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記憶の絵

作者: 染井碧

 例えばそれが現実ではないとしたら、私の悲しみは軽減されるだろうか。

 例えばそれが夢の中で起こっている出来事なら、私がうなされてかいた汗は喜ぶだろうか。

 例えば、あの時に戻れるとしたら私は望んでその地点に戻るだろうか。それとも、その状況に恐れをなして躊躇するだろうか。何もかもが新しくなるとして、またこの人生を選ぶだろうか。


 それはとても暑い日だった。私は、公園のベンチに座り軽めのランチをとりながら、携帯電話に届く営業報告を確認しつつ、ハンカチで何度も額の汗を拭く。本来なら、仕事の合間に資料の作成を事務所で行うが、今日はできるだけ事務所には居たくないというのが公園ランチの動機だ。

 毎月月末になると、自分自身の営業成績とは無関係に事務所の空気が悪くなる。それは、緊張感を漂わせることで営業人員の士気を高めると同時に、営業各個人の鼓舞が目的なのだと、飲みに出かけた時に部長が言っていた。つまり本心ではなく意図的に事務所の空気をコントロールすることで、仕事の成果が変わると信じているわけだ。その理由について質問すると明確な回答の代わりに、それでこれまで成長してきたからという理解できるようなできないような回答が来た。私はそれ以上質問することを控えた。古い体質という見解もできる。もしも気合いで仕事の質が上がったり下がったりするのなら、全世界で優秀な営業成績を叩き出す人が続出するはずである。しかしながら、どの世界にも気合いではどうすることもできない慢性的やる気停滞者が存在する。事務所の空気をコントロールするのはエアコンに任せ、慢性的なやる気の停滞をなんとかしなければならないはずである。しかし気合いの発動や空気をコントロールする方が楽なのだろう。

 別の飲み会で、営業成績の悪い人は、単に、記憶力がいいだけですよ。と部長に言ったことがあるけれど、全く相手にされなかった。記憶力がいいのなら、反省して次に活かせばいいだけだろう。学ぼうとしないから逆に記憶力が悪い。と、部長は熱燗の残りを一気に飲み干してから言った。


 午前中の訪問で来月分の受注をもらっているため、堂々と事務所に帰ることもできたが、私自身事務所の空気を守るために、外に出て頑張っている様を装うことにする。同じ部署の営業スタッフに来月はどうなのかと聞かれれば、まだ何もないですと嘘をつく。そして相手を安心させるのだ。相手は自分の仲間を探すことが目的だからその目的を叶えてあげる。決して謙遜しているわけではない。そのような高貴な意識は存在しておらず、私の中に存在するのは単なる自己満足である。そんなことにエネルギーを割くことに少々疲れてはいるものの、協調性は大切なのだと自分自身に対して妙な理屈をこねる。

 時計を見る。十二時三十五分。

 午後の予定が十四時からなので、少々時間がある。

 どうして六月なのにこんなに暑いのだろう。頭の中に問いかけるも答えは得られそうになく、私は缶コーヒーを飲み干して公園のゴミ箱を目で探す。

 都心にある公園にしてはそれなりの広さがある。ベンチで横になり新聞紙を顔の上に乗せて寝ている男性。ゆったりとした動きで体操する集団。小さい子どもを抱えた女性。スーツを着たサラリーマン。走り回る男児。暑い中でもかなりのバリエーションを有した公園である。

