤードは騒がしかった。あ、もちろん行儀見習い侍女の部屋の方ね。流行のドレスやヘアスタイルがどーの、化粧はどうしようだの、何とか男爵のご子息がカッコいいだの、親戚を紹介するだのしないだの……。
ちょっとちょっと、この夜会はクリスティーネ様とアルフレド様のご婚約をお祝いするものだからね? わかってるわよね? って言いたかった。言わなかったけど。だって、言ったら完全にオバサン決定じゃん!
その、本日の主役であるクリスティーネ様は、あれから一度もあの悲しそうな微笑みを見せることなく、身支度が完了するまで過ごされた。今は、国王様や王妃様、そしてアルフレド様と一緒に、控えの間の方にいらっしゃるはずだ。夜会の開始時刻にこの大広間へとやってくることになっている。エドガー様やウィリアム様、フィリップ様も、そのとき一緒にいらっしゃるはずだ。
アルフレド様の従者たち四名も、招待されていると聞いている。準備が整い次第いらっしゃるでしょう。
私はと言えば、クリスティーネ様をご家族の待つ控えの間へとお連れした後、自分の身支度を終えてすぐ会場に来ているから、実はもうそこそこ長い時間この部屋に居る。
張り切ってるから早く来たわけじゃないのよ? 今日は護衛しなくていいって言われてるけど、一応、クリスティーネ様のためにも、事前に感知魔法で安全を確認しておこうって思っただけで。
でも、同じことをアルフレド様も考えていたみたい。会場に入った私は、既にアルフレド様の感知魔法が展開されていることに気が付いた。アルフレド様が監視してるなら、私の出る幕はナシです。精度も魔力量も桁違いだし。
そんなわけで、まだ始まってもないのに「早く帰りたいなぁ」と思いながら、ぼんやりと会場に来る人たちのことを眺めてます。
だってさぁ、大広間に居る人たちを見てるとわかるんだけど、私くらいの年齢の参加者さんはみんな同伴者(つまり、旦那か恋人)を連れてるのよね……。いいけどね、別に。いいんだけどね。──でも、やさぐれたくはなるわよね。
「姉上」
突然声をかけられて私は驚いた。声の掛けられた方を見ると、よく見知った人物が私の方へと近付いて来ていた。
「エリオット。来てたの」
そこにいたのは、エリオット・ヤーロース現侯爵家当主、つまり私の弟だった。
当たり前だけど正装をしている。久しぶりにこの格好のエリオットを見たなぁ。サラサラストレートな黒髪が藍色を基調とした服装によく合ってる。
「今着いたばかりです。何故こんな隅にいらしてるんです?」
「同伴もナシにど真ん中へ入って行けるほどタフじゃないわよ」
「なるほど。じゃあ、私のお相手をお願いできますか? カタリーナを連れて来るわけには参りませんでしたので、私も一人なんですよ」
エリオットが私に手を差出してくれる。私は淑女の嫋やかな微笑みとやらを顔に貼り付けてその手を取ると、エリオットにエスコートされて人で溢れる大広間の中へと歩き始めた。
「ねぇ、エリオット。ダンスも相手した方がいい?」
「姉上がお嫌でなければ」
「りょーかーい」
「ですが、他の方からお誘いが来たら、私に遠慮せずその方とどうぞ」
「そんなもの来ないわよ」
「──うーん……。『わかってない』ということは、時として罪ですね」
「え?」
「なんでもありません。それよりも、せっかくヤーロース侯爵令嬢として参加されているのですから、楽しまれてはいかがです?」
「もう夜会を楽しめるような年齢じゃないもの」
そんな会話をしながらも、私の歩調に合わせて歩いてくれるエリオットをありがたく思う。そして唐突に思い出して、私はエリオットに礼を言った。
「そうだ、衣装の用意ありがとう。急だったから大変だったでしょう」
「いえ、それほどでも。姉上が思う以上に、私の伝手は広いし味方も多いんですよ」エリオットは私の顔を見て微笑んだ。「よくお似合いです」
「そう? ありがと。でも、着慣れないわー。早くいつもの服に戻りたい」
私が表情を崩さないように注意しつつエリオットにだけ聞こえる程度の小声で言うと、エリオットは苦笑した。そして同じくらいの小声が返って来る。
