悪役令嬢の姉 ~悪役令嬢を断罪した愚かな祖国に、本物の悪女が戻ってきた~
『悪役令嬢』シエナ・イゼ・モンフォールの墓は、うら寂しい郊外の山に、まるでうち捨てられたかのようにぽつんと建っていた。本来であれば公爵家が代々懇意にしている教会に埋葬されるはずが、こんな山奥に追いやられてしまったのだ。墓参りに訪れる者がいないことは、踏み荒らされた形跡のない青々とした雑草の繁茂から見ても明らかだった。
その墓石に、上等のコートが汚れるのも厭わず、豪奢な黄金の巻き毛をした女がすがりつく。
「シエナ……ただいま。ごめんなさい、戻りが遅くなって、しまって……」
次の『ごめんなさい』という言葉は、喉が詰まって発することができなかった。無様なうめき声が女の喉からこぼれ落ち、涙がせり上がる。シエナ、かわいい妹、血を分けた実の姉妹。大切な妹が不当な仕打ちを受けているときに、その場にいてやれなかった。これまでにも幾億回と襲ってきた後悔が、涙とともに激しく押し寄せてきたが、何もかも遅かった。
シエナの姉、ベランジェールは、結婚し、国外に出ていた。ついさきほど祖国の土を踏んだばかりだ。
妹が投獄されたという噂を聞き、必死に帰国を画策した。しかし、こうして戻ってきたときにはもう、可愛い妹はとっくに処刑された後だった。
ベランジェールは取るものも取り敢えず帰国を強行したので、シエナの身に何が起きたのかは詳しく把握していない。しかし、犯人は分かっている。シエナを大衆オペラの『悪役令嬢』になぞらえ、残酷で、悪辣で、いずれ毒婦になる資質を秘めた、王子妃にはとても似つかわしくない女だと大々的に非難し、ついには国民全体から憎まれるよう仕向けた卑劣な輩どもは、ベランジェールとも顔見知りだった。
国を出たときはまだ王子たちも幼かったので、人格的に未完成であるのは仕方のないことだと考えていたが、大事な大事なシエナを託す相手なのだから、もう少し長く、人格が完成されてくる十五歳ごろまでは監視しているべきだったのかもしれない。しかし、嫁ぎ先は母国より格上の帝国で、悠長に待ってはくれなかったのだ。
――シエナが『悪役令嬢』ですって? そんなはずはないわ。
あれほど主人公にふさわしい子はいないのに。
シエナは小さなころから完璧な令嬢だった。そうなろうと血の滲むような努力をする、強くて聡明で優しい、かわいい妹だった。あんなによくできた少女を他に知らない。ベランジェールは側妃として迎えられて以降、何人ものライバルを見てきたが、記憶にある幼いシエナが飛び抜けて優秀だったせいか、どの娘も欠点ばかりが目について仕方がなかった。妃として集められた少女たちなのだから、美しさなり賢さなりの美点は持っているのだが、やっぱりどの少女よりもシエナが一番愛らしく、完璧だった。おまけに努力家で、どんな分野でも研鑽を欠かさず、桂冠詩人にも、音楽の教師にも、作品の出来映えを賞賛されるほどだった。
諸々の美点を数え上げたらキリがないが、シエナといえば必ず思い出すのは、何よりも、抑制された憂いのある微笑みだ。年に不釣り合いな色気を備えているあの笑みは、どこから来ていたのだろう。大人の女性のようだと、ベランジェールは密かに思っていた。自分よりずっと年上の達観した女性が見せる、本当は何もかも分かっているのに、何も知らないふりをするのが賢いのだと叩き込まれた、悲しい作り笑い。
シエナが特別な子だったと示唆する出来事はいくつもある。自分が両親から疎まれていると知っていたのもそのひとつだろう。あの子は常に我慢と忍耐を心がけていた。どんなときも――怒鳴られているときも、ひどい虐待を受けているときでさえ微笑みを浮かべている様は、ベランジェールから見ても異様であった。五歳や六歳の少女である。両親に見てほしい、構ってほしい、優しくしてほしいと心から渇望していたはずだ。甘えたい欲求を押し隠した笑みの裏に、どれほどすさまじい飢えがあったのかは、誰も知らなかったし、知ろうともしなかったが、姉のベランジェールだけが、同じ立場の子どもとして共感したおかげで、シエナの気持ちに気づくことができた。
両親に構われたいと思うシエナの苦しみは、本当によく分かる。ベランジェールだってそうだ。シエナのいじらしい態度は見ていられなかった。血を分けた姉妹として、とうてい見過ごせない。ベランジェールは親の目を盗み、分け与えられるものはすべて与えた。カタチとして残るものは親に見つかると『盗んだのだろう』と言われてシエナが折檻されてしまうから、美味しいお菓子をこっそり残して渡していたし、父母がほとんど家を空けているのをいいことに、家庭教師のレッスンなどは姉妹で仲よく受けていた。時にはベランジェールが教えてあげることもあったが、そんなことしなくてもシエナはひとりでに学んでいき、あらゆることをすぐにマスターした。
シエナはとても心根が優しい子だった。優遇されている姉を憎んでいてもおかしくはなかったのに、ベランジェールが遊びに誘うと、無邪気に喜んでついてきてくれた。ベランジェールの身につけている衣服はシエナと比べて明らかに豪華なのに、その差に不平を言うこともなかった。
シエナには与えられなかった綺麗なリボン、シエナには与えられなかった絹の靴、シエナには与えられなかったフリルとレースのドレス……溺愛されている姉への贈り物の数々を見て苦しまなかったわけがないのに、お姉様ばかりズルいだなんて口にはしなかった。それどころか、ベランジェールがシエナにも同じものを分け与えようと両親に懇願しては失敗する姿に、理解と同情を示してすらいたのだ。お姉様ありがとう、と口にされるたび、ベランジェールは胸がぎゅっと痛くなった。何もしてあげられなかったのに。役に立たなくてごめんなさいと謝りたいのはこちらの方だった。シエナに恨まれていたっておかしくないのに、懐いてくれていたのがどんなに嬉しかったか。
両親はベランジェールを愛していると言いながら、シエナの待遇改善をどれほどお願いしても、まったく耳を貸そうとしない。その愛は溺愛ではなく、愛玩なのだと知るにつれ、ベランジェールは両親を完全に見限るようになった。
しかしもう、それも八年も前の話だ。
――お父様とお母様はどうしているかしら。