 私はベンチに深く腰掛けて、携帯電話をベンチ後ろの花壇に置いて目を閉じる。

 暑いものの、時折吹く風が滴る汗に当たり心地が良い。

 しばらく目を閉じていると眠気が襲ってくる。私は目を開けてゴミ箱の位置を確認しベンチに置いてあった缶コーヒーを掴み、立ち上がろうとする。

 するとベンチに小さな振動があった。

 手にした缶コーヒーから自分が座っているベンチの左サイドに視線を移すと、見た目が小学生低学年くらいの女の子が座っていた。

 私は、女の子を一瞥してから立ち上がる。

 親御さんはどこだろう。ゴミ箱まで歩く中で小さく呟く。公園で女の子の居場所を確認している人をざっと見渡したものの、それらしき人は見当たらなかった。近所に住む女の子が一人で公園に遊びにきたのだろうか。空き缶をゴミ箱に放り投げると自分が座っていたベンチを見る。女の子は両手を膝に置いてまっすぐ前を見つめている。私は、もう一度公園の人たちを見渡しながらベンチの方に歩いていく。

 私は歩きながら女の子をそれとなく観察した。彼女は、青いワンピースに白い靴という出で立ちだった。カバンは持っていない。両手を膝の上に置いて、まっすぐ前を向いている。

「こんにちは」

 私は女の子に声をかける。しかし女の子はまっすぐ前を向いたまま、私の声に対して反応しなかった。膝の上に置かれた両手はきちんと揃えられている。右手の親指の付け根にホクロがある。一瞬傷なのかと思えるほどホクロにしては大きいものだった。私は自分の右手を女の子の前に持っていき、軽く振る。女の子はハッとして私の方向いた。

「こんにちは」

 私がもう一度挨拶をしたら、女の子は口に両手の人差し指を持っていきバッテンを作った。そして首を左右に振る。

 話せないとなると。

 私は、彼女の様子を見ながらもう一度公園を見る。しかしこちらの様子を気にしている大人はいない。ということはやはり一人でここに来たということなのだろうか。私は、カバンをあさり、ノートとペンを手にとって、一人なの? と書いて女の子に見せる。女の子は、小さく首を傾げた。そしてもう一度首を左右に振る。

 私は、ノートとペンを女の子に差し出す。何か書いて、とジェスチャーで彼女に促す。

 彼女は、ゆっくりとノートとペンを取り、しばらくノートをじっと見る。そして、ゆっくりと確かめるようにノートにペンを走らせる。そこに書かれた言葉は、私が理解できない国の言葉だった。

 何を書いているかが分かればコミュニケーションをスタートすることができるけれど、何を書いているのかが理解できない場合、次の一手が思い浮かばない。いよいよ両親を探したい衝動に駆られる。

 携帯電話が、ひっきりなしにお知らせを送ってくる。営業の報告である。でも今はそんなことはどうでもいいくらいに、目の前にいる女の子が書いている内容が気になる。言葉が話せない、言葉が通じないことがわかっているのに、この女の子がこの公園に来たということの不思議さだ。

 何度も公園に目をやりながら、この女の子の両親を探しているものの、こちらに歩み寄ってくる人は皆無で、さらには我が子がいなくなったら気にする大人がいるだろうと、公園を何度も見渡しているがこちらの様子を気にする大人はいない。公園の両脇にそびえ立つマンションを眺めてそのまま空を見上げてため息をつく。

 女の子はというと、そのまま私の困り顔そっちのけで、ノートに色々な言葉を書いている。時折こちらを見るが、今度は私が首を左右に振らなければならない。私の困り顔を察知したのか、彼女は言葉の代わりに絵を描き始めた。

 時計を確認して残り時間を計算する。もう少しでお客様への訪問へ出かけなければならない。そうすると、彼女に渡してあるノートは回収しなければならない。楽しそうに絵を描いている姿を見ているとノートを返却してもらうことに少々気がひける。

 しかし彼女の描く絵は、その上手さが際立って見える。それは営業用にコンビニで手に入れた百円のボールペンで描かれたものとは思えないクオリティで、灯台のような物と海と山が描かれている。その海は波が立っているので穏やかではなさそうだ。大きめの帽子をかぶった人物が小さく描かれていて、帽子とスカートを両手で押さえている。どこか懐かしさを覚える絵だった。

