夢を見るのは貴方のとなりで
一年で最後の季節がやってきた。
びゅうびゅうと吹きつける風は日毎に威力を増していて、僕はマフラーに顔を埋めながら大学に通っていた。
学食でご飯を食べたあと、現実と向き合う。
目の前に置かれた真っ白なエントリーシート。何枚も用意した履歴書は志望動機だけ埋まってない。スーツだらけの同級生は大人びて見えて、何も決まっていない自分が嫌になった。
「まだ決まんないの?」
「……奏みたいに優等生じゃないから」
やけにスーツが似合うイケメンは余裕そうだ。
奏が隣にいるから、尚更プレッシャーを感じている可能性も否めない。だからといって、離れようとは思わないけれど。
「お、吉良もどっか応募すんの?」
「説明会どこか行った?」
あーあと不貞腐れていれば、近くを通りがかった宇田たちが絡んでくる。最近はどこにいっても就活の話で持ちきりだ。
嗚呼、現実から逃げ出したい。
まだまだ夢を見ていたい年頃なのに。
そう思っても、時計の針も現実も僕を待ってはくれない。
「……まだ決まってない」
「なんだ、俺と一緒じゃん!」
小さな声で答えれば、テンションの上がった宇田に肩を組まれる。宇田に仲間意識を持たれるって……。なんだろう、安心したのか不安なのか分からない、この絶妙な感情は。
「宇田と一緒にしたら吉良くんがかわいそうだよ」
「……僕もなんか不安」
「おいおい! 言うようになったなぁ、吉良」
弦先輩との過去を精算したから、周りに対する考え方も少し変わった気がする。なんとなくその場のノリに乗ってみれば、ニコニコと上機嫌の宇田がそのまま体をぐいぐい揺らしてきた。
弄られて喜ぶなんて、ドMなのか。
宇田の生態がますます分からなくなる。
いつも楽しそうでいいなあと思うけれど、憧れはしない。じいっと彼を見つめれば、テンションの高い宇田に気づかれる。
「あ、じゃあさ俺と一緒に説明会行ってみる?」
「え、やだ」
「即答じゃん」
「お前はもう絡むな。吉良、西園、またな」
考える暇もなく、口から出たのはお断りの言葉。がーんと大袈裟にショックを受けているのが面白くて、くすりと笑ってしまう。
見かねた仲間に首根っこを掴まれて、ずるずると引き摺られていく宇田。何か叫んでいたけれど聞こえないふりをする。目の前に並べられた現実を確認して、僕は重たいため息を吐いた。
「なに? まだ何かあんの?」
「…………聞いてくれる?」
「聞きたくないけど、どうぞ」
就活もそうだけど、僕にはもうひとつ悩みがあった。というか、むしろ就活はまだいい。先生や家族にも相談できるし、自分の問題だから選択するのも自由だ。
だけど、律とのことはそういうわけにもいかない。律に相談した上で、奏には僕らの関係を言ってある。だから悩みを打ち明けられるのは、たったひとりしかいなかった。
「………………律が、」
「ん」
「律が手出してこないんだけど、やっぱり僕が汚いからかな……」
周りに聞こえないように小さな声でそう言えば、水を飲もうとしていた奏が噎せる。咳き込むのが治まった後、眉間に皺を寄せた奏に「バカ」と罵られた。顔のど真ん中に「最悪」と大きく書かれている。
「こんなところで話す内容じゃないだろ」
「だって誰にも言えないし、奏にしか相談できないから……」
尻すぼみになっていくのを聞いて、ぐと言葉に詰まった奏は頭を掻いたあと、僕の頭をぽんと叩いた。
「別に先輩の件があったからって、お前自身が汚れたわけじゃない」
「…………」
「どんな過去があっても紡は紡、律もそれは分かってるだろ」
「……そうかな」
後から冷静になって考えてみたら、他の男に襲われかけた僕が気持ち悪くなったんじゃないかな。律が忙しくしていてなかなか連絡を取り合えないからこそ、ネガティブに考えるのを止められない。
想いを告げたあの日までは甘ったるかったのに、この間久しぶりに会ったら随分と淡白だった。手を出そうという気配すら無かったのだ。
正直、初めて出会った時がああだったから、すぐにシてしまうのだろうなと覚悟していたのに。律に会うならもしかしてと思って、慣れないなりに頑張って準備してたのに。