ベランジェールはまっすぐこの墓標に来たので、実家にも寄っていない。会う気にもなれないが、ひとまず情報がないことには始まらない。
なぜシエナは殺されねばならなかったのか。
あの子はベランジェールがいない間にすっかり変わってしまったのだろうか。両親の冷遇に婚約者の心ない仕打ちが加わり、心が完全に砕けてしまったのかもしれない。その隙をつかれて悪役令嬢に仕立て上げられたのだとしたら、少し納得はいく。しかし、そんな風にしてシエナが死んだなんて思いたくはなかった。孤独に苦しみ悶えているシエナのことを思うだけで胸が張り裂けそうだ。
とにかく、今はすべてが推測の域を出ない。何があったのかを一刻も早く調べなければ。
ベランジェールはそれから丸一日かけて、屋敷に移動した。
◇◇◇
両親は突然戻ってきたベランジェールに目を丸くし、諸手を挙げて歓迎した。
特に母親は、ベランジェールを抱きしめ、涙ぐんでいた。
「まあまあ、本当に美しくなって……さすがは私の娘ね。あなたは私たちの自慢よ。シエナとは大違い!」
――シエナの方が、わたくしなんかよりよほど美しくて聡明な子だったわよ。
ベランジェールはあの子の魅力に取り憑かれていたと言ってもいい。でも、どうしてか両親には通じない。ベランジェールが愛する妹シエナに抱いていた想いも、愛情も。本当なら愛娘に惜しみなく愛情を注がなければならないはずの彼らが、どうしてこんなにも冷酷になれるのだろう。両親と自分は本当に血が繋がっているのだろうか。ぞっとするような隔たりを感じるのに、彼らはベランジェールのことを自分たちの一部であるかのように扱う。
久しぶりに再会した父親は、荷解きを終えたベランジェールに近寄ってきて、笑みを見せた。卑屈で媚びた態度に違和感がある。記憶にある父はもっと高圧的だった。
「ベラ。お前、皇帝に気に入られているそうじゃないか。噂は届いているぞ。『傾国の悪女』ベラは、暴君の息子と共謀して毒殺し、息子の寵姫に収まった――と」
「くだらない噂話を信じているのね」
ベランジェールは後宮の外に出ることがないため、自身の噂話についても耳にしたことはなかった。まさか、母国にまで悪名が轟いているとは。少し驚いてもいた。後宮の奥深くで密やかに暮らしているだけであるのに、自分の名が外に漏れることもあるのか。
「噂は噂よ。根も葉もない、嘘と誇張ばかりだわ。シエナのときに学ばなかったの? あの子が悪役だなんてとんだ笑い話じゃない」
父はとたんに不機嫌になった。先ほどまでの薄気味悪い笑みも忘れ、吐き捨てる。
「あれの話はするな」
「あれ、ですって? あれって何? それが実の娘に向けて使う言葉? あの子が何をしたっていうのよ!」
積年の恨みが込められた、悲痛な抗議の声に対しても、父親は不誠実に視線を逸らして、正面から受け止めようとはしない。
「か、金を使い込んだんだ! 王子妃になるには金がかかるといって……」
ベランジェールはその場で踵を返し、部屋を出た。
実家の廊下を早足で進む。その後ろから、父親が取り乱した様子でついてきた。
「お、おい、どうした? どこに行く?」
ベランジェールが向かったのは、かつてのシエナの部屋だった。そのままほとんど手つかずで残されている。ものがほとんど置かれていない。退屈で寂しい部屋だ。
ワードローブを開け放てば、中に入っているのは着古した粗末な衣服がほんの数着。
「……お金を使い込んでいたにしてはずいぶんみすぼらしい格好をさせていたのね?」
「これは……マシなものはもう売ってしまったんだ」
「ふうん? マシなドレスがたくさんあったのに、少ないドレスをこんなにすり切れるまで着ていたの」
洗濯はされているようだが、乾かし方が悪かったのか、黒い汚れがたまって灰色になっている。
嘘であることは明白だったが、父親は「違う」と否定し、決して認めようとしなかった。
「なあ、どうだろう、金を貸してくれるわけにはいかないだろうか」
ベランジェールはワードローブの奥に、一着のワンピースを発見した。それは、八年前、ベランジェールがこの国を発つときに、シエナが身につけていたものだった。昨日のことのように思い出せる。あのときシエナは十歳だった。
ベランジェールはそっとワンピースを手に取った。あの子が着ていた服。大事な思い出の品。そのワンピースを、ベランジェールは自分の身体にあてがってみた。
十歳の子どもが身につけていたワンピースは、苦労して見えないところにはぎれをパッチワークされて、大人の女性用に作り直されていた。それでも全体の傷みは誤魔化しきれていない。古ぼけていてみすぼらしいワンピースだ。
十のときのドレスを、あの子は着させられていたのか。
ベランジェールは悲しみと怒りで、頭がどうにかなりそうなほど激高した。
――許せない。
いいだろう。父が、子をなくした親の悲しみを持てないというのなら、代わりにベランジェールがそれ以上の痛みを与えてやろうではないか。
本来であれば感じたはずの苦痛を――想像を絶する苦しみを与えてやるのが、親孝行というものだろう。
覚悟が決まったベランジェールは、すっと頭が冷えていった。
「……お金が足りないの?」
ベランジェールはにこりと微笑んだ。ひどく甘くて優しい声が勝手に紡がれる。
「本当に家計が苦しいのね。いいわ、わたくしが皇帝陛下にお願いして、いくらか融通してもらうわね。陛下にとっては義理の父母ですもの、きっといいようにしてくださるわよ」
「そ……そうか! ありがたい!」
これで助かったと思って喜ぶ父を、目を細めて見つめる。軽蔑と苛立ちを押し隠して微笑むと、いつもこういう笑みになるのだ。
「……でも、その前に、あの子がどれだけ使い込んだのかが知りたいわ。何がいくらくらい足りないの? どこからお金を得て、どこに使い込んだのかしら」
「お……俺はあまり、詳しくないんだ」
「そう。では、家宰を呼んでちょうだい」
「いや……今はいないんだ」
「では執事にでも一任しているの?」
家の中が不気味に静まり返っている。そういえば、使用人をひとりも見ていない。
「い、今までは、シエナがやっていたんだが……あの子がいなくなってから、俺も領内のことはすべて把握していない」
ベランジェールはしばし絶句した。
◇◇◇
――誰も担当者を置いていない? あの子がすべてこの領を管理していたですって……?
