第九話
声の主の顔を確認して、私は正直今すぐに部屋へ戻って鍵をかけたくなった。
なんでアンタがいるのよ、ヴィクトル様!
シェルストレーム王国騎士の後ろを歩いてきたヴィクトル様は、相変わらず愛想のない表情で私に向かって言った。
「アルフレドはこちらですか」
「はい、しばらく前にいらっしゃいました。こちらで少々お待ちいただけますか」
王女殿下の部屋の扉を開けたままにしておくのは、どう考えてもよろしくない。
私はクリスティーネ様の了解を得て、二人を客間に招き入れた。
「アルフレド、急にいなくならないでください」
ヴィクトル様は客間に入ると、アルフレド様を認めて言った。
一緒に入って来たシェルストレーム王国騎士は、既にいらしていたアルフレド様に驚いている。そりゃそうよね。今、面会の是非を取りに来たんだもの。
「ヴィクトル、ありがとう。面会の手続きを取ってくれたんだね」
「ええ。遅くなりました」
「僕がここにいるってよくわかったね」
「少し考えれば簡単なことです」
アルフレド様がヴィクトル様に微笑みかけるが、ヴィクトル様は眉一つ動かさずに軽く頷いだ。ホント、無愛想なヤツ。
とりあえず喫驚からは回復したらしいシェルストレーム王国騎士が「では、私はこれで」と挨拶し、部屋を出て行った。彼にも自分の持ち場があるはずだから、いつまでもここに居るわけにいかないんだろう。未だ腑に落ちないといった表情をしていたけれど、魔法使いが相手だもの。常識なんて通用しない。諦めてもらおう。
「随分と寛いでいらっしゃいますね」
ヴィクトル様がソファでお茶を飲んでいるアルフレド様に言う。
「アン=マリー嬢にお茶を淹れてもらったんだ。ヴィクトルも飲む? 美味しいよ」
「そうですわね。マリー、頼めるかしら」
「かしこまりました」
本意ではないけど、クリスティーネ様の命とあらば、お茶の一杯くらいご馳走してやろう。私はお茶を淹れる準備を始めた。
クリスティーネ様が立ったままのヴィクトル様に席を勧めたが、ヴィクトル様は軽く手を挙げることで辞退する。
「今の私はアルフレドの護衛の任にありますので」
そう言って部屋の入り口近くの壁際に立った。クリスティーネ様は気にする素振りを見せたが、アルフレド様が「ヴィクトルなら気にしなくていいよ」とまた他愛もない会話を再開する。
へぇ、ヴィクトル様って人を見下したような態度や物言いするものだから、甘やかされて育った公爵家のボンボンかと思ってたけど、騎士としての矜持は持ち合わせてるのね。女性に対する態度はなってないけど。
そんなことを考えながら、適温のお湯を茶葉の入ったポットに注いで蒸らす。しばらくして色づいた頃合いに、温めておいたカップへと移した。そして、ヴィクトル様のもとへと運ぶ。
ヴィクトル様はお盆を運ぶ私を見て、軽く柳眉を顰めた。
「貴女、マリー……でしたよね」
「はい」
いきなり呼び捨てですか。しかもその難しげな表情、何か文句でもあるのかしら。
少し構えていた私に対して、ヴィクトル様は予想とは違う言葉を発した。
「先程と服装が違うからわかりませんでした」
あぁ、単純に訝しがられてただけだったのね。その表情じゃわからないよ。この人、本当に表情筋付いてるのかしら。なまじ綺麗な顔してるから、表情がないと冷たく見えるのね。損なタイプだわ。
「本当に、クリスティーネ殿下の専属侍女だったんですね」
少しだけ警戒心を解いていた私の耳に、再びヴィクトル様の言葉が刺さった。
侍女頭さんがいるあの場で、法螺を吹いたと思われてたってコト? ──やっぱり喧嘩売られてるわよね?
「ええ。先程も申し上げました通り、クリスティーネ様専属の侍女を務めさせていただいております。もう十年を超えておりますわ」
怒りを堪え、自分にできる最高の微笑みを作りながら、ヴィクトル様にお茶のカップをお渡しする。
少々嫌味に聞こえるかもしれないけど、もう構いやしないわ。それ以上に失礼なことを散々言われてるし。
「随分と長く務めているんですね」
ヴィクトル様はそう言いながら受け取ったカップに口を付けた。一口飲み、息を吐く。
「……確かに、想像していた味と全く違います」
それはそれは、どんな想像をしていたのか詳しく聞きたいわねぇ。
どす黒い魔力が漏れ出そうになっている私を宥めるかのように、アルフレド様の優しい声が聞こえてきた。
「素直に美味しいって言えばいいのに」
「そうですね、意外でした」
なんでそう、いちいち癇に障る言い方するかなぁ? せっかくアルフレド様が丸く収めようとしてくださったのに、台無しじゃん。さっき少しだけヴィクトル様を見直したけど、やっぱり私の勘違いだったのかも。
「ご馳走様でした、マリー」
空になったカップを受け取りながら、私はヴィクトル様に言った。
「あの、ヴィクトル様、大変失礼かとは存じますが、せめて名前に敬称を付けていただけるとありがたいのですけれど」
「必要ですか?」
「ええ。まだお会いして幾許も経っておりませんし」
って、ヴィクトル様、何故そこで難しい顔をされるんです?