自分ばかりがしたくて、律はそんなつもりなかったんだ。なんとも言えないモヤモヤした羞恥心を抱えて帰る羽目になったことを律は知らない。
もともと女の人が恋愛対象の律は、そこまで望んでいないのかな。だって相手はあの東雲律だ。経験豊富、百戦錬磨なのは分かってる。
たとえスキャンダルが無かったとしても、彼のような魅力的な男を周りが放っておくわけがない。
律なら選び放題だし、どうせ抱くなら僕みたいなちんちくりんじゃなくて、綺麗な女性の方がいいよね。男同士って面倒だし。
それなら仕方ないと納得できる。律の隣にいられるだけで十分幸せだから、無理して抱いてもらうつもりはない。
ただ、僕ばかりが律とセックスしたいみたいで恥ずかしくて、ほんの少し寂しいだけ。
好きな人と繋がりたい。律に触れたいし、触れられたい。こんなこと、律と付き合うまでは考えることすら烏滸がましかったのに。僕なんかがそんな風に思うのはやっぱり悪いことなのかな。
独りよがりは嫌われる。
律に無理強いしたくない。
「律にもいろいろ考えてることがあるんだよ」
「うーん……」
「大事にされてるじゃん」
そう言われると何も返せない。
優しい律が僕の過去を気遣ってくれているかもしれないから。
「てか、そういうのは俺じゃなくてちゃんと本人に言えよ」
「でも……」
「大丈夫だから」
「…………検討する」
「はぁ、幼馴染のそんな話聞きたくないって」
少し耳が赤くなった奏を見て、僕はなんだかホッとした。先に大人になってしまったように感じていたけれど、そんなことはなかったかも。
「失礼なこと考えてる暇あったら、早くエントリーシート書けよ」
「……はい」
奏が付き合ってくれているうちに、まずは目の前の敵をなんとか完成させないと。僕は顔を顰めながらペンを手に取った。
律には言えるわけないだろ。そんなことを思う。彼の優しさで抱いてもらうのは違うから。
もどかしくてたまらない。めんどくさいことを自覚しているけど、彼に求められて、同じ気持ちで同じ熱さで繋がりたかった。
◇◇
それから一週間後の金曜日。
仕事が巻いたと連絡があって、僕は律の家にお邪魔していた。
何度来ても、律の香りに溢れるこの場所は緊張してそわそわする。だけど生活感のなかったこの部屋に、僕の歯ブラシとか服とか、少しずつ自分のものが増えていくことが嬉しかった。
「紡は寒いの平気?」
「うん、割と」
「いいなぁ、紡に体温分けてもらわないと」
おいでと手招きされて、ソファに座る律の前に立つ。腰に手を回されてそのまま引き寄せられれば、倒れ込みそうになって慌てて背もたれに手をついた。
「ちょ、危ないよ」
「ふふ、大丈夫だよ」
覆い被さるような体勢になった僕を見上げて、律が両手で頬を包む。そして注意する僕の言葉を聞き流して、かわいらしい触れるだけのキスをした。
たった数秒でも、律に触れられると歓びに震えてしまう。ぽわっと染まる頬が熱を持っていることなんて、そこに触れている律にはバレバレだ。
もっとしたい。律が足りない。
口には出せない欲望が湧き上がる。
もう一回してくれないかな。何も言えずにじいっと見つめれば、困ったように眉を下げた律が額にキスを贈る。欲しいのはそこじゃないのに。欲深い自分が顔を出す。
だけど、その先に進む気配はやっぱりなくて、曖昧に笑う律に誤魔化すようにぎゅっと抱きしめられた。
ハグはしてくれる。
キスも軽いのならオッケー。
同じベッドで寝るのが普通。
だけど、性的な触れ合いはゼロ。
隣にいられるのが幸せなのに、僕ばかりが煩悩で溢れているみたいで苦しかった。どうしても律を抱きしめ返すことができなくて、何をやってるんだろうと自己嫌悪でまた傷ついた。
◇◇
「あ、」
「ん?」
「……っ」
「どうしたの、紡」
翌朝、律の隣で目が覚めて、向かい合って朝食を食べているときにふと重大なことを思い出して息を飲んだ。
さあっと血の気が引いて、心臓ど真ん中に隕石が落ちてくる。そんな衝撃に青ざめる僕を確認した律が手を止めて、席を立つ。
「紡?」
最近染めたミルクティーグレージュの髪が相俟って、僕の前に跪いている姿はまるで王子様。心の中でシャッターを切るのはオタクとして流石に止められないけれど、やってはいけない過ちに動揺を隠せない。