そんなこと普通はできない。ありえない。専門知識を持ち合わせない小娘が、モンフォール領の経営すべてを把握できようものか。商業の知識も、徴税の方法も、代官たちの管理も――少し努力したくらいで身につくという代物ではない。いくらあの子が優秀であるといっても、限度がある。
何かとてつもない異常事態がこの家で発生していた。
ベランジェールは焦燥に駆られて、家中にある書類や手紙を片っ端からかき集めた。
二日かけて目を通す。
そして、何が起こっていたのかを知った。
父親がめぼしい領地を売ってしまっていたのだ。
帳簿上の名目は貸し付けだが、事実上の売却だ。商人たちから金を借りる代わりに、担保として土地を貸しつけている。貸与期間は五十年、七十年、あるいはそれ以上に及ぶこともあった。
――こんなに長期の貸し出しなんて、ふつうはありえない。
しかも貸し出しの条件は商人たちに極めて有利で、ほとんど勝手に契約を更新されるよう固められている。細かな特約を総合すると、領地は『売り払われている』と言ってよかった。
愚かな真似をしたものだが、父親は何も考えていなかったのだろう。おそらく、目先の遊ぶ金ほしさに、軽い気持ちで、書類の内容などまったく見ずに適当にサインしていった。ちょっとしたパーティー、ちょっとした賭けごと、ちょっとした旅行費。モンフォール家が裕福で力の強い公爵家であったのはずっと昔で、交易の中心地から外れ、さびれてしまった今は、貧しい方に入る。それでも周囲の公爵家と同じだけの贅沢を望んだ。愚かで見栄っ張りな父は、自分にそうする権利があると思っていたのだろう。
収入の多い土地をすべて売ってしまった結果、自由になる土地はごくわずかしかなく、最後にはシエナがひとりで切り盛りできるほど小さくなってしまっていたようだ。
契約に問題があったせいで、土地を貸し出して得るお金は非常に少なく、領地の管理にはまったく足りていない。父親の使い込みに加えて、領内の修繕や慈善事業などでどんどん赤字がふくらんでいった。
父親はシエナが王子妃となることで支援が受けられると期待していたようだ。婚約してからは王子妃としての身分を担保に、ますます借金を重ねていった。その浪費と放蕩ぶりは目を覆いたくなるほどだ。
心優しいシエナは領民のために、自分の宝石を売り払い、着るものまで節約して尽くそうとしていたというのに、その一方で、浪費を続ける父と母。
……シエナがどれほど苦労し、追い詰められていったのかは、帳簿を見ただけで克明に理解できた。
そして――
何気なく手に取った帳簿のひとつは、中に本が挟まれていた。無地の表紙からして、ノートのようだ。開いてみると、そこにはシエナの字で、さまざまなことが書き綴られていた。
――これは、あの子の日記帳?
日記帳の日付はベランジェールが祖国を発った直後から始まっている。
『ベラお姉様がいなくなってしまった。行かないでと言えばよかったのかもしれない。涙が止まらない……本当は結婚なんてしないでほしかった。ずっと一緒にいたかった! 側にいてほしかった! いかないで、いなくならないでってすがりついて、ふたりで一緒に逃げようって言ってほしかった』
驚きに息が止まりそうになる。
シエナはベランジェールに会いたいと綴っている。何度も何度もそればかり書いていた。これを書きながら泣いていた妹を想像して、ベランジェールは胸が詰まった。
――シエナ、シエナ、ごめんなさい。あなたがこんなに寂しい思いをしていたなんて。どうしてわたくしは気づいてあげられなかったのかしら。
幼いシエナのことを思い出す。
後宮に召し上げられ、屋敷を出発する日の朝、シエナはベランジェールのところに挨拶に来て、大人顔負けの聡く落ち着き払った態度で、こう告げた。
「お姉様、どうかご心配なさらないで。シエナは王子殿下の妃として、必ずこの国を守ってみせます」
ベランジェールによく似た金髪を愛らしく二つに結わえ、禁欲的なワンピースに身を包んだ十歳の少女は、桃のように瑞々しくふっくらとした頬をしていた。昔からシエナは賢く、子猫のように幼くあどけない容姿からは想像もつかないほど分別のある発言をするので、ベランジェールは何度も驚かされたものだが、そのときのシエナは、特に大人びていた。
――この子は、どうしてこんなにも、ものごとを見透かしたような目つきをしているのかしら。
ベランジェールの疑問は長く続かなかった。シエナには大人の顔色を窺うくせがあって、ベランジェールが微笑んでいないと、落ち着きをなくしてしまう。慌てて微笑み、シエナがいかに辿々しく可愛らしい発言でベランジェールを温かい気持ちにさせてくれたのかを説明してやると、安心したように微笑み返していた。
落ち着き払ったシエナの様子を覚えているからこそ、この日記帳の内容は衝撃的だった。
『いやだ。本当は王子と婚約なんてしたくなかった。でも、あのままお姉様を、小説の運命通り悪役令嬢にさせるわけにはいかなかった。お姉様を助けるには、私が身代わりになるしかなかった……これでよかった、私はちゃんとお姉様を守ることができた。でも、』
日記の筆跡はとても乱れている。インクが丸い水滴でにじんでいるのは、涙の痕だろうか。ほとんど読めないような字で、乱暴に書き殴られた文章をなんとか読み取る。
『お姉様がいない世界で、私はこれからどうやって生きていけばいいの?』
知らなかった。あれほど落ち着いていたシエナが、その裏でこんなにもベランジェールを恋しがっていたなんて。
『でも、これでよかったんだよ。大事なお姉様を死の運命に向かわせることはできない。私はちゃんと、がんばった。これからも頑張る。お姉様、見ていてね』
矛盾した感情が入り交じり、混乱しきった文章に引き込まれて、ベランジェールは一気に日記を読み進めていった。内容にはよく分からない点がいくつもあったが、特に分からないのは『小説』に関することだった。妹はここを小説『転生聖女伝』の中の世界だと思っていて、それを前世で読んでいたから、未来に起こることも全部知っていたということらしい。
荒唐無稽な妄想だ。しかし、思い当たる節がないでもない。ずっと昔に、観劇予定の劇場が火災に遭って焼け落ちたが、その劇場行きを全力で止めたのはシエナだった。それからもシエナはしょっちゅうベランジェールを不幸から救ってくれた。不思議なこともあるものだと思っていた。
とにかくシエナは、ベランジェールのことを『小説』の登場人物だと思っていて、あらかじめ王子の婚約者になることを知っていた。
初めはシエナもそのことで姉の身を案じてはいたが、心のどこかでは他人ごとだと感じていたようだ。しかし、仲よくなるにつれ、絶対に阻止しなければならないと思うようになっていった。
王子の婚約者は、『悪役令嬢』として、いつか必ず処刑される運命だからだ。
親が決めた許嫁だから愛はない。しかも、物語が進むにつれ、『悪役令嬢』はその悪の華としての才能を開花させる。狡猾、残虐、悪辣な彼女は王子から嫌悪され、次第に立場を『女主人公』に奪われていく。そして彼女はとうとう、『女主人公』に働いた乱暴狼藉の証拠を押さえられ、王子に処刑される。
……この予言は当たっている。日記の経年劣化からして、あとから偽造されたものとも考えにくい。確かに十歳のシエナが書きつけたものと判断できる、十分な説得力があった。
シエナはその運命を知っていて、あえてベランジェールに成り代わって、婚約者となったらしい。
衝撃的な事実だった。どうして教えてくれなかったのかと思う。知っていれば、王子妃になんて絶対にさせなかったのに!
