神様、行かないで。
サワサワと流れる風の音。私の体をすり抜ける風。人の足音のように聞こえる風。
分類不能な風の音――知っているつもりでも私が知っているのは世界のほんの一部だと思い知らされる。
そして石のベンチに座る私はしっとりと冷たい。
「誰か、来ないかな?」
と呟いてみた……やっぱり来ないよね。
今どき神社に来るような人はあまりいない。いや、居るんだけどそれはもっとメジャーな、伊勢神宮みたいなとこかな。ここみたいに森の中にポツンとあって、車ではもちろん来れないし徒歩でも一時間以上かかるような……神様のいない神社に来るような人はほとんどいない。
ちょっと訂正、私が居る。
古い地図で探して、めっちゃ頑張って来てみた。あの時はまだまだ若かったから熱意があったんだよ――ま、ほんの少し前の話なんだけど。
とにかく私は神社のベンチに腰かけている。
「おーい、神様」
さっきの願いより少しだけ大きく言ってみる。
しかしその声はジャラジャラと砂利がぶつかり合う音の中に隠れてしまった。あっさりしてるけど、こんなことにももう慣れた。
昔っから私はこういうことばかり。自分がやりたいことは全く聞こえない声で呟いて、それで終わり。聞こえるはずがないことは分かっているけれど、聞いてくれなかったことを勝手に恨む。そんな卑しくて神様にも見放された人間。
……私は自分の手を握った。
山の空気に触れてすっかり冷たくなっている。もうちょっと厚着すればよかったかな。けど、今さら言っても遅いよね。それに冬だからまだ冷たいけれど、夏になったら暑くて仕方がない。私がボーっとしている間に気候も変わってしまった。
で、どうしよう。
私がモヤモヤと解決しないことを考え続けていると、参道から誰かの足音がした。風とは間違えようもない人間の足音。その音は段々と大きくなり、二百段はあろうかと言う石段を一歩ずつ進んできていた。一人なのか話し声は聞こえない。
さて、私はどうしようかな。今来ている人間の前に普通に出てもいいのだけど、流石にそれじゃあんまりだよね。私も怖かったし。うーん、見守ろうかな。道のど真ん中を歩くような失礼極まりない人じゃなかったら……うん、それでいこう。
私はその人間が来るのをベンチに座りながら待った。
五分ほどしただろうか、鳥居を通して石段から男の頭が徐々に表れてきた。そこそこ誠実そうな顔に、暖かそうな厚着。私がお見合いした人よりは全然いい人だと、何となく思った。
その彼は鳥居に一礼してから境内に侵入する。こちらとあちらは全く別の世界、とはいっても大したことは変わらないんだけど。ちょっと世界が違うだけ、一センチか一ミリかそれほどまでに小さな境界を彼は通り抜けた。
私の頭に彼の言葉が流れてくる。
(こんなとこにもあるんだな、神社)
そうだよ、こんなとこにも神社ってあるんだよ。
八百万の神とは言ったものだけど、単純に人口で割れば十二人ちょっとだよ。ちょっとした村さえあれば神社ってあり得るんだよね……強引だけど。
そんなことより彼は手水を取り始めた。軽く一礼。右手でひしゃくを持って左手を、そして右手を。右手で再び柄杓を持って左手に水をため、軽く口をすすぐ。最後に彼は柄杓を立てて柄を水で流した。
おおぉ。ここまでしっかりと作法を気にしている人はあまりいないから驚きだ。でもこんな上から目線で言う私も神様に教えてもらったんだけどね。なので一応私が、臨時の神様?――いやいや、自称でも言っちゃいけないことの一つくらいあるでしょ。
勝手に自分のことを責め始めた私を無視しながら彼は、参道の端をゆっくりと歩いていく。風と足によって砂利がジャラジャラと数珠のように揺れる。数珠は仏教だけど、どこか音が似ていた。そして彼は肩掛けカバンからお財布を取り出し、五円を賽銭箱に投げ入れた。
(神様……)
と言う彼の心の声が聞こえる。
そして二礼、二拍手。
(……俺は、)
最後の一礼。
いいところで寸止めされてしまった。いや、私なんかが聴かない方が良かったのかも。私はあくまで神様代理みたいなことをしているだけで、神様じゃない。悩みを聞いて解決などできないのだから……
