#11 正解を求める少女
文化祭まで、あと十日。
星ヶ丘学園の校内は、いつも以上に慌ただしくなっていた。
廊下には展示案内が並び、教室からは装飾を作る音や、発表の練習をする声が聞こえてくる。
朝倉湊のクラスでも、文化祭の準備が着々と進んでいた。
「このパネル、もう少し右に寄せたほうがいいかな?」
天野美月が、壁に貼りつけた展示案を見上げる。
「いや、今の位置でも十分見やすいと思うぞ」
湊は少し離れたところから確認した。
「本当? じゃあ、このままにしようかな」
美月は満足そうにうなずき、次のパネルを手に取った。
その様子を見ていた悠真が、湊の肩を軽く叩いた。
「最近、お前らずっと一緒にいるな」
「文化祭の準備だろ」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
「お前、絶対わざと言ってるだろ」
「何のことかな?」
悠真は楽しそうに笑いながら、教室の反対側へ歩いていった。
湊はため息をついた。
そのとき、教室の入り口から声がした。
「朝倉くん、今ちょっといい?」
振り返ると、白石莉子が立っていた。
手には、文化祭の進行表と何枚かの資料を持っている。
「白石? どうした?」
「展示の説明文について、先生から確認があったの。昨日の案を少し修正したから、朝倉くんにも見てもらいたくて」
「わかった。どれ?」
湊は資料を受け取り、目を通した。
説明文は以前よりも整理されていた。展示の目的も、初めて見る人に伝わりやすくなっている。
「おお、わかりやすくなってるな」
「本当?」
「ああ。特に、この部分。ORACLEの予測を否定するんじゃなくて、参考にすることと、結果に従うことは違うって説明してるところ」
莉子はほっとしたように笑った。
「そこは、私も大切だと思ったの。ORACLEが役に立つことまで否定したいわけじゃないから」
「うん。俺もそう思う」
二人は資料を見ながら、説明の細かな部分について話し合った。
莉子は湊の意見を聞くたびに、丁寧にうなずいた。
湊は、彼女が自分の考えを押しつけるのではなく、相手に伝わる形を探そうとしていることに気づいた。
「白石って、こういう資料作るの得意なんだな」
「え?」
「文章も整理されてるし、相手がどう受け取るかまで考えてるだろ。すごいと思う」
莉子は、少し驚いたように目を見開いた。
「……そんなふうに言われたの、初めてかもしれない」
「そうなのか?」
「うん。いつもは、間違いがないかとか、ちゃんとできているかとか、そういうところを見られることが多いから」
莉子は資料の端を指で整えた。
「だから、工夫したところに気づいてもらえると、うれしいんだね」
湊は何気なくうなずいた。
「せっかく頑張ったんだから、そこも見てもらえたほうがいいだろ」
その言葉に、莉子はしばらく黙っていた。
そして、ほんの少し頬を赤くして笑った。
「……朝倉くんって、時々、すごくうれしいことを言うね」
「え? 今の、そんなに変だったか?」
「ううん。変じゃないよ」
莉子は首を横に振った。
「ありがとう」
その声は、いつもより柔らかかった。
教室の向こうから、美月が二人に気づいて手を振った。
「湊くーん! こっち、ちょっと手伝って!」
「わかった、今行く!」
湊が返事をすると、美月はにこっと笑った。
「ごめん、白石。続きはあとでもいいか?」
「もちろん。天野さんのところに行ってあげて」
莉子は笑顔で答えた。
湊が美月のもとへ向かう。
その背中を、莉子はしばらく目で追っていた。
彼が美月の声に反応したとき、表情がほんの少し明るくなったこと。
美月のところへ向かう足取りに、迷いがなかったこと。
莉子は、それらに気づいていた。
「……そっか」
小さくつぶやいて、手元の資料に視線を落とす。
自分は、朝倉湊のことをもっと知りたいと思っている。
それは、ただ同じクラスの人として興味があるというだけではないのかもしれない。
けれど、その気持ちに名前をつけるには、まだ少し勇気が足りなかった。
*
昼休み。
莉子は一人、図書室の窓際に座っていた。
開いているのは、進路選択に関する資料だった。
彼女のORACLEプロフィールには、以前から安定した評価が並んでいる。
学習能力は高水準。
計画遂行能力は非常に高い。
集団内での協調性も高く、進路適性の判定も良好。
周囲から見れば、申し分のない結果だった。
実際、莉子自身もその評価に助けられてきた。
成績がよければ、先生たちに褒められる。
任された仕事をきちんとこなせば、周囲から頼りにされる。