そもそも、後宮入りをする予定だったのはシエナの方だった。皇帝は金髪の幼い娘を好むらしく、十歳のシエナは皇帝の好みにピタリと合っていた。
小さなシエナが変態趣味の皇帝に嫁ぐ――それだけでもベランジェールには耐えがたいが、その上、帝国の妃たちは外出を禁じられている。後宮に入るとは、罪人のように生涯幽閉されることを意味するのだ。おぞましいこと極まりない。この王国は比較的女性の自由な行動が認められているが、あちらの国では女性に課される制限が非常に多い。女を財産として扱う国に、あんな小さな子が嫁がされていくのだ。許せない、と思った。
それに妹は、王子に好意を抱いていた。金髪碧眼の美少年を紹介した瞬間から見とれていたし、話しかけられるだけで顔を真っ赤にさせていた。一目惚れとはこのことかと、傍で見ていて感心してしまったぐらいだ。
あれは本心だったのだろうか、それとも演技だったのだろうか。少なくとも本心だったと、日記からは読み取れた。『前世の推しだったけど、でも、この人がお姉様のことを殺すんだよね』と、王子と姉との間で引き裂かれる感情を綴っている。
妹とは違い、ベランジェールは、王子に何の感情も抱いていなかった。四歳も年下の少年だ。恋心はおろか友情めいたものも感じなかった。ベランジェールにとっては「よく子守をしてあげていた男の子」でしかない。だからなおさら、年の近いシエナの方がお似合いなのではないかと考えたのだ。
機を見て、シエナに質問をした。
「ねえ、シエナ。正直に答えて。あなたは後宮に行きたい? 一生を閉じ込められて、高齢の皇帝の相手をしてすごしたいと思う?」
シエナはハッとしたように、ベランジェールを見ていた。
十歳の妹の視線の高さに合わせて、かがみ込む。こんなに幼い子を嫁にしたいだなんて、皇帝はいったい何を考えているのか。義憤と軽蔑心が湧き起こる。すべらかな髪にも、肌にも、指一本触れさせたくない。
「ねえ、あなたが嫌だって言うのなら、わたくしにも考えがあるわ。あなたの気持ちをきかせて」
「……行きたく、ない、です」
妹は涙ぐんでいた。やはり後宮が恐ろしいのだ。どんなにか不安だろうと思うと、ベランジェールもつられて泣きそうだったが、ぐっとこらえる。自分は頼れる姉なのだ。こんなことで戸惑っていてはいけない。
妹の後宮入りは、絶対に阻止してみせる。
「もうひとつ聞かせて。あなたはペレアス王子殿下を好ましいと思う?」
「ぜ、全然思いません!」
「でもあなたは、いつも殿下に見とれているわよね」
妹は真っ赤になってしまった。
「気づいていらしたのですか……?」
「わたくし、王子のことは何とも思っていないの。子どもの相手をさせられてうんざりなのよ。だからね、シエナがそう望むのなら、わたくしの代わりに婚約者になるよう手配してあげてもいいわ」
妹は長い間、黙っていた。表情がくるくる変わるので、何か大きな葛藤の嵐が吹き荒れていることは分かった。
恐れているように下を向き、視線をさまよわせ、ベランジェールの顔色を窺い、悲壮なほど青ざめて――
――嫌なのかしら?
疑問に思うころ、シエナはふっと微笑んだ。心からの笑みではないのだと感じる程度には不自然で、硬く強張っていた。
「……はい、お姉様。私は、王子様の婚約者に、なりたいです」
シエナがそう望んだから。可愛い妹のために。あの子を不幸にしたくなかったから。守りたいと思って。
ベランジェールは手を尽くして、王子の婚約者に妹を宛てがい、後宮に自分をねじ込んだのだ。
それがあの子のためになると信じていた。
……シエナの日記には、その当時の感情が克明に書かれている。
『逃げ出そうと思っていたのに、絶対に処刑なんてされてやるものかって決めたのに。領地だって、私には関係ないって思ってたのに。どうしてみんな生きているの? ひとりひとり確かに存在していて、いろんな人生があって、いろんな思いがある。そんなの知らない、私には関係ないって、小説のモブキャラなんだって信じていたかった。でも、お姉様は確かに生きていた。私にいろんなものをくれた。お姉様はいつも私のことを思ってくれて、私に手を差し伸べてくれた。温かかった! どうしてみんな生きているの? みんなが生きた人間でなければ、私は王子との婚約も解消して、悪役令嬢の運命を変えられたのに! 皇太子の後宮に入ってしまったお姉様にはもう王子も手が出せないはずだから、それですべてが終わるはずだったのに、それなのに』
ベランジェールが嫁いだ皇帝は、すぐに崩御した。後を継いだのは若き皇太子だ。でも、日記に記された日にはまだ存命だったはずだ。そうすると、シエナは後宮の主がいずれ代替わりすると知っていたことになる。
――シエナは本当に未来を知っていたの?