そして彼は無意識なのか私が座っているベンチに真っ直ぐ向かってきた。「待って待って!」と私はあわててしまったけれど、見えてないからね、彼からは。そのことを思い出したときには恥ずかしくてその顔を真っ直ぐに見ることが出来なくなってしまっていた。
彼はポケットからスマホ? を取り出し、触り始める。
見ちゃ悪いとは思いつつ、私はその画面を上から覗いた。
『勝次:俺、やっぱり辞めるわ』
たぶん今スマホを触っている人が勝次なんだろう。そして返信が。
『啓介:は? お前今辞めるとかどうかしてるって』
ふむふむ、その啓介って人が何か怒ってるわけか……この感じ、私のお父さんと苦手で嫌だな。押し付けるみたいな。でも、これ以上見るのは。
私が顔を引っ込めるか突き出すか迷っていると、私の隣に座る勝次? 君はダダダと打ち込み、送った。
『勝次:いいだろ、俺が勝手に困るだけなんだから』
『啓介:ふざけんなよ。こっちだってお前がいる前提で組んでんだから、チームとしてやってくれって言ってんだ』
はぁ、チームか……私も家って言うチームに入ってたんだよね。もうあまり思い出すことはないけれど。そしてこの勝次君はそのチームから抜けるって啓介君に伝えて、今ここにいる。きっと神様に何か力を貰いに来たのだろう。それともただ歩くことで発散するしかなかったのか……私みたいだな。
勝次君はスマホを地面に叩きつけようと振りかぶった。私は思わず体を縮め、お父さんの顔を思い出す。けれどもいつまでたっても叩きつける音は聞こえなかった。薄目で彼を見ると、彼の腕は空中で遮られたように動かなかった。
「うるせえよ、俺だって……俺だってさ」
勝次君の言葉は段々と小さくなる。
私には分かる――きっと、自分自身で自分のことを信じられていないんだろうな。私は自分のことを信じられてもいないのに決断してしまった。
彼は見えない私の横でじっと動かなかった。石のようになってしまった彼の表情は重たく、粘ついているように私の目では見えた。冷静になり始めているとは外見からは思うのだけど、彼の心の中は全くもって静けさの入る隙間のないほど荒れ狂っていた。
(これは俺が決めたことなんだよ。チームがどうなったって、俺は……その)
(違うだろ。俺は自分のことを考えるべきなんだ。あいつらを見捨てて、強いチームに鞍替えしたっていいんだよ!)
「そうだよね」と私は言った。
すると彼は私の声が聞こえたのか、顔を上げ、疑問に顔をしかめる。
私も自分の言葉が勝次君に聞こえているとは夢にも思わなかった。でも、聞こえるってことは私が彼に聞かせたいってことだよね。同じことを繰り返さないようにしないといけないって。
「あのさ、」
「……幻聴だ。ハッハハ……ぁ」
「幻聴じゃない」
「おいおい。じゃあ誰なんだよ、お前は」
……私は誰なのだろう。けれども今考えるような時間はなかった。
「私は神様だよ。あなたの悩みに寄り添いたいって思った……のです」
もちろん信じてくれない確率の方が高いし、私みたくいきなり聞こえる声にひょこひょこついて行くような人にも見えない。
けれども彼は聞いてくれた、私が神だと信じて。
「じゃあ教えてくれよ、俺はどうすればいいのか」
「どう……私はあなたがやりたいようにやればいいと思う。もちろんあなたの詳細な事情とか諸々のことは知らないけれど」
「無責任だな。ハッ、幻聴に何言ってんだ俺」
そうやって彼は笑った。笑いには悲しみと決意、両方が入り混じっているような、そんな息を吐きながら。
彼の言う通り私は無責任なんだろう。そりゃ知りもしない人間を分かったようになって、おいそれと神様気取りで言葉を吐いているのだから。
やっぱり私に神様代理はできないのかもしれない。自分から首を突っ込んでおくことを決断しながら……
彼は見えない私すらお見通しなように、軽蔑したように言う。
「幻聴でも言ってやるよ。勝手に分かった気になって、勝手に良くしようなんて思うなよ。俺は自分であいつらを捨てるって決断したんだ。お前が言ったからそうしたんじゃなくて、俺が、だ!」
