第2話:本と距離と、かすかな違和感
入学式から一週間が経ち、高校生活は本格的に動き出していた。僕、相川悠太の日常は、相変わらず穏やかで、特に目立つこともない。ただ一つ、例外を除いては。
「ねぇ、今日も好きだよ。昨日より5%増しで」
朝のホームルーム前、僕が席に着くなり、隣から花咲美桜の声が聞こえてくる。昨日より2%増えたらしい。増えたところで何が変わるわけでもないが。
「はいはい。また始まった」
僕は慣れたように相槌を打つ。彼女の告白は、もはや朝の挨拶の一部と化していた。クラスの周りでは、最初はざわついていた生徒たちも、僕らのやり取りには慣れてきたのか、特に反応することはない。
「信じてくれないんだから、鈍感くんは。ねぇ、放課後、どこか行かない? 初デートの練習!」
「行かない。部活見学があるんだ」
僕は即座に断る。彼女の言葉は、いつも楽しそうで、でもどこか軽かった。からかわれている、という認識は揺るがなかった。
放課後。僕はサッカー部の見学を終え、図書室に立ち寄った。新しい学校の図書館はどんな本があるのか、少し興味があったのだ。静かな空間に足を踏み入れると、奥の方の棚の陰に、見慣れた横顔を見つけた。
花咲美桜が、窓際の席で本を読んでいた。普段の快活な雰囲気とは違い、その横顔は真剣で、どこか儚げに見えた。僕は、邪魔しないように、少し離れた席に座り、適当に手にした本を開いた。
数分後、花咲さんがふと顔を上げた。僕の視線に気づいたのか、ニッコリと笑う。
「あれ、鈍感くんじゃん! ここで会うなんて奇遇だね。もしかして、私に会いに来た?」
いつもの調子に戻った彼女の声に、僕は少しがっかりした。図書室での彼女は、僕の知らない花咲さんだったような気がしたのに。
「別に。本を見に来ただけだよ」
僕は素っ気なく答える。
「そっか。残念。あ、そういえば、今日も好きだよ。あとで放課後デートの練習しようって言ったのに、来てくれなかったから、好き度がさらに5%ダウンだよ」
「告白なのに、好き度が下がるってどういうことだよ」
僕が思わず突っ込むと、花咲さんは楽しそうに笑った。
「ふふ、だって、好きだから誘ってるのに来てくれないんだもん。ちょっと拗ねちゃうよね」
彼女の言葉に、僕はかすかな違和感を覚えた。からかっているにしては、少しだけ、言葉の裏に感情がこもっているような気がしたのだ。
その日はそれ以上、特別な会話はなかった。僕たちはそれぞれの本を読み、静かな時間を過ごした。花咲さんがページをめくる音、窓の外で風が木の葉を揺らす音。図書室の空気が、いつもより少しだけ優しく感じられた。
翌日、昼休み。
僕は購買でパンを買い、教室に戻ると、僕の机の上に小さなメモが置いてあった。
『屋上に来てほしいな。花咲美桜より』
僕は首を傾げた。屋上? なぜこんなところにメモを? 花咲さんは隣の席で、友達と楽しそうに話している。別に直接言えばいいのに。
僕は、半信半疑で屋上へ向かった。ドアを開けると、そこには花咲さんが一人、青い空を見上げて立っていた。
「よっ、鈍感くん。来てくれたんだね」
僕に気づくと、花咲さんは振り返って笑顔を見せた。
「なんだよ、用があるなら直接言えばいいだろ」
「えー、だって、これ、大事な告白だからさ」
そう言って、花咲さんは僕の目の前に一歩踏み出した。そして、いつになく真剣な表情で、僕を見つめてきた。
「ねぇ、悠太くん。本当に、私のこと、何とも思ってない?」
その問いかけは、いつものからかいとは明らかに違った。僕の名前を呼ぶ声も、真剣だった。僕は、その一瞬、彼女の瞳の奥に、何か強い光を見た気がした。
だけど、次の瞬間、花咲さんはふっと笑った。
「なんてね! またまた冗談だよ! びっくりした? 演技、うまくなったでしょ?」
彼女はそう言って、僕の肩をポンと叩いた。
「もう……! やめてくれよ、そういうの」
僕は、安堵と同時に、またしても裏切られたような気持ちになった。胸の奥に、ほんの少しだけ期待してしまった自分がいたことを、誰にも悟られたくなかった。
花咲さんは、僕の反応を見て、また楽しそうに笑った。
からかってるだけだと思ってた。
けど、彼女の“嘘みたいな告白”の裏に、本当の気持ちがあるなんて——そのときの僕は、まだ、少しも気づいてなかった。