『違う、違う、間違ってない、これでよかった。お姉様を守れた。次は、生きている皆だ。皆のことも守る。未来を知っている私にしかできないことがある。私が生まれ変わったのはきっとそのためなんだ』
矛盾した感情が入り交じり、文章は混乱していた。理解しにくい部分もあった。しかし、本当に大事なことだけはベランジェールにも読み取れた。
――あの子を守ったつもりだった。
でも、本当は、守られていたのだ。
それだけ分かればもう十分だった。
ベランジェールは日記を帳簿に戻し、その部屋に鍵をかけた。
まず、最初にしなければならないことがあった。
シエナを虐待し、処刑が決まっても易々と見捨てた両親。家族の輪から締め出し、心と身体の両方を傷つけ続けた人でなしの鬼畜たち。
彼らにはよく思い出させてやらなければならない。
苛め抜いた幼子は、自分たちの子であった、ということを。
◇◇◇
「ねえ、お父様、お母様。だいたいの事情は分かったわ。大変だったでしょう。シエナが処刑されるようなドジを踏んだせいで、モンフォール家も王家から冷遇されるようになってしまって」
本当ならシエナを何が何でも庇わなければいけなかったはずなのに、見捨てたせいで結局自分たちの立場も悪くした。彼らはどうしてそんなにもシエナを嫌っているのだろう。長年の疑問だった。
「もう大丈夫よ。さっそく皇帝陛下にお手紙を書いてお送りしたわ。せっかくだから、今日はぱーっとおいしいものでも食べましょうよ」
「いいわね!」
顔を輝かせたのは母親だった。若いときは本当に美しかったが、見る影もなくなっていることにも気づいていないのか、不釣り合いに甘ったるく少女趣味のドレスを身にまとっている。
「ねえ、そのドレス……」
「いいでしょう? シエナが王子から貰ったそうだけど、あの子には似合わないから」
ベランジェールはぎょっとしたが、顔色には出さない。魑魅魍魎が渦巻く後宮で、本心を隠す訓練を徹底的に積んできている。
シエナにはきっと似合っていたはずだ。王子からのドレスを取り上げて、自分が着る。これはどういう心の作用なのだろう。娘に対する嫉妬? 自分より幸せになるのが許せない? 父が焚き付けでもしたのだろうか。シエナなんかよりお前の方が美しいなどと言って。借金を重ねて思うようにドレスが買えない現状に苛立って、奪い取る口実を作ったのだろうか。
――分からない。お母様は、正気ではないのかしら。
相手を同じ人間だと思えないとき、人はどこまでも残酷になれる。神はベランジェールに、残酷になれと言っているのだろうか。
暗澹たる思いをひとまず押し込め、復讐の準備にとりかかる。
自分が持ってきた宝石類を商人に預け、豪華なご馳走と、高価な酒を用意させた。季節の野菜を使ったポタージュ、高級な白身魚、上等のハトやツグミのロースト。酒も名産品ばかりだ。とろけるように甘い葡萄の芳香、ベルベットのように滑らかで重厚な風味。
ふたりをいい気分にさせ、領地の管理について切り出す。
「借金の整理をしようと思うの。シエナがやっていたことくらいならわたくしにもできるわ。任せてちょうだい」
ベランジェールは労いの言葉をかけつつお酌をし、心を解きほぐして、口を軽くしていった。
「……ねえ、シエナを憎むようになったのは、いったいいつから?」
ベランジェールが水を向けると、母親は、それまでため込んでいたものを吐き出すように、シエナへの不満を一気にぶちまけはじめた。
「あの子は生まれたときから本当に変な子だったのよ。生まれてすぐのころから、もう私の顔を見ていたわ」
「……? それの何がおかしいの?」
「赤ん坊は目が見えないのよ。でも、あの子ははっきり私を認識していた。ベランジェール、あなたは泣いてばかりの赤子だったわ。でもあの娘は奇妙に静かで……泣く代わりに、声をあげて私を呼ぶの」
両腕をかき抱き、苦しそうに息を吐く。だいぶ酔いが回っているのか、目に涙を浮かべている。
「とにかく不気味な子だったわ。あれは私の子なんかじゃない……悪魔が子どもを預けていったのよ。あの子は私が何も教えなくてもひとりでに、何でもできた。気持ち悪いニタニタ笑いで誤魔化そうとしても、全然可愛くなかったわ」
……確かに、手のかからない、大人しい子だった。こちらがまだ学び始めたばかりの文字をすべて理解していたから、てっきり神に祝福された天才なのかと思っていた。
日記の内容が頭にチラつく。シエナは前世で、高度な教育を受けたという。少なくとも外国語をひとつは学び、初等数学を理解していた。帳簿の付け方やこの国の言語をいとも簡単に習得できたのは、そのときの経験があったからだと書いていた。
赤ん坊の頃から自我が発達していたのだろうか。
そうだとすれば、父母がシエナを虐待していた理由の一端にはなっていたのかもしれない。
「妙な子だったよ」
父も母に同調し、愚痴をこぼしはじめた。
「……あれはいつも勝手に書斎の本を手当たり次第漁っていたが、まあ、幼児のすることだ。ほっといたら、いつの間にか借金の証文まで引っ張り出して、『こんなことはやめて』なんて言うんだ。たった五歳の子どもがだぞ? 五歳の子どもが俺に説教するんだ。今すぐ整理しないと大変なことになる、やり方を教えるとさ! 俺はつい『じゃあお前がやってみろ。そんなに簡単じゃないんだ』と言ったんだが……」
シエナならやれる。やれてしまう。
ベランジェールの知らないところで、完璧にこなしてみせた。
姉に少しも悟らせなかったのは、両親から疎まれていた理由がその早熟な万能ぶりのせいだと理解していたからなのだろう。ベランジェールにだけは嫌われたくなかったのだ。尊敬する姉に。自分を愛して守ってくれる優しい姉に。
――馬鹿ね。わたくしはあなたがどんな子でも構わなかったのよ。
どうしても話せなかった妹の心情を思うと、胸が詰まる。
「あの子は本当に、借金を整理した。……おかしい。普通じゃない。こいつがどこかでご大層な学者と浮気して作った子かと思っていたんだが」
「そんなわけないじゃない! あの子は生まれたときからおかしかったのよ! 私だって気味が悪かったわ!」
父はシエナを気味悪く思うあまり、母のせいにしようとしかけていた。
母は父から憎まれるのを恐れて、一緒になってシエナをなじった。
そしてシエナは、ふたりの共通の敵となった。
結果、虐待がエスカレートしていった。
「チラ見した限りじゃずいぶん金に余裕があるようだったから、俺にも回せと言っていたんだが、少しも渡そうとしないんだ。仕方なく商人にツケてきたんだが、それもやめろと言い出して……」
父が先祖伝来の土地を勝手に切り売りしていったせいで、モンフォール領は困窮していた。惨状を帳簿につけながら、シエナは本当に辛い思いをしていたらしい。手元にお金さえあれば救えたかもしれない人々が、死者、病者の数となって現れるのだ。
――数字のひとりひとりが、生きている人たちなんだ。
みんなを、生きている人たちを助けたい、と書きつづり、シエナは、真っ先に父の浪費を止めさせようとした。
そうして、父母から深く恨まれるようになっていった。
「それにしても、ベラが戻ってきてくれて、本当によかったわ」
「後宮なんて簡単に出られる場所じゃないんだろう?」
「……そうね。シエナが大変な目に遭っているというから、なんとか出てきたの」
「訃報のおかげでベラが戻ってこれたわけか。そいつはいい。最後にひとつくらいは親孝行したわけだ」
父は泥酔していた。
「あれが死んでくれてよかったよ」
全身が総毛立つような怒りで、ベランジェールはしばらく口がきけず、身動きひとつ取れなかった。
――それが親の言うことなの? 妹を亡くして悲しむ娘にかける言葉なの。あなたは今、命がけでモンフォールを救おうとしてくれていたシエナの魂を、人生を侮辱したのよ!
ベランジェールのかわいい妹は、モンフォール公爵家のみならず、公爵領全体を救おうとしていた。そして、姉に待ち受ける『運命』まで肩代わりした。自分を犠牲にして、見える範囲の人すべてを幸せにしようとしたシエナ。天使のようなあの子が、『死んでくれてよかった』?