「……律の、」
「ん?」
「律の誕生日、今年祝ってない……」
毎年欠かさず、本人不在の誕生日会をひとりで行ってきたのに。今年はいろんないざこざがあって、すっかり忘れてしまっていた。自分のことばかりだった、あの日の僕をぶん殴りたい。
東雲律が生まれた一年で最も大切な日をお祝いしないなんて、僕は最低なオタクだ。
どうしようと狼狽えていると、律が「なんだ、そんなことか」と安堵する。
「別に誕生日なんか気にしなくていいのに」
「そんなことじゃない、律の生まれた日なんだからお祝いしたいに決まってるだろ」
十月四日、それは僕にとって何よりも大切な一日。僕の熱意に珍しく律が押され気味だ。
「その気持ちだけで俺は満足だよ」
「律がそう言うって分かってるからこそ、ちゃんとお祝いしたかった」
ずーんと落ち込んでしまう。
もう律から離れるつもりだったとはいえ、誕生日を忘れるなんてオタク失格。
過去の自分への怒りで泣けてくる。
涙を浮かべて唇を噛み締める僕の手を握った律が「じゃあさ」と提案する。
「俺の願いを叶えてくれる?」
「うん、何でもする」
「ふふ、言ったね、紡」
にやりと口角を上げる律に嫌な予感はするけれど、どんなことだって受け止める。それほど、僕は罪悪感と後悔に苛まれていた。
◇◇
十二月二十四日、二十五日の二日間に渡って、東雲律のクリスマスコンサートが行われる。
クリスマスを律と一緒に過ごせる。そんな初めての試みに律のオタクはその日を待ち侘びていた。
発表があってから、僕はいつも通りチケットの抽選に応募することすらしていなかった。だから今頃は律のファンサやセトリについて、SNSに流れてくるレポを家のベッドにごろごろと横になりながら楽しみにしているはずだったのに……。
目の前のキラキラとした眩しい光景に絶望する。
「帰りたい……」
「紡がそのテンションで、俺はどうしたらいいんだよ」
「奏は僕の分まで目に焼き付けといて」
「何でだよ」
大勢の人で溢れかえるドーム前。
律のクリスマスコンサートが行われる会場に、僕と奏は立っていた。
――クリスマスコンサート、見に来てよ。
そんなお願いをされるのは全くの予想外で、最初は無理だと首を横に振ろうとした。
アイドルの東雲律にはまだ微塵も慣れていないし、現場に一度入ってしまったらどんどん欲が出てくるから控えていたのだ。
だけど、「あーあ、紡は俺の誕生日を忘れちゃうし、願いも叶えてくれないんだ」なんてわざとらしく拗ねたように言われてしまっては、律に甘い僕が断ることは不可能に近かった。
綺麗に着飾ったOLさんや、クリスマスらしくサンタのコスプレをした女子高生が自撮りしている。楽しみに開演を待っているのに対し、僕だけが足をUターンさせたい気持ちと戦っていた。恐れ多くも関係者席のチケットを渡されて、一般の席を潰したわけじゃないからそこはほっとするけれど、どうしても居た堪れない。
ここにいるみんなが律のことを大好きなんだ。そう思ったら、なんとも言えない気持ちになった。
オタクとしては僕もその気持ちは負けないつもりだけど、会いたくても会えない人がいるのに、アイドルの東雲律には会いたくない自分が中に入れることが申し訳なかった。
「ねえ、あれってチワワくんじゃない?」
「待って、無理」
「絶対律が呼んでるじゃん」
「何それ、尊いんだけど」
心做しか周囲から見られている気がするけれど、視線を感じた方を見ても誰もこっちを向いていなくて自意識過剰かと恥ずかしくなった。
会場に着いたら楠木さんに連絡するように言われていたから、渋々電話をかける。待っていましたと言わんばかり、たったのワンコールで繋がってしまう。
楠木さんが電話に出なければ、このまま帰れたのにな。理不尽に心の中で責めていれば、すっかり見慣れたスーツ姿がすぐにやってきた。
「早いです」
「遅いよりかはいいでしょう」
「……来ない方がいいときもあるんですよ」
「無理です、紡さんを帰らせたら僕のクビが飛ぶので」
前にも似たようなことを聞いた覚えがある。死んだ目をする僕に、にっこりと笑いかける楠木さんはメンタルが強い。あの東雲律のマネージャーを務めているだけある。