 私が見入っているのに気付いた彼女は、描いている手を止めてこちらを見た。そして、ゆっくりとまだ書きかけのノートとペンを私に戻す。私は両手を合わせて謝るジェスチャーをして、時計を人差し指でトントンと叩き、もう一度彼女に向かって両手を合わせる。もう行かなければならないことを最大限表現したつもりだった。伝わったのか伝わらなかったのか、女の子は口をほんの少しだけ開いてぽかんとした表情をして私を見ている。

 もう一度時計を確認して、カバンと脱いでいた上着を掴み、彼女に軽く手を振って足早にベンチを後にした。

 彼女には申し訳ないけれど、仕方のないことだ。自分の行動を自分で正当化する為、言い聞かせるように心の中で思う。

 公園を出るときに振り返って彼女が座っていたベンチを見る。

 そこに彼女の姿は無かった。


 お客様のところで打ち合わせを終えて、ビルのロビーの入り口で書類をまとめていると、社用携帯ではなく個人携帯にメッセージが来た。

 別れた彼女、未麻からのメッセージ。

 簡潔に、元気? と一文だけ。

 相変わらずの性格だなと思う。

 別れて二年ちょっとが経過していて、こちらから別れを切り出したわけではないから本来では嬉しさが込み上げるのが普通なのかもしれない。けれど、二年も経つと当時の猛烈な悲しみはすでに消えており、喜びというより驚きの感情が先立つ。全然連絡がない知り合いから突然連絡が来た時のような不思議な体感であった。

 上司に簡潔なメール文章で営業報告を済ませてからロビーを後にする。

 このまま事務所に帰るにはまだ時間が早い。事務所のある駅の一つ手前の駅で降りる。駅近くのコーヒーショップに入ってコーヒーを頼んでから席について、もう一度彼女からのメッセージを見る。

 別れたはずの恋人が連絡をしてくる場合、それが三ヶ月以内の場合、未練がある。自分の経験した恋愛からの学びである。男女では感覚が違うから一概に全てがそうとは言えないが。自分から別れを切り出したわけではないのと二年程時間が経過していることを考えると、どのように返したらいいものかを思案する。

 未麻は、女性にしてはとてもサバサバとした性格だった。片方の側面から見ると快活であり、もう片方の側面から見ると、あまりにストレートな物言いで周りの空気を真空パックにする人だった。立場とか男女とかの枠組みを超えて発言をするため、時を止めることが度々あったが、そのはっきりとした性格は好感触だった。そして何よりも想いを隠すことができない人物だった。だからこそ、当時気持ちが離れていく様子は手に取るように分かったし、その気持ちを繋ぎ止めるのにエネルギーを使った。何か嫌なことをしたのであれば改善の余地があるものの、特に何も思い当たる節がない場合は、手の施しようがない。当時はそのようなことを考えていたように思う。そして別れを告げられた時、このままでは辛いという表現を彼女がしたことで、初めて自分の気持ちをストレートに告げない彼女を見た気がした。相手はこのような人物だろうと考えている場合、自分の脳はそれに近い情報を集める。もし、自分の気持ちを素直に表現するのが本当の彼女なのだとしたら、恋人関係で作られた私の中の未麻の人間像が違っていたのかもしれない。


 -元気だよ。突然どうしたの?

 

 絵文字などを入れずに簡潔に返す。そして、コーヒーカップに口をつけて少しぬるくなったコーヒーを一口飲んで一息ついた。一時間ほど時間を潰して事務所に帰ろう。この時間の喫茶店は、おそらく私と同じことを思っている可能性のあるサラリーマンの姿が目立つ。もう少し時間が経過すると、人々の足取りは早まり、自宅からロープで引っ張られているかのように電車に乗り込む。

 窓際の席で道ゆく人を眺めていると、そこにはそれぞれが抱えている課題や問題点、喜びや悲しみが入り混じっていることが想像できる。あくまでも想像ではあるものの、何かしらの想いを抱いているのは確かなはずだ。