容赦なんてしてやらない。
人の死を喜ぶ人間は、他の誰かに死を望まれても文句を言う権利などない。
◇◇◇
ベランジェールは帳簿と日記を読み込みつつ、両親に宣言した通り、借金の整理を始めた。
――ごうつくばりにはごうつくばりをぶつけるのよ。
モンフォール家に出入りする商人を品定めし、とある大きな商会に目をつけた。帝国内にも支店を持つ国際組織だ。
商会といっても、ただものを売ればいいというのでもない。外国にも勢力圏を持つには、当然、何かしらの後ろ盾がいる。それは法に頼らないトラブルの解決法であったり、外交ルートのパイプであったりする。
帝国にも根を張るその商会は、シンプルに、後ろ盾として暴力を利用していた。正規の衛兵よりよほど凶悪な兵を抱えている。
しかも彼らは裏側で、人道に反する犯罪にも関わっていた。
ちょうどいい。彼らを利用しよう。そう考えた。
◇◇◇
男は商会の支店長を務める傍ら、上得意のモンフォール家に出入りしていた。この家にはふたりの客がいて、公爵自身は非常に商売がやりやすい人間だが、娘の方は手強い。公爵の買い物を娘がひっくり返すこともよくあったため、難しい商談を迫られる場面も多かった。
今回の呼び出しは公爵の方だろう。また借金の相談だろうか。そろそろ搾り取れるものもなくなってきたから、回収を考えなければ……そんなことを考えつつ、気楽に出向いた。
男は見知らぬ美女を前に、汗を浮かべてじっと黙り込むことになった。
「ねえ、土地の貸し出しに関する証文を残らず奪い取ってきてちょうだい。全部できたら、あなたたちの商会に借り換えてあげるわ。この金額よ? おいしいでしょう? 抵抗するようなら容赦なくやってしまっていいわよ。領主として許可するわ。できるわよね?」
無茶だ。しかし、簡単にはそうと言えない。何しろ本当にうまい話だ。
しかし、この女は誰なのだろう?
モンフォール家の者だと名乗っている。しかし、シエナは死んだのではなかったか。面差しや雰囲気は似ているが、別人なのは間違いない。
「あ、あの……あなたは、シエナ様ではないと思うのですが……」
「親族がいないと思っていた?」
「い、いやぁ、初めて伺いましたが……確かによく似ていらっしゃる。お美しい金髪などそっくりで……いとこにあたる方でしょうか? それとももっと遠い親戚の……もしくは……」
先ほどから商人の脳裏にちらつくのは、ある噂話のこと。
――皇帝の寵姫ベラが後宮から姿を消した。
連れ去られたのだという噂もある。皇帝が内々に捜索令を飛ばして、国内のすみずみまで調べさせているが未だ見つかっていない。こちらにも噂が回ってきており、物騒なことに『醜聞が持ち上がった場所には容赦なく後始末の暗殺部隊を差し向けるようだから、関わらないように』との警告がなされていた。後宮から妃が逃げるなど、前代未聞なのである。
寵姫の出身が、このモンフォール家だ。
寵姫は美しい金の巻き毛をしており――
魂を吸われそうな薔薇色の瞳を持ち――
見た者が恍惚とするような凄絶な色気と、とろけるような美声、なまめかしい肢体、そして、皇帝の心を掴んで離さない魅力とオーラを持っている。
一般の女性とは明らかに違うので、もう、ひと目見れば寵姫その人と分かる、とまで言われていた。
そして今。
手配書の人相書き通りの、正体不明の美女が商人の目の前に座っている。
恐ろしく美しい。身にまとう空気が違う。
「急がないといけないの。わたくしには追っ手が迫っているのよ。どうしてかは分かるわよね?」
モンフォールの女が念押しをしてくる。しかし、商人の想像が当たっているのであれば、これはまずいことになった。もしも今、この場で面倒ごとなどを起こし、この女が大騒ぎすれば、どうなるか。
皇帝の威信にかけて、処刑人がやってくる。一介の商人など跡形もなく消されるだろう。
「あなたは、もしや――」
モンフォールの女は、自身の唇にそっと指を当てた。何も言うな、ということらしい。妖艶な仕草に目を奪われたが、恐れ多くなり、下を向いた。正面から見てはいけない、これは、そういう種類の女だ。王妃や王女だって、下々の者は直視するなと教育される。この女もきっとそうだ。視界にも入れるべきではない。
「通報する? どうぞご自由に。でも勧めないわよ。わたくしがここにいたと知る人間が生きていたら都合が悪いでしょう?」
商人にはその理屈が痛いほどよく分かった。彼の生まれ育った祖国は、貴人と庶民の命が等価だとは考えない。騒ぎを大きくすれば、きっと全員口封じに始末される。
「何も知らなかった、気づかなかった。親族の女に言われるまま、おいしい商売に手を出した。そうして、何のトラブルもなく、その女は大金を手にし、静かに家を出ていった……」
商人は何度も大きく頷いた。
その筋書きがもっとも安全だ。生き残る確率が高い。
女は財産の整理について、抜かりなく注文をつけていった。モンフォール家の総資産の管理者として商会を指名したあと、領内の経営を専門にする団体を新設。その団体に主要な土地を貸し出す。また、今回の紹介料として、まとまった額を女に受け取らせる。支払金は足がつかないように念入りに細工する――
商人は疑問を持った。後宮にいた女にしてはずいぶん世事に長けている。考え得る限り最善の手を打っていると思われた。この女は本当にただの妃なのだろうか? 美しい容姿と閨の手管で権力者を籠絡するのが生業の寵姫に、このような知恵が必要とされる場面はあるのだろうか。
もしかすると、この女は寵姫その人ではないのだろうか。その名を匂わせ、いっぱい食わせてやろうという詐欺師だろうか。
どちらでも構わない。男は自分が生き延びる最善の道を選ぶだけだ。
モンフォールの女は細々と指示したあと、最後に書類をどけて、にこりとした。
「では、最後にもうひとつお願いしたいことがあるの」
◇◇◇
ベランジェールは商人から前借りした金を惜しみなく使い、両親をもてなした。
三日三晩のご馳走と、新しい衣服、上等の宝石などで、彼らはすっかり骨抜きにされていた。
「ああ、生き返った気分だよ……昔に戻ったみたいだ」
「これからはこうやって、親子三人で仲よく暮らしましょうね」
ベランジェールは勘違いしている両親に、ただそっと微笑み返した……
そして、四日目の夜。
「ねえ、お父様、お母様。たまには気晴らしも必要だわ。ふたりで観劇に行ってはどう? 素敵なチケットが取れたのよ」
ベランジェールは彼らにとびきりの夜会服を用意した。母には最新流行のドレスに美しい首飾り。父にはジャケットと、派手な指輪を複数個。どこから見ても貴族、それも、高位貴族の出で立ちだ。
すでに売り払われて久しい、豪華な馬車も用意した。四人は乗り込める巨大な箱型の馬車に、馬を二頭。専門の馭者と、馬車に伴走する使用人も雇った。
彼らは久しぶりに乗る馬車に、目を潤ませていた。かつての栄光が戻ってきたのだと、これからもこうして公爵として生きていけるのだと、確信した瞬間でもあっただろう。
「ベラ。ありがとう、行ってくるよ」
「本当に楽しみだわ」
「ええ、お父様、お母様。楽しんでらして」
そしてベランジェールは、闇夜に馬車を送り出した。
……警戒させずに馬車に乗せるため、少し小細工を弄したのだが、うまく行ったようだ。娘が親孝行をしてくれているのだと信じ切っていた。これなら何か不審な点を見つけても、しばらくは騙されてくれるだろう。ベランジェールは自慢の娘だ。シエナとは違う。本物の娘なのだ。親思いのいい子に育ってくれた。
部屋に帰り着き、ナイトテーブルから、上等の美酒を取り上げる。一杯やりたい気分だった。芳醇なワインの持つ複雑な味の奥行きを、心ゆくまで味わう。
――お父様たちはいつ気がつくかしら?
