第一話 竜の領地
気がついたとき、俺は見知らぬ場所に立っていた。
空気には草と土の匂いが混じり、濃い木々の隙間から差し込む陽光が、細かく砕けて地面に落ちている。
光もすぐ隣にいた。手にはしっかりと杖を握ったまま、さっきまでの戦闘の緊張がまだ抜けきっていない表情をしている。
「お兄ちゃん……ゴブリン、また追ってこないよね?」
「たぶん、振り切れたはずだ」
深く息を吸い、周囲の音に意識を集中させる。聞こえるのは虫の声と鳥のさえずりだけ。異変はない。
――少なくとも、今は安全だ。
あの戦闘のあと、俺たちは確かに逃げ切った。
だが同時に、完全に道を見失ってしまった。
木々の隙間から見える空を見上げる。差し込む光が、やけに眩しかった。
「ここ……一体どこなんだ?」
焦りが胸に広がる。
そのとき、腰元に触れた水晶のインターフェースが反応し、光の画面が浮かび上がった。
――地図。
画面には、この世界の全体像が映し出されている。中央には巨大な建造物があり、そこから複数のエリアが放射状に広がっていた。地形はそれぞれ異なるが、すべてが繋がっている。
そして俺たちの現在地は、左下に表示された森林地帯だった。
「お兄ちゃん、これ……村じゃない?」
光が、少し離れた位置に表示されたマークを指差す。
「ああ、たぶんそうだな」
俺はうなずいた。
「行ってみよう。情報も手に入るかもしれない」
画面を閉じ、改めて鎌を握る。
ただの偵察でも、警戒は怠れない。
見知らぬ世界。知り合いは誰もいない。
森の奥からは、聞いたことのない低い唸り声も時折混じる。
――この世界は、想像以上に危険だ。
林道を十分ほど進んだときだった。
馬の蹄の音。
反射的に光の手を引き、茂みの陰へ身を隠す。鎌を握る手に力が入る。
「……静かに」
音は次第に近づき、やがて二つの影が見えた。
年老いた男女――老夫婦が、獣車をゆっくりと進めている。
外見はほとんど人間と変わらないが、二人の背後には細長い尻尾があり、瞳は金色に輝いていた。
「……獣人、なのか?」
小声で呟いた、その瞬間。
足元の枝を踏み折ってしまった。
乾いた音が、森に響く。
老夫婦はすぐにこちらを向いたが、警戒する様子はなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「こんにちは。この森は、あまり歩き回る場所じゃありませんよ」
――言葉が通じる。
それだけで、胸の緊張が少し緩んだ。
「……迷ってしまって」
慎重にそう答える。
老爺さんは、土埃にまみれた制服と、戦闘で破れたズボンを見て、ゆっくりとうなずいた。
「見ればわかります。さあ、乗りなさい。この道は、夜になると危険ですから」
一瞬迷ったが、俺はうなずいた。
このまま森に留まるほうが、明らかに危険だ。
獣車は、揺れながら進んでいく。
道中、二人は植物の話をしながら、水や乾パンを分けてくれた。
突然現れた俺たちに対して、警戒の色はまったくない。
やがて木々が途切れ、遠くに家々の影と、立ち上る煙が見えてきた。
「ここ……村ですか?」
光が小さく尋ねる。
「ええ。ここは《龍族領地》と呼ばれています」
「心配はいりませんよ。ここの竜人たちは、もう人を傷つけたりしませんから」
老婦人が微笑んで言った。
――龍族領地。
その言葉に、胸がわずかにざわつく。
もしここが本当に龍族の住まう場所なら、この老夫婦の正体は――。
獣車は村へと入った。
目に飛び込んできた光景は、俺の想像とはまるで違っていた。
子どもたちの笑い声。商人の呼び声。立ち上るかまどの煙。
どれもが生活の匂いに満ちていて、ここが異世界だということを忘れそうになる。
老夫婦は、山際に建つ一軒の家へ案内してくれた。
木造の家は古いが、手入れが行き届いている。室内には、薬草とお茶の香りがほのかに漂っていた。
「さあ、座りなさい。ずいぶん疲れているようですから」
「ありがとうございます……本当に助かりました」
光が頭を下げる。
「はは、たいしたことじゃありませんよ。昔にも、あなたたちのような旅人が来たことがありましてね」
「……昔にも?」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「ええ、ずっと昔の話です」
老爺さんは、どこか懐かしむような声で続ける。
「あなたたちと同じ言葉を話し、奇妙な装備を持った者たちでした。やがて去っていきましたが、それ以降も、ときどきあなたたちのような人間が現れるのです」
ふと、壁に掛けられた一枚の古い絵に目が留まった。
銀の鱗をまとった少女と、青い杖を持つ少女。
炎と光の中に立つ、その姿。
「……あれは?」
「孫たちです」
老婦人が、静かに答えた。
「でも……もう、長いこと帰ってきていません」
その瞬間、言葉を失った。
穏やかな口調の奥に、深い寂しさが滲んでいた。
――だからこそ、俺たちを疑いもせず受け入れてくれたのかもしれない。
夕食を終え、俺と光は隣の小屋で休むことになった。
夜が更け、村の灯りが一つ、また一つと消えていく。
「お兄ちゃん……この村の人たち、みんな優しいね」
「ああ……そうだな」
窓の外、曲がりくねった通りを眺めていた、そのとき。
どこかの方向から、人々のざわめきと、揺れる火の光が見えた。
「……この時間に?」
俺は立ち上がり、外套を羽織り、鎌を手に取る。
「光、ここで――」
「待って、私も行く!」
「……仕方ない」
ため息をつく。
「でも、無理はするな。怪我をしたら、すぐ回復魔法を使うんだぞ」
「うん!」
杖を握り、光は俺の後をついてきた。
声のする方へ近づくにつれ、空気が妙に張りつめていく。
広場には、村人たちが集まっていた。
木箱の上に立つ一人の男が、声を張り上げる。
「腐敗した王族に、いつまで支配され続けるつもりだ!」
賛同の声もあれば、沈黙する者もいる。
俺は影に身を潜め、様子を窺った。
その瞬間――男と目が合った。
口元が、わずかに歪む。
――偶然じゃない。
村に入ってから、ずっと視線を感じていた。
「真実を知りたいなら、ついて来い」
男はそれだけ言い残し、去っていく。
「お兄ちゃん……?」
「確かめたいことがある」
俺は光の手を取り、後を追った。
細い路地を抜け、辿り着いたのは、古びた酒場だった。
男が扉を押し開ける。
俺たちも、続いて中へ入る。
薄暗い灯りの中、数人の屈強な男たちが卓を囲んでいた。
そして、その中心――
深紅の鎧をまとい、青い水晶球を手にした一人の女が、静かにこちらを見つめていた。
金色の瞳。銀白の髪。
空気が、一瞬で凍りつく。
彼女は、ゆっくりと微笑む。
「異邦人……ようこそ」
低く、気品ある声。
まるで、竜が囁くような声だった。
俺は鎌を握り直し、光を背後に庇う。
――直感で分かる。
この女は、これまで出会ったどの竜族とも、決定的に違う。
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遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
2026年が皆さんにとって良い一年になりますように。
これからもよろしくお願いします。