 彼女から別れを切り出された時は、単純にショックだったけれど、今この場所からあの時を思い返すと、そのショックは当時と今では全然違う。昔から言われている、時が解決するという現象なのだろう。

 道の傍らで、耳に当てた携帯電話に対して何やら怒りをぶつけている男性も、来年の今頃はそのようなことを覚えていないかもしれないし、仲良く手を繋いで歩いているカップルは、来年の今頃はもっと幸福になっている可能性があるし、逆にどちらかが悲しみに包まれているかもしれない。


 携帯が振動する。

 

 -今日暇なら会わない?


 未麻からのメッセージからは限りなく感情を排した様子が伺える。

 想像するに、何か伝えたいことがあるのだろう。それが私のとってポジティブな内容なのか、ネガティブな内容なのかは現時点ではなんとも言えない。時計を見て帰社時間を考え、コーヒーを飲む。


 -十九時半、秋葉原駅でどう?


 未麻に返信してからお客さまリストを眺めた。未来のことは誰にもわからない。過去のことは分かっているつもりだけれど記憶の中だけで存在しているから、それが本当に起こった出来事なのかを確かめる術はない。その時の悲しい記憶は、その悲しみが確かに存在していると私に主張する。写真を見返すと思い出される感情も本当なのかは怪しいものだ。

 今日会った社長は、過去のことは捨て去るのが一番だと言った。未来のことを予想することで、新しいサービスを考え出すことができる。今何が起こっているのかをきちんと見極めることで未来はある程度予想することができるそうだ。

 私は経営者になりたいわけではないから、未来のことがどうなるのかは全くわからないし、今を生きることに精一杯だ。しかし皮肉なことに、未来のことで頭がいっぱいになっている社長も、今パソコンに入っている探したいデータがどこにあるのかを知るという点においては、私よりも疎いのが現実だ。

 自分と記憶、自分と情報、自分と未来、そして他者が複雑に入り組むことで今の現実が構成されているから、そのほとんどを変え難い現実だと錯覚してしまう。

 二年ぶりに連絡をしてきた元恋人の存在が、私の意識の半分を当時に運んでいく。そしてもう半分の意識は、社長に提案する会社のインフラについてざっと見積金額を考えている。

 

 会社に戻り、再来月の案件として受注した今日の打ち合わせの提案書と見積書を作って、再来月のフォルダに放り込む。近未来だけど、これは未来のことだ。

 そしてこれから、過去に会いにいく。

「軽く報告はもらったけど、今日のアポどうだった?」

 机を片付けていると、上司が話しかけてきた。

「再来月の案件になりますが受注できそうです」

 上司は、一瞬間をおいて、自分のパソコンの画面を見る。

「来月の案件は?」

「予算分は完了してます」

 上司は小刻みに頷く。

「いいね。期待しているよ」

 私は、お礼を言いながらカバンの中にある書類をキャビネットに移す。

「ところで、今日これ行かないか?」

 私はキャビネットを閉じ上司を見る。上司は、右手でグラスを傾ける仕草をしている。

「ごめんなさい、今日は予定があって」

 上司は、小指を立てながら「これか?」と言う。

「昔のです」

 私は口元だけで笑う。自分の作り笑いを鏡を通して見たような気がした。

 いつのころからか、顔全体で笑うことは少なくなったように思う。というより、笑えなくなったというのが正解かもしれない。暗黙で強制される同意や、そうですね、というセリフがどんどんと仕事上で繰り返されると、本心と言葉が乖離していく。言葉が持っている意味が単なるコミュニケーションツールになる。そうこうしているうちに、自分が本当に考えていることが何であるのかがわからなくなる。本当の自分というのは、現状に不満を抱いている自分が逃げるために作り出したもので、夏の避暑地の場所がどこを指すのかに似ていて、とても曖昧なものだ。