私たち、ほとんど初対面ですよね? そこまで親しくないですよね? 人の名前を口にする際に敬称付けるのってそんなに難しいことじゃないですよね?
「ヴィクトル、アン=マリー嬢は侯爵家の血筋だよ」
アルフレド様が当たり前のように仰った。あ、アルフレド様、知ってらしたんですね。シェルストレーム王国のような小国の、しがない侯爵家の家名なんて覚えてくださってるとは思わなかったから、正直驚いた。我が家は特に有力な貴族っていうわけでもないし。
教えられた方のヴィクトル様は、顎に手を当て私をまじまじとご覧になった後、口を開いた。
「マリー、貴女、侯爵令嬢なのですか?」
「今は弟が家を継いでおりますので、その呼び名が正しいのかどうかはわかりませんが、アルフレド様の仰る通り、私の父は先代のヤーロース侯爵ですわ」
ちょっと! 人の名前を呼ぶときは敬称くらいつけろって言ってるのに、何を聞いてるのよコイツは! アルフレド様を見習ってよ。お会いしてからずっと、正式な名前で呼んでくださってるのよ?
水面下で燃える私の怒りの炎に、ヴィクトル様はさらに油を投下してきた。
「……人は見かけに寄らないものですね。偶然に同じ家名なのだろうと思っていました」
こ、コイツ……!!
「あら。ヴィクトル様には私がどのように見えていたのでしょう」
「貴族らしくない」
はい?
「いや、女性らしくない」
そろそろキレていいかな?
「それはそれは、大変失礼致しました。一応これでも侯爵令嬢の端くれです。ヴィカンデル王国のような大きな国の公爵家の方々にも認めていただけるよう、精進させていただきますわ」
焼き切れそうになった堪忍袋の緒を無理矢理繋ぎ合わせ、自分にできる精一杯の優雅さで淑女の礼をした私に、ヴィクトル様が言った。
「いや、今のままで十分ですよ」
はい? アンタ、私に対して散々嫌味言ってるじゃん!
ヴィクトル様を睨み上げようと顔を上げた私は、予想外のものを見て目を見開いた。
ヴィクトル様の口角が上がっていた。深い青色の瞳も弓なりに細くなっている。
──ヴィクトル様が、微かに、でもはっきりとわかるくらいに、優しげに、妖艶に、微笑んでいた。
え、ヴィクトル様、笑ってる……?
そう意識した瞬間、ごとり、と胸のあたりで何かが動いた。気がした。
カラーン、カラーン、カラーン……
その時、時を告げる鐘の音が響き渡った。いけない、クリスティーネ様に次のご予定があるんだった。
「クリスティーネ様、そろそろお時間です」
クリスティーネ様に声をかけながら、自分の身体を確認する。胸はもう何ともなかった。
さっきの違和感、何だったのかしら。──気のせいね、きっと。
アルフレド様が立ち上がる。
「ありがとう、楽しかった。クリスティーネ、またこうしてお話できるかな」
「ええ、もちろんですわ」
交わされるお二人の会話を黙って聞く。いわゆる社交辞令というヤツだろう。今後、お二人は夫婦となるのだ。婚姻の前からこうしてお互いを知ろうと歩み寄ってくださっているところからも、アルフレド様がとてもお優しい方だとわかる。
これなら、クリスティーネ様を安心してお任せできるかもしれない。
アルフレド様とヴィクトル様を廊下までお見送りしようと部屋を出たところで、アルフレド様が私に言った。
「アン=マリー嬢も、お茶ありがとう。美味しかった」
「いえ。アルフレド様に美味しいと言っていただけて光栄ですわ」
「それと、ヴィクトルが貴女の気を悪くさせたよね」
「いいえ、気にしておりませんわ」
「そう。ならいいんだけど」
私は頭を下げる。アルフレド様は溜め息混じりに微笑むと、ヴィクトル様を伴って去って行かれた。
はぁ、やっと終わった。アルフレド様をお迎えするのって、思っていた以上に気が疲れるわ。まぁ、しばらくはないでしょうけど。
この時の私は安心し切っていたのだ。この後、自分の身に起こることも知らずに。