失敗しなければ、期待を裏切らずに済む。
だから、彼女はいつも正解を探してきた。
どうすれば間違えないのか。
どうすれば失望されないのか。
どうすれば、今の自分を保っていられるのか。
それらを考え続けるうちに、自分が何を望んでいるのか、わからなくなっていた。
「……何がしたいんだろう、私」
口に出してみても、答えは出てこなかった。
そのとき、向かいの席に誰かが座った。
「ここ、いい?」
顔を上げると、美月がいた。
「天野さん?」
「うん。隣の席、空いてなかったから。邪魔だったら移動するけど」
「ううん、大丈夫。どうぞ」
美月は笑顔で座り、スケッチブックを机に置いた。
しばらく、それぞれの作業を続けた。
やがて、美月が莉子の資料に目を向けた。
「それ、進路の資料?」
「うん。ちょっと気になって」
「そっか」
美月は、それ以上、無理に尋ねなかった。
その距離感が、莉子には不思議と心地よかった。
普段、誰かに悩みを見せると、すぐに理由を聞かれたり、解決策を提案されたりすることが多い。
けれど、美月はただ、そこにいてくれた。
しばらくして、莉子のほうから口を開いた。
「……ねえ、天野さん」
「なに?」
「将来、何になりたいかって、もう決まってる?」
美月は少し考えた。
「ううん。まだ、はっきりとは決まってないよ」
「そうなんだ」
「でも、絵を描くことは続けたいなって思ってる。絵を仕事にできるかはわからないけど、好きなものを自分から手放したくないから」
莉子は、スケッチブックに目を落とした。
「……怖くない?」
「怖いよ」
美月は、あっさり答えた。
「自分の絵が誰かに認められるかもわからないし、将来どうなるかもわからない。でも、怖いからって、最初から諦めたら、きっと後悔すると思うんだ」
莉子は、静かにうなずいた。
「私は……」
言いかけて、言葉が止まった。
美月は急かさずに待っていた。
「私は、ずっと間違えないようにしてきたの。成績も、学校での役割も、進路も。期待されたことをちゃんとやれば、みんな安心してくれるから」
莉子は苦笑した。
「でも、最近、何が正解なのかわからなくなってきて。周りが期待していることと、自分がやりたいことって、同じなのかなって」
美月は、ゆっくりとうなずいた。
「そっか」
「……変かな、こんなこと考えるの」
「全然、変じゃないと思う」
美月はまっすぐに莉子を見た。
「莉子ちゃんが今まで頑張ってきたことは、本当のことだよ。でも、これから何をしたいかは、今までの頑張りとは別に考えてもいいんじゃないかな」
「別に……?」
「うん。今まで頑張ってきたからって、これからもずっと同じ道を選ばなきゃいけないわけじゃないと思う」
莉子は目を伏せた。
その言葉は、湊が以前話してくれたことにも似ていた。
自分が積み重ねてきたものを否定する必要はない。
けれど、それだけを理由に未来を決めなくてもいい。
「……ありがとう、天野さん」
莉子は小さく笑った。
「なんだか、少し安心した」
「よかった!」
美月はうれしそうに笑った。
そのあと二人は、文化祭の展示について話し始めた。
莉子は、展示の説明文を作るうえで考えたことを話した。
美月は、絵に込めた思いを伝えた。
違う考えを持っていても、互いの言葉を聞くことはできる。
その当たり前のことが、莉子には少し新鮮だった。
「ねえ、天野さん」
「うん?」
「文化祭、楽しみにしてるね。あなたの絵、もっとたくさんの人に見てもらえるといいね」
「ありがとう、莉子ちゃん!」
美月は、満面の笑顔で答えた。
莉子も笑った。
その笑顔の奥に、ほんの小さな憧れが生まれていた。
自分の好きなものを、好きだと言えること。
不安があっても、まだ決まっていなくても、自分の言葉で未来を考えられること。
莉子は、そんな美月の姿がまぶしく感じられた。
そして、ふと考えた。
朝倉湊も、最近、少し変わった。
以前よりも、自分の考えを言葉にするようになった。
誰かの話を聞いて、すぐに正解を出そうとせず、一緒に考えようとするようになった。
その変化のそばには、いつも美月がいる。
「……天野さんって、すごいね」
思わず口にすると、美月は不思議そうに首をかしげた。
「え? 何が?」
「ううん。なんでもない」
莉子は笑ってごまかした。
自分が湊に惹かれ始めていること。
そして、彼が美月に向ける視線が、ほかの人に向けるものとは少し違うこと。
それらを、まだ誰にも話すつもりはなかった。
*
放課後。
湊は、文化祭の準備を終えたあと、教室に残っていた。
机の上には、教育学部の資料と文化祭の進行表が並んでいる。
