婚約破棄されました。しかも、代役が憧れの幼馴染なんですけど!?
「……婚約、破棄ですって?」
セレナ・アルヴィナは、静かに言葉を繰り返した。目の前に座るアルヴィナ公爵夫妻は、厳格な表情を崩さずに頷く。重厚な書斎の空気は、張り詰めた緊張感で満ちていた。
「ドラグネス家から正式な通知が届いたわ。カリオン様は、婚約を解消したいと」
「理由は……不正魔力取引の疑惑が浮上している。スキャンダルを断つためだそうだ」
婚約は家の威信を保つためのもの。愛など、最初から期待していなかった。それは、生まれたときから定められた、ごく自然なことだった。だが、その安定すら失ったことに、セレナの胸の奥には氷のような冷たさが広がった。
「……幻晶旅行は?」
セレナの問いに、父の声は冷徹だった。
「契約済みだ。中止には莫大な魔力が必要で、取り消しなど到底不可能だ」
「代役を立てなさい。家の名に傷をつけるわけにはいかない」
幻晶旅行は夫婦限定の魔導儀式。それは、古来より貴族の夫婦に課せられた義務であり、夫婦の絆を深めるための神聖な儀式でもあった。署名済みの契約者でなければならない。しかし、カリオンはすでに失脚し、婚約は破棄された。
「……誰が、そんなことを……」
「君の魔力に共鳴できる者を探すのだ。そうでなければ、契約は成立しない」
母の静かな声が重なった。それは使命を諭すようでありながら、逃げ場を与えない言葉だった。
その夜、セレナは自室で契約書を手に取った。美しい装飾が施されたその書面は、彼女の運命を縛り付ける鎖のように感じられた。重みはないはずなのに、指先がかすかに震える。
脳裏に浮かんだのは、幼い頃からずっと隣にいた人の顔だった。
レオン・ヴァルター。隣家の息子。平民に近い家系で、魔力も凡庸とされている。しかし、彼と遊んだ日々は、偽りのない穏やかさに満ちていた。
貴族社会で、セレナの魔力と共鳴できる者を探すことは不可能に近い。多くの貴族が家の威信のために、セレナを利用しようとするだろう。そんな中で、本当に信頼できる人間は……。
「レオンに、頼むしかないのかもしれない」
彼に頼むなど無理がある。平民に近い彼を、貴族の義務に巻き込むなど、あまりにも身勝手だ。それでも、他に誰もいない。
「わたしが信じられるのは、あなただけ」
セレナは決意を胸に、静かに扉を開けた。冷たい廊下を歩き、隣家の扉を叩く。幻晶旅行の義務。婚約破棄の事実。そして、その全てを乗り越えるために、レオンの力が必要だ。
扉の向こうにいる幼馴染が、果たしてどんな答えをくれるのか。
胸の奥で、かすかな、そして震えるような希望が芽生える。
セレナは、静かに彼の言葉を待った。