馬車が劇場行きの道を外れ、商品の搬送ルートに入ったときだろうか。
それとも、荷物を運ぶだけの目的で最低限整えられたでこぼこの道をずっと行った先の、非合法なものが転がる暗い倉庫で、貴族用の馬車から幌馬車へと乗り換えさせられたときだろうか。
ひょっとしたら、幌馬車が他の大きな荷と一緒に、港に向かっているときかもしれない。そこで彼らはわずかな手荷物と一緒に、馬車から追い出される。
港の人間はあぶれ者が多く、積荷がなくなるなんてことはしょっちゅうだ。荷物と一緒に出てきた人間が豪華な服を着ていれば、当然のように剥ぎ取ることだろう。そのときになれば、さすがに自分たちが騙されたことに気づくに違いない。
彼らが持たされていた手荷物には、粗末な服が入っている。
……リネンと綿の頑丈な生地でできた、ごわごわの、労働に最適な服だ。
そして手荷物のさらに奥に、一着のすり切れたワンピースを発見する。
それはシエナがかつて着ていた、十歳の少女向けのワンピースだ。
最後にベランジェールの添え状。
『これを八年間も着続けたシエナのことを思うと、お父様とお母様も涙が溢れることと思います。シエナのことを存分に偲べるよう、おふたりにも衣装をご用意しました。亡くした我が子とおそろいの境遇で、あの子がどんなに辛かったのかに思いを馳せながら、ゆっくり悲しみを癒やしてください』
簡単には死なせない。
シエナが味わった苦痛と恐怖と絶望を、同じだけ味わってもらう。
着の身着のままの服で、八年分の重労働を課し、じわじわと体力と精神力を削っていったあと、最後にシエナと同じ末路を辿らせるのだ。
彼らは労働などしたことがないから、荷物ひとつまともに運べないだろう。ごく簡単な作業もこなせず、苛立った奴隷の監督者から何度も鞭打ちを食らう姿が目に浮かぶ。
鞭打ちは十度も食らえば皮膚が裂け、さらに続ければ死に至る。後宮の規則を破ったせいで、苛烈な鞭打ち刑を受け、死んだ女もいた。ぜひともあれを味わってもらおうではないか。
簡単には殺してくれるなと言い含めてあるから、父母は痛みから逃れたい一心で、必死に仕事をすることになるだろう。それでも彼らは、言われたとおり作業ができない。食事はまずく、服を換えることもできず、寝床は極めて不衛生で、ネズミが生身の肉体をかじりにくる。栄養状態が悪いので、少しの怪我や病が悪化し、何日も苦しむことになる。
こうした境遇をありありと思い浮かべられるのは、後宮がそれだけ過酷な場所だったからだ。粗相をした下女はもちろん、妃だって、宦官と交わるなどの大罪を犯せば、死んだほうがマシだと思わされるような拷問を受ける。それを見せしめにすることで、他の妃たちの反抗心をくじき、支配をしやすくするのだ。
美しく優雅な女の楽園は、薄氷の上に築かれている。
足を踏み外せば、おしまい。
贅沢品と享楽の宴で満たされ、安穏と生きてきた両親は知らないだろう。世の中には地獄よりも恐ろしい地獄が存在するだなんて。ベランジェールは知っている。シエナだって知っている。親を思う子として、ぜひとも教えてあげようではないか。
死んでくれてよかったと、あの子をあざ笑った罪は、同じようにベランジェールから笑われることで購うがいい。
◇◇◇
両親を送り出したあと、ベランジェールは再びシエナの日記を手に取った。
何度読んでも哀しい。書かれている事実が辛すぎて、たびたび日記を置いては呼吸を落ち着けている。
シエナはベランジェールが嫁いでから半年以上かけて、徐々に立ち直っていった。いつまでも泣いていたって仕方がない。自分に言い聞かせるように、何度もそう綴りながら。痛みを伴う内省だったことは、手に取るように伝わってくる。
そして、ある日を境に、『悪役令嬢』として生きる覚悟を完全に決めてしまう。
きっかけはベランジェールだ。
『皇太子の即位が早まった。本当なら小説が開始してからのはずだったのに……きっとお姉様が何かしたんだ。お姉様は、小説の運命を変えてしまったんだ!』
シエナに代わって後宮に入ったベランジェール。
八年近くも早まった皇太子の即位。
小説の筋書きとは異なる未来が見えたことで、シエナは勇気づけられた。
『私にだって運命が変えられるかもしれない』
希望を見出したシエナは、それからというもの、領地の経営をこなしながら、王子と真面目に向き合うようになった。前世の記憶を駆使し、王子に気に入られるための努力を始めたのである。それにはまず、『小説』のベランジェールと同じだけ立派にならなければいけない。
ベランジェールは絵に描いたような悪役令嬢だった。冷酷な振る舞いで王子を苦しめる悪の華として描かれていたが、聡明な女主人公のライバルとして『設定』されていただけはあり、頭の回転が速く、人心を掌握する術に長けていて、必要とあらばとんでもない悪行にも手を染める女性だった。
――これって、わたくしのことなのよね?