最近、少しずつ調べ始めた教員という仕事。
知れば知るほど、簡単な仕事ではないことがわかってきた。
教科を教えるだけではない。
生徒の話を聞き、悩みに向き合い、ときには答えの出ない問題を一緒に考える。
自分が想像していた以上に、責任のある仕事だった。
「……本当に、俺にできるのかな」
湊は資料を閉じかけた。
そのとき、教室の入り口から声がした。
「朝倉くん、まだいたんだ」
莉子だった。
「白石? どうした?」
「先生に頼まれた資料を届けに来たの。そしたら、明かりがついていたから」
莉子は机の上を見た。
「それ、進路の資料?」
「うん。ちょっと調べてみようと思って」
「へえ……」
莉子は意外そうに目を瞬かせた。
「朝倉くんが、自分から進路を調べるなんて」
「またそれかよ。俺だって、進路くらい考えるって」
「ごめん。でも、以前はORACLEの推奨進路をそのまま受け入れている印象があったから」
湊は、苦笑した。
「まあ、実際そうだったしな」
「何か、きっかけがあったの?」
湊は少し考えた。
美月と出会ったこと。
自分の未来について考えるようになったこと。
誰かの選択を支えたいと思ったこと。
どこまで話すべきか迷ったが、隠す必要もない気がした。
「……最近、誰かの話を聞くことって、大事なんだなって思うようになったんだ」
「誰かの話を聞くこと?」
「うん。悩んでる人がいたら、すぐに答えを出すんじゃなくて、まず、その人が何を考えてるのか聞いてみる。そういうことができる人になりたいと思って」
莉子は、湊の言葉をじっと聞いていた。
「それで、先生という仕事に興味を持ったんだ」
「まだ、決めたわけじゃないけどな。調べてみたら、思っていたより大変そうだし」
「でも、いいと思う」
莉子は微笑んだ。
「朝倉くんが、自分で考えて選ぼうとしていることが」
湊は、少し驚いたように彼女を見た。
「……ありがとう」
「ううん。私も、見習いたいなって思っただけ」
莉子は窓の外に目を向けた。
夕焼けが校庭を照らしている。
「私も、少しずつ考えてみようと思う。自分が何をしたいのか」
「そっか。いいんじゃないか?」
「うん」
莉子は笑った。
その笑顔を見て、湊も自然と笑顔になった。
「……ねえ、朝倉くん」
「ん?」
「また、こういう話をしてもいい?」
「もちろん。俺でよければ」
莉子は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
本当は、進路の話だけではなかった。
もっと湊と話したい。
彼が何を考えているのか、何を大切にしているのか、もっと知りたい。
けれど、それを口にするには、まだ早い気がした。
「ありがとう。じゃあ、また今度」
莉子は手を振って、教室を出ていった。
湊は再び資料に目を落とした。
そのとき、端末が短く鳴った。
『新たな進路関心を検出しました』
『関心分野:教育・人材育成』
『将来予測の再構成を推奨します』
湊は、画面を見つめた。
以前なら、すぐに結果を確認していたはずだ。
けれど今は、まだ結果を見なくてもいいと思えた。
自分が何をしたいのか。
どんな人になりたいのか。
それを考え始めたばかりなのだから。
湊は端末を伏せ、資料をもう一度開いた。
「……もう少し、調べてみるか」
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
*
その頃、ORACLEの管理中枢。
無数の予測データが、静かに処理されていた。
『対象者:朝倉 湊』
『新規関心分野:教育・人材育成』
『現行推奨進路との乖離:拡大傾向』
『対象者の行動変化:継続して観測』
さらに、別の記録が呼び出された。
『関連対象者:白石 莉子』
『接触履歴:増加』
『情緒的反応の変化:検出』
『関係性の予測:再評価中』
画面には、莉子の将来予測が表示されていた。
成績。
進路。
周囲からの評価。
これまで、安定していた項目の一つに、新しい変化が現れていた。
『特定人物への関心:上昇』
『対象者:朝倉 湊』
そして、画面の最下部に、旧評価モデルの記録が浮かび上がった。
『過去評価との照合を開始します』
『旧評価モデル:OR-07』
誰もいない管理室で、処理だけが進んでいく。
湊の未来が変わり始めている。
美月の未来は、過去の評価に引き戻されようとしている。
そして今、新たに莉子の心にも、予測しきれない変化が生まれ始めていた。
その変化が、三人の未来をどこへ導くのか。
まだ、誰にもわからなかった。




