第二話 不穏なる竜族の領地
酒場の重厚な木製の扉が押し開かれた、その瞬間——
俺ははっきりと感じ取った。
――空気が、変わった。
ついさっきまで満ちていた談笑の声、杯を打ち鳴らす音、焼き肉の香ばしい匂い。
それらすべてが、まるで誰かに一気に吸い取られたかのように、同じ一秒の中で沈黙へと落ちた。
雑音はない。
物音もない。
ただ、張りつめたような、鋭い沈黙だけがそこにあった。
そして、その沈黙の中心にいたのは——
銀髪に金の瞳を持つ、一人の女性だった。
彼女は細い指で、水晶玉をそっとテーブルに置く。
球体が木製の天板に触れた瞬間、澄んだ音が店内に響いた。
それはまるで、何かの儀式が始まった合図のようだった。
次いで、彼女は立ち上がる。
深紅の鎧が灯りを反射し、かすかに輝く。
歩みに合わせて揺れるスカートの裾。
急ぐ様子はないのに、不思議と目を逸らせない。
「……あなたたちが、今日この街に入った異邦人ね?」
その声は、問いというよりも——
すでに答えを知った上での、確認に近かった。
俺は警戒を解かぬまま、答える。
「……あんたは誰だ?」
彼女は、まるでその反応を予想していたかのように、口元をわずかに緩めた。
「失礼したわね」
「私の名は——紗伊・ザナ。見ての通り、この場所を率いる者よ」
紗伊。
やはり、現実世界では聞かない名前だ。
「それで……俺たちに何の用だ?」
ザナはすぐには答えず、テーブルの上の水晶玉へと視線を落とした。
その瞬間、俺はようやく違和感の正体に気づく。
——酒場にいる人間たちが、あまりにも落ち着きすぎている。
驚きも、動揺もない。
まるで——俺たちが現れるのを、待っていたかのように。
……違う。
俺たちがここに来ること自体、最初から予測されていたんだ。
「どうやら、少しは気づいたようね」
ザナはそう呟き、指先で水晶玉の表面を優しくなぞる。
その仕草は、まるで飼い慣らしたペットを撫でるかのように自然だった。
「この水晶玉は、すでに予言しているの」
「この国が、近いうちに大きな変化を迎えることを」
彼女は顔を上げ、まっすぐに俺たちを見る。
「そして——あなたたちは、その変化の一部よ」
「だから……ずっと俺たちを監視していたのか?」
「ええ。その通りよ」
彼女は一切隠そうともせずに認めた。
「もっとも、あなたたちがあの二人に連れられて街へ入ったことは……想定外だったけれど」
あの二人。
老夫婦のことだろう。
「じゃあ、目的は何だ?」
俺が問い詰めると、ザナは一歩踏み出し、真正面から俺を見据えた。
「簡単な話よ」
「私たちに加わり、王朝を打倒すること」
空気が、ずしりと重くなる。
「……断ったら?」
政治。
俺が最も関わりたくない類のものだ。
ザナは小さく息を吐いた。
「その場合は……仕方ないわね」
その言葉と同時に、彼女の背後にいた二人の竜人が立ち上がる。
巨体と武器が落とす影が、酒場全体の圧迫感を一気に増幅させた。
俺は鎌を強く握りしめる。
手のひらに、じわりと汗が滲む。
酒を飲んでいた客たちも、全員が動きを止め、視線をこちらへ向けていた。
ここは——敵のど真ん中だ。
逃げ場はない。
しかも、背後には光がいる。
「……そこまで」
ザナの声は低く、それでいてよく通った。
竜人たちは、まるで命令に縫い止められたかのように動きを止め、席へと戻る。
「言ったはずよ。ここで争うことは許さない」
「ここは……私たちが守らなければならない場所なのだから」
竜人たちは頭を下げる。
俺はわずかに眉を上げた。
少なくとも——ここでは無茶はできないらしい。
「そこまで大事な場所なら、俺が暴れる可能性も考えないのか?」
試すように言うと、ザナは小さく笑った。
「あなたは、しないわ」
再び、彼女の手が水晶玉に置かれる。
「あなたが知りたい答えは——すべて、ここにあるから」
俺は言葉を失った。
この世界の情報……
それを、完全に交渉材料にしている。
「明日、東の神殿で待っているわ」
それだけ告げて、話を締めくくる。
「分かった」
「だが今日は、休ませてもらう」
ザナは、最初からそうなると分かっていたかのように微笑んだ。
「それじゃあ、協力するってことで受け取っておくわね」
……本当に、選択肢を与えない女だ。
だが、彼女は俺たちを引き止めなかった。
それどころか、監視を解くよう部下に命じた。
それは信頼なのか。
それとも、逃げられないという自信なのか。
俺には、まだ判断がつかなかった。
部屋へ戻り、俺はベッドに腰を下ろす。
「光、起きてるか?」