さんざんな言われようだ。可愛い妹からも『絵に描いたような悪役令嬢』だと思われていたなんて。自虐的な気分で、くすくすと笑う。でも、シエナに言われるのなら、不思議と嫌ではない。
『私はお姉様みたいに強くはなれない。でも、そうならなきゃいけない』
それが自分の運命を変え、姉を守るための唯一絶対の道なのだと、シエナは信じていた。皇太子は、小説の筋書きだと完全なる敵役で、やがて王子と戦うことになっているのだ。王子が悪の皇太子を倒すと、帝国は崩壊する。
『帝国が滅亡したら、後宮の妃たちはどうなるのかな。お姉様も一緒に捕まって、処刑されちゃうのかな……お姉様が心配。お姉様のためにも、帝国の運命を変えなくちゃ。皇太子は死なせない。王子を止める。そのためなら、私は悪役令嬢にでもなってやる』
その日から、シエナは前にもまして血の滲むような努力を始めた……
努力の過程も、日記には詳細に書かれていた……
……日記は婚約破棄の日まで続いていたが、そこに至るまでの王子たちとのやり取りが辛すぎて、ベランジェールには涙なしに読めなかった。仲よくやろうとする努力は途中までうまく行っていたのに、ある日を境に反転する。
『主人公』の少女が現れたのだ。
小説『転生聖女伝』の主人公、ジャンヌ。
王子ペレアスと結ばれる聖女。
彼女はかつて救国の聖女として王国を守護し、処刑された。その記憶を持って、今の時代に転生する。
前世のことを覚えていない王子とは一線を引こうとしていたが、運命が引き合わせた相手に逆らうことなどできない。
……悪役令嬢シエナの運命は、その日から悪化の一途を辿る。
何をしても予想のつかない不幸が起き、どんどん追い詰められていった。
『ダメ。何をしてもうまく行かない。どんなに事前の準備をしていても、ジャンヌに都合のいい展開に変わってしまう』
小説では『悪役令嬢ベランジェール』がジャンヌに毒を盛るシーン。
シエナは小説の展開を変えようと、ジャンヌの好物に差し替え、自ら毒味をしてまでディナーを給仕したのに、なぜかジャンヌは倒れてしまった。前世の記憶を持つシエナはすぐにそれが『アレルギー』というものだと気づいたが、この世界では知られていない病気だ。
シエナは何とか分かってもらおうとしたが、誰も信じたりはしなかった。
シエナがあらかじめ毒味をしていたこと、皿に残った料理を他の人間が食べても何ともなかったことから、毒とまでは断定されなかったが、王子たちは何らかのトリックを使ってジャンヌに傷害を与えたのだろうと考え、シエナに辛辣な言葉を浴びせたのだ。
――ジャンヌに近寄るな。何をしたのかは知らないが、俺はお前を軽蔑する。気に入らない女への嫌がらせで、ここまでするような奴だとは思わなかった。
『本当に知らなかったのに、信じてもらえなかった……』
必死に築いてきた王子との信頼関係が壊れてしまったことに、シエナはひどくショックを受けていた。
『やっぱり私ではダメなのかな』
シエナは知識にある小説の『悪役令嬢ベランジェール』と自分を比べて、自分を責めた。悪役令嬢は、あの場をうまく切り抜けたのだ。周到な彼女が用意した毒は少量であればスパイスとして用いられるもので、いくらでも言い逃れができた。彼女は提供したシェフに知識がなかったのだと主張し、当のシェフに責任を取らせるといって、残りの料理を食べさせようとする。ジャンヌが慌てて止めたおかげでシェフは軽い中毒症状で済んだが、苦しみ悶える様子を見て、ベランジェールは密かに扇子の影で笑っていたのだ。ジャンヌだけが気づいて、戦慄した……
『あのシーンのベランジェール、本当に怖かったなぁ。でも、すごく妖しくて綺麗だった。冷酷無慈悲なサイコパスって、独特の魅力があるよね。一部に熱狂的な信者がいたのも分かる。でも、私にはそんな魅力、ないんだよね……』
その他、シエナがどれだけ必死に処刑の運命を逃れようと手を打っても、努力はすべて水の泡と化し、シエナは王子たちから強い皮肉や罵倒を浴びるようになっていった。
『がんばってもがんばってもうまくいかない』
『誰も私のことなんか好きじゃない』
『みんなが私のことをきらってる』
『おねえさま
たすけて
さびしい』
辛い目に遭ったシエナが心を閉ざし、退行していく。あれほど優秀な少女だったのに、絶望で何も手が付かなくなり、言葉を発するのすら難しくなる。
少しずつ幼くなっていく文章に、壮絶な苦しみが見て取れた。
ベランジェールは息が出来なくなって、いったん日記を閉じた。
何もしてやれなかった。シエナが一番辛い時期に、そばにいてやることさえできなかった! 後宮に入ったのはシエナにとって何の救いにもならなかったのだ。おのれの無能と不見識が悔しくて悔しくて、ベランジェールは髪をかきむしった。
――どうしてひと言も相談してくれなかったの? いいえ、どうしてわたくしはあの子の本当の思いを見抜けなかったの。わたくしはあの子が幸せになってくれることだけを祈っていたのに。ふたりで相談し合えばきっと違う結末だって迎えられた。あの子を連れて、どこへでも行けたのに。
――あなたが望むなら、わたくしはどんな悪事にだって手を染めたのに。
――あんな両親、追い詰めてやるのは簡単だったのよ。
――王子たちも。あんなお子様、徹底的に叩き潰してやれたのよ。
ベランジェールはぐちゃぐちゃの感情のまま、荷物をまとめた。シエナが残した八年分の日記と、換金しやすい有価証券。すべて少額ずつに分割し、交換に交換を重ねて、出所を分からなくした。宝石はよくない。傷やジュエリーの特徴などで身元が割れてしまう。その点、紙切れは便利だ。
白髪のカツラをかぶり、シワに見えるようシャドウを入れると、二十は老けて見えた。この中年の女性が『皇帝の寵姫』だとは誰も思うまい。
モンフォール公爵邸の使用人はわずかにふたり、料理人と庭師の老夫婦が残って雑用を引き受けてくれていたが、彼らには下宿の部屋を一室買ってやり、破格の退職金を渡した。長年勤めてくれていた彼らはお嬢様にも忠誠心を持っていたようで、帰宅のことは決して口外しないと約束し、出ていった。
父母の失踪も、証拠隠滅しなければならない。
最後にベランジェールは、屋敷に火を放った。石壁にビュウビュウと吹き込む隙間風から、松明の火だねがよく飛び、燃え移る。古い家を支えてきた木骨は乾燥しきっていたので、質のいい薪のようにいとも簡単に火を噴き、屋根を焦がして、ついには家全体を真っ赤な炎の舌が舐め尽くしていった。
思い出が燃えていく。シエナと過ごした子ども部屋。薔薇園。食堂。ピアノのある広間。書斎。ベランジェールの記憶にしまい込み、すべて持っていこう。
ベランジェールは炎の向こうに、処刑される寸前のシエナを幻視した。あの子は泣いていたのだろうか。叫んでいたのだろうか。それとも、凜と前を向き、悪役令嬢を立派に演じきったのだろうか。
ベランジェールに助けを乞うたりしたのだろうか。
お姉様、助けて、と、その場にいない姉にすがったのだろうか。
日記に何度も書き綴っていたように。
――シエナ、待っていてね。あなたを傷つけた人間は、みんな地獄に送ってあげる。