隣で挨拶を交わす奏と楠木さんを見ながら、彼に敵う日は来ないかもと考えていた。
◇◇
ドームの一番上、所謂天井席。特別に用意してもらったその場所から僕らはステージを見下ろしていた。
一番遠い場所だけど、ここなら他のファンの席を潰すことにはならないだろうとほっとした。そういうところを気にすると律は分かって、この場所にしてくれたのかもしれない。
開演時間になり、会場内が暗転する。その瞬間、いよいよ始まると察した観客から声が上がって、一斉に立ち上がる音がした。
画面越しに何十回何百回と観てきた光景が、今、目の前に広がっている。律のイメージカラーである青色のペンライトの海がとても綺麗で、無数の星が散りばめられているようで、僕はこの景色を忘れることはないだろうと思った。
じーんと感動しながらオープニング映像を見終われば、いよいよスターの登場。キラキラの衣装を身に纏った律が空を飛んで現れる。スパンコールの煌めきが眩しくて、マントを翻す姿に惚れ惚れする。王子様がとにかく似合う男だ。
五万人の黄色い歓声を一身に浴びて、メインステージに堂々と降り立つ姿はまさにスーパーアイドル。彼に敵うものはいないのだと圧倒される。
「メリークリスマス」
巨大モニターにアップで抜かれて、ウインクを飛ばしながらファンサービスする律。甘いキャラメルボイスがドームに響き渡ると、会場内は更に温度が上がる。
せっかく用意したペンライトを振る余裕なんて全くなくて、律の一挙一動を見逃さないように目で追いかけることしかできなかった。
キラキラの衣装、クリスマスらしい演出、ステージの構成、セットリスト、衣装替えの間に流される映像。その全てが律を輝かせるために用意された最高のもの。妥協なんて許されない、律のプライドがそこにはあった。飽きることなんて一切なくて、誰もが東雲律の虜になってしまう。
曲が終わる度に終わりが近づいているのだと思うと寂しくて、MCの時間がやってくるともう折り返しまで来てしまったのだと悲しくなった。
もっともっと、律のステージを見ていたい。
心からそう思うのに、律との間にある距離を遠く感じて切なくなる。
それでも楽しい二時間半はあっという間に過ぎ去って、アンコールが始まった。
二日間に渡ったクリスマスコンサートを締めくくる最後の曲は、来年発売される新曲「僕の光へ」だ。律にしては珍しいアップチューンで、聴いた人全てを優しく勇気づけてくれる応援ソング。
僕はこの光景を忘れないように最後まで目に焼き付けようと、ぐるりと花道を一周する律の姿を見つめ続けていた。
バックステージでパフォーマンスするときや、フロートに乗って外周を一周するときもあったけど、律が近くに来るのはスタンド席の人にとって最後のチャンス。みんなペンライトをぶんぶん振って、律にアピールするのに必死だ。
客席に手を振ったり、団扇に書かれた文字に答えながら歩いていた律がバックステージの中央で足を止める。
ちょうど、目の前だ。
世界で一番かっこよくて、いつだって輝いている、眩しすぎるひと。
そんな大好きな人が「君は僕の光だ」とサビを歌いながら、天井席を見上げて指を差す。
「……愛してる」
サビ終わりに柔らかい笑みを浮かべた律はそう言うと、再び足を動かし始めた。
一呼吸置いた後、会場が揺れる。間違いなく、今日一番の盛り上がりだった。
今は遠い場所にいるけれど、自意識過剰ではなく、僕に向けた言葉だと伝わった。こみ上げてくるものを抑えきれず、ぐしゃりと顔を歪ませる。
「……遠いね」
「今は、だろ」
ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる奏。最後まで見ていたいのに、視界がじんわりと滲んでぼやけてしまう。瞬きをすれば、涙がこぼれ落ちた。
五万人を熱狂の渦に巻き込んでしまうスーパーアイドル。そんな貴方に夢を見てしまったんだ。
――一度でいいから、彼の隣に立って歌いたい。
あの頃抱いた夢はずっと、心の奥底で眠ってる。
今はまだ彼に見合った人間になれていないし、自信もない僕だけど……。夢を叶えるなら貴方の隣がいい。手を振ってステージの裏に下がる律を見つめながら、静かに火が点るのを感じていた。