「姉上も、普段からもっと着飾ればよろしいのに」
「侍女のお仕事してたら、オシャレなんて邪魔なだけ」
ずばん! と一刀両断すると、エリオットは再度苦笑を漏らした。
「まぁ、姉上ならそう仰ると思ってました」
そこへ、少し離れた場所からエリオットに声が掛かった。振り向くと、大広間の最奥にある大階段の下で、何やら談笑していたらしい男性方が見えた。全員で五、六人程いて、年齢はエリオットと同じくらいから私の父よりも少し年下くらいまでいろいろだ。皆、政に携わる文官の貴族だったような気がする。
エリオットがそちらに足を向けたので、私も自然と同行する。集団に合流するとお互いに挨拶を述べ、エリオットが私を紹介した。
「エリオット殿に姉君がいるとは知っておりましたが、これほどまでにお美しい方だったとは……」
男性の内の一人からの美辞麗句を、謙遜とお礼を述べつつも適当に聞き流す。そして、その後続いた『情報交換』の会話の邪魔にならないよう、私は半歩下がって相槌を打つに留めることにした。私にとっては、情報収集そのものだ。
経済だの外交だの交通網だの、難しいけれど聞いていて飽きない内容の会話が展開される。それに平気な顔でついて行けているエリオットもすごい。そっか。エリオットも、文官の仕事がんばってるんだなぁ。
文官たちの会話が盛り上がる中、ふと私の気が逸れた。大広間のちょうど私にとって正面の方角、私のいる位置からはそこそこ離れた一角に、ちょっとした、でも華やかな、人だかりができていることに気が付いたからだ。色とりどりのドレスに身を包んだ若いご令嬢たちが十数名、どういうわけか一か所に集まっている。
なんだろう? クリスティーネ様たちがいらっしゃるには少し早い気がする。
目の前の会話を聞いているフリをしながらも、華やかな人だかりを窺ってみる。群がっているご令嬢は見習い侍女として出仕している女の子たちばかりだ。顔を輝かせながら、中心にいる誰かに向かってしきりに話しかけているように見える。
その中心に、覚えのある長い薄茶色の髪が見えた。
──あれは、ヴィクトル様、だ。
何故か、すぐにわかった。
ヴィクトル様以外の従者三名も一緒にいらっしゃるのだけれど、彼らの周囲に居るほとんどの女の子たちは、ヴィクトル様を目的としているようだった。
遠くて何を言っているのかまではわからないけど、内容は簡単に推測できる。
今夜は夜会。今までは仕事上関わることもなく遠巻きに見るだけだったけれど、ここぞとばかり自分をアピールして、会話を楽しんだり、あわよくば一緒にダンスを、もしかしたらその先まで……とでも思ってるんだろう。きっと口々にヴィクトル様を褒め称え、少しでも気を引こうとしてるはずだ。
でも。
当のヴィクトル様は、冷たいまでの無表情を貫いていた。まるで、初めてお会いしたときのような、いや、それ以上の。自分を取り巻く令嬢たちを歯牙にもかけていない。アルフレド様のお伴としてお会いするときとはあまりも違うその様子に、私は逆に違和感を覚えた。
今のヴィクトル様は、無愛想や無表情を通り越して、不機嫌そのものだ。
ビリエル様も表情が出てきたと言っていたし、先日の一件もあって態度が軟化したのかもしれないと思っていたのに。
少々姦しいその集団を眺めていると、ヴィクトル様がついに何か仰ったのがわかった。ご令嬢たちの動きが止まり、綺麗に二つに分かれる。その間を通ってヴィクトル様や他の従者さんたちが集団から出てきた。ご令嬢たちが、名残惜しそうにヴィクトル様を目で追っているのが見える。
ヴィクトル様はそんな彼女たちに興味がないようだった。見えてすらいないと言った方が正しいかもしれない。四人の先頭を歩んでいたヴィクトル様が、後ろにいる仲間の方へと振り返った。その動きが途中で止まり、視線が戻って来る。
目が、合った。
でも、それは本当に一瞬のことで、ヴィクトル様の視線はすぐに仲間の方へと注がれていった。
私は胸の辺りに手を当てた。ヴィクトル様と目が合った瞬間、ごとり、と胸のあたりで何かが動いた。気がした。
何、今の? なんか、前にもあった気がする。気のせい、よね?