「……ごめんなさい」
「それでいいんだよ、それで」
「でも、それならどうして悩んでいるの?」
私の口からいつの間にかその言葉が突いて出た。
彼は砂利を掴み、私の声が聞こえる方に投げつける。けれどもその砂利はただ、ほんの少し魂の持った空気に揺らされながらも地面にポトリと落ちた。
「そんなこと、分かってるよ」
勝次君は言った。泣きそうな顔を浮かべ、自分の言葉がどこまで本心か信じれなくて。
こんな時神様ならどうしたのだろう。私にしてくれたみたいにすべてを受け入れ、すべてを捨て去ってしまうことを選択肢として提示するのだろうか。それとも、興味がないと気分で境内から追い出すのだろうか。
……けれども私は神様じゃない。
「私が唯一知っているのは道徳は全能じゃないってこと」
と彼に伝えた。
いや、一方的に押し付けて決めかけている心をさらにぐちゃぐちゃに壊した。
そして、彼――勝次君は苦笑いを浮かべた。忌々しいものを見たかのように。そんな彼の顔はどこか私の父に似て見えてしまって、私はさらに言ってしまいたくなった。
父親は私を殴ったし、お見合いだって勝手に決めた。けど、その時の道徳じゃ父親に権力があることは決まっていて、逆らう私は恩知らずの恥知らずで……結局私は逃げた。母のように胎盤でつながっていてもいないのに、ゆるゆると小さなひもがまだ天に繋がっているように。
ダメだね。彼のことを私は父親の代わりにいじめているだけ、何にも変わりはしないし、すっきりだってもちろんない。
けれども勝次君は言い返した。
「だから何だって言うんだよ。それじゃ、俺が不義理なことをしてるって言ってるようなものじゃないか」
「そうだよ、そう言ってるの」
「言われなくとも俺は分かってるよ。あいつらに、送るべき言葉が何かなんて」
「なら、ここにすべて捨てて行けば?」
「は?」
「捨てて行けばいい。スマホを取って、思ったことを打ち込んで」
彼は手に持ったスマホをじっと見つめた。真っ暗な画面に映るのは彼の顔。指の腹で電源を入れ、アプリを開く。
『啓介:返事しろよ』
『啓介:お前がそんな奴だとは思ってもなかったよ』
『啓介:返事してくれ』
『啓介:まだ信じたい』
啓介君はまだまだ、勝次君のことを見捨てられないみたいだ。道徳を勘定に入れなければ、見捨ててしまった方が良いというのに。そしてまた目の前の勝次君もそのメールから目が離せないようだった。彼の心を私は読むことはできたのだろうけど、その限界まで開いた目がすべてを周囲に教えていた。
彼は言う。
「言ったよな、思ったことをって」
「……言った」
「じゃあ、俺の好きにやらせてくれ。そしてもう二度と」――「出ないでくれ」
私は黙った。黙らなくとも、もう私の声が聞こえないことは分かっていたけれど、どこかでつながった空気が彼の耳に届いてしまうのか私は気が気ではなかった。その上私は眼を逸らした。ここまで言ったなら私も背負うべきなのだろうけど、怖かった。
勝次君がタッチパネルに指を乗せ、微弱な静電気の変化が生じる。
境内の風はおあつらえ向きに止んだ。
文字を打つパタパタという効果音は森に吸い込まれ、響くことなどない。
「終わった」
と彼はスマホをベンチに置いた。ベンチの静寂が彼のスマホの熱を徐々に冷ましていく。勝次君は清潔な空気を吸い込み、私に吐こうとしてた空気を肺からすべて追い出す。そして彼は立ち上がった。スマホをポケットに入れ、鳥居に向かって一直線に進む。
神様ならここで何か一言告げるのだろう。声にならなくとも風に乗って伝わるような微妙な言葉を。
けど私はその後姿を止めることはできなかった。
そんな私をよそに、「俺はここに捨てて行くよ」と彼は最後に言い、鳥居に一礼して去っていった。
けれども私は神様にもらった透明な体のまま、固まることなく漂っている。
どうしてこうなっちゃうんだろう。私でももっとあの勝次君に寄り添うことが出来たんじゃないのかな? 教えてください、神様。
しかし空を見ても、そこには誰一人としていなかった。
「神様、私を捨ててどこ行っちゃったんですか」




