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大衆が塊となって、まるで黒くて丸い球体のような一体感に包まれている。
柾木は吐き気を催した。嗚咽が出て、胃液が喉元まで逆流してくるのを、必死に抑える。
原因は二つ。
一つ目。
隣でビートに合わせて肩を揺らす肥満の男。黒地に悪趣味な橙色のスカルがプリントされたアーティストTを着た男から、加齢臭とニンニク、カルキをごちゃ混ぜにしたようなわけのわからない悪臭が漂ってくる。
しかしそれに気付いているのは柾木だけなのか、周囲の人々は特に気にしている様子はない。
逆流してくる胃液を再度飲み込みながら、早くこの男から離れたいと切に願った。しかし人の群れがそれを邪魔してその場から動けない。
柾木は臭いに敏感な体質だということもあるが、この悪臭は度を超えている。周りの人々には本当に臭覚というものが備わっているのか、柾木は怪しんだ。
そして二つ目。
この場そのものへの嫌悪感。
森林が伐採され作られたキャパシティ1万人ほどの会場にいるほとんどの人々が、ステージのスピーカーから押し寄せる、塗り壁に押しつぶされるような音圧に狂い、酔い、一体感を感じている。
やたらと機械的なタイム感のベース音の低音が腹の中まで響いてきて、身体が押しつぶされるかのように再度胃液が喉元まで逆流してくる。
地方の郊外。しかも森の中とはいえ、ものすごい音圧だ。
森林の幹まで揺るがすほどの音圧のバスドラムのキックと、80年代風のチープな味付けがされたシンセサイザーの陶酔感のある音色に、人々は現実を忘れたかのように、恍惚な表情をしている。
柾木はそれに乗り切れない。
こんなにも周囲には人が溢れかえっているというのに、まるでひとりで広くてまっさらな場所に立たされているような気分になる。
この光景を例えるなら、この場にいる全員がケーブルで繋がれ、同じ夢を、幸福な夢を強制して見させられている。
この音楽フェスティバルの光景が柾木にはそんな風に見えていた。
柾木がいる場所から見えるステージはやたら遠くて、ステージ上には棒のようなものが何本か立っているようにしか見えないのもそんな気分に拍車をかけていた。
新たな曲が始まる。
肥満の男から、そして周りの人々からも叫声が上がる。
単純な1コードの曲だ。それなのに人々は異様に盛り上がっているのは何故だろう。
もはやこの場には、19世紀に世間を圧巻したハシッシのような麻薬は必要とされていない。
ドラッグに取って代わるものがここにある。
もはやこの音楽そのものがドラッグだった。
同じフレーズを何度も繰り返すうちにどこが曲の頭なのかわからなくなる。
柾木は限界だった。嗚咽を何度も繰り返した末に、胃液を足下に吐き散らされた。朝食に食べたリンゴらしきものと胃液が、右隣の肥満の男のオレンジ色の悪趣味なスニーカーに飛び散る。
「うわ、汚ねぇ」
男がそう呟いて、柾木から少し距離を置いた。
しかし、男は小心者なのか柾木に突っかかりにはこなかった。
周りの人間も柾木の嘔吐物に気付いて、柾木の周りだけドーナッツ状の小さな円が出来る。
ーーつまんねえなーー
そう呟くと、柾木は嘔吐物を放置して、わざと舌打ちを男に聞こえるように大きめ鳴らした。
しかし舌打ちもスピーカーから響く轟音にかき消された。
柾木はフードブースにミネラルウォーター欲しさに向かった。柾木が汚物を吐き出したおかげで、みな柾木から離れ、一本の通路のようなものができあがる。
その間も鳴らされる、ノイズ、ノイズ、ノイズ。
演奏しているのは、人、ではない。
オートメーションロボだ。
音楽を演奏する側に、もはや人は必要がなくなった。
そんな時代に柾木は生きている。
柾木には、それが良いことなのか、悪いことなのかよくわからなかった。