「うん、まだ」
俺は一度深呼吸する。
「確認したいことがある」
「この世界に来てからの……俺たちの状態だ」
視界に、情報ウィンドウが展開された。
[斎藤 信]
職業:影鎌士
属性:闇
武器:鎌
スキル:影刃鎌、影走り、闇裂爪痕
[斎藤 光]
職業:神官
属性:不明
武器:杖
スキル:聖律の光、治癒、祈願障壁
……やはり、そうだ。
俺たちは――
RPGの法則で動く世界にいる。
戦闘後に傷が消える理由。
魔物の行動パターン。
都市や種族の構造。
すべて、辻褄が合う。
「お兄ちゃん……顔、怖いよ」
「大丈夫だ」
俺は彼女の頭を軽く撫でた。
「明日、神殿に行けば、もっと分かる」
光は小さく頷いた。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
翌朝、最低限の身支度を整え、光とともに東の神殿へ向かう。
老夫婦はすでに家を出ており、机の上には短い書き置きと鍵だけが残されていた。
龍の村は、東西でまるで別世界だ。
西側は賑やかで、旅人も多く、商いの声が絶えない。
それに対して東側は——時間に取り残されたかのようだった。
まばらな家屋、土の道。
風が吹くたびに砂埃が舞い上がる。
人の数は少なくないのに、誰の顔にも言葉にできない疲労が滲んでいる。
そして、そのすべてを見下ろすように——
白い大理石で造られた神殿がそびえ立っていた。
孤高の守護者。
そんな言葉が自然と頭に浮かぶ。
神殿に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
広く、静かで、どこか神聖な静寂が、俺たちを包み込んだ。
内部にあるのは、ただ一つ。
完全な形を保った、巨大な竜人の彫像。
「……紗伊・ヴィナ=パンド……」
台座に刻まれた名を、俺は声に出して読んだ。
「彼は、私たちの祖先よ」
背後から声がする。
振り返ると、いつの間にかザナが立っていた。
「竜族を率い、他国と手を取り合い、北方帝国に抗った存在……」
「それらはすべて、石板に記されているわ」
だが、その語り口には敬意よりも——
どこか距離を置いた、不信に近い感情が混じっていた。
「でも……」
俺は彼女を見る。
「姓が同じだな」
ザナは小さく頷く。
「ええ。私は紗伊家の人間よ」
さらに問いかけようとした、その時——
彼女の表情が、わずかに曇った。
「……来たわね」
「来た?」
答えはすぐに分かった。
神殿の外から、慌ただしい足音が駆け込んでくる。
「見つけたぞ! 奴らはここだ!」
武装した兵士たちが、槍を構えながらなだれ込んでくる。
一瞬で、俺たちは包囲された。
「……これが、あんたの言ってた用件か?」
俺が睨むと、ザナは肩をすくめる。
「どう受け取るかは、あなた次第」
兵士の一人が怒号を上げた。
「王国の反逆者ども! 覚悟しろ!」
「待て、俺は今日初めて——」
「反逆の王女と会話した者は、すべて共犯とみなす!」
……反逆?
王女?
待て。
王女?
ザナが、気まずそうに微笑む。
「後で説明するわ」
「……あんた、王女なのか?」
「“元”王女、ね」
最悪だ。
状況が一気に詰んだ。
兵士たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
ザナは俺の背中に背を預け、小さく苦笑した。
「ごめんなさい。交渉決裂みたい」
「最初から交渉する気もなさそうだったけどな」
次の瞬間——
兵士たちが、一斉に突撃してきた。
「祈願障壁!! お兄ちゃん、私が守る!」
光の声とともに、淡い光の壁が展開される。
槍の一撃がすべて弾かれた。
今だ。
「ナイスだ、光! 影刃鎌!」
鎌が描いた黒い軌跡が、兵士たちを一気に薙ぎ払う。
できた隙間を突き、俺たちは包囲を突破した。
だが——
倒れた兵士たちは、起き上がらない。
呻き声も、苦悶もない。
まるで——
電源を切られた人形のようだった。
ザナが眉をひそめる。
「動きが……揃いすぎている」
「こんなの、普通じゃない……」
彼女の声には、初めて明確な恐怖が滲んでいた。
俺は彼女の腕を掴む。
「今は撤退だ」
「……ええ。貧民街の拠点へ」
俺たちは、東側の——
崩れかけていながら、確かに生きている街へと走り出した。
その背後で、神殿は静かに佇んでいる。
そして、俺の中で一つの疑問が、はっきりと形を成し始めていた。
――兵士たちを操っているのは、誰だ?
――それとも、この「王朝」そのものが、すでに腐りきっているのか?