 同僚も、本当の自分はこのようなことをしたいわけではないと飲み屋でうなだれながら言うが、今やっていることが本当の自分がしたいことで、したくないなら辞めればいいだけの話だ。本当の自分と本当じゃない自分が存在していると考える時点で逃げだと思うけれど、それを面と向かって言わずに、何がやりたいのかを同僚から聞き出している自分も同罪だ。

 今月予算を達成していない営業マンは、眉間にしわを寄せながらパソコンとにらめっこしている。そして営業の部長も書類を見ながら眉間にしわを寄せいている。

「それでは、お先に失礼します」

 上司に言うと、タイピングしていた左手を上げて、「おう、お疲れ。頑張れよ」と言った。


 未麻と待ち合わせをしたのは大型電気店の前のベンチだった。余裕を持って出てきたので、着いたのは七時十五分だった。

 この時間帯は休日を思わせるほどの賑わいだった。見た目が明らかに日本人ではない国籍の違う人々がドーナツを食べていたり、たこ焼きを頬張ったりしている。その傍らを早足で進む人々の群れ。東京に住む日本人は足が早いと聞く。特にこの時間の人々は通常よりも足早に見える。

 一人分だけ空いているベンチに腰掛けて、携帯電話を取り出す。


 -少し早いけど到着。目印は?


 携帯電話で未麻にメールをして、しまおうとするとすぐに返信があった。


 -もう着いてる。目印は紺のシャツに白のスニーカー。


 携帯電話の文字を読みながら顔を上げて、ベンチから立ち上がり未麻を探す。二つ隣のベンチで下を向きながら携帯電話を触っている女性がいる。紺のシャツに白のスニーカー。

「お待たせ」

 未麻に声をかけると彼女はゆっくりと顔を上げた。

 当時はショートカットだったが、その時と比べると髪の毛が肩よりも長い。

「ああ、ごめんね。突然」

 彼女はゆっくりと立ち上がる。

「居酒屋でいい?」

 付き合っていた時に、おしゃれな洋食よりも日本的な焼き鳥などを好んでいたので、今回もあえて居酒屋を提案する。未麻は返事をしないで頷いた。そのゆったりとした動きは当時と全く変わっていない。足早に歩く駅前の雑踏では、そのゆったりとした動きが余計にゆっくりとした動きに感じられる。未麻の歩調に合わせて歩きながら、居酒屋の看板を探す。上司に連れていってもらった店や、昨年の忘年会で使った居酒屋の秋葉原店など、看板が流れていく中、地方の料理をメインにした居酒屋に吸い込まれるように入っていく。もともとここにいく予定だったと錯覚するほど滑らかな動きだったのだろうか。

「来たことあるの?」と、未麻が聞いてきた。

「いや、なんとなくだよ」私はエレベーターのボタンを押しながら答える。

 エレベーターが開くと、街中よりも元気な店内と、一際大きな声を放ちながら歩き回る店員さんに圧倒されながら、ピースサインで二名であることを伝える。


 席を通されカバンを席の隣に起きながら未麻が言った。

「仕事は順調?」

「まあね」

 メニューを開きながら答える。

 何が順調なのか、よくわかってはいない。けれど、仕事について聞かれると、だいたいは順調か、まあまあ上手く行っていると答えるようにしていて、二年ほど会っていない未麻がする質問は、順調なのかより何か大きな進展があったのかどうかを確認する意味もあるのだろう、と勝手に推測する。

「彼氏とは上手く行っているの?」

 私は、言いながら店員を呼ぶためのボタンを押した。

 未麻は、両手をテーブルの上で組みながら少しだけ視線を下に向けながら次に言うべき言葉を選んでいるようだった。下唇がかすかに動く。

「お待たせいたしましたー」

 異常に力強い声とともに、店員が登場する。と同時に未麻の唇が動いた気がした。けれど、元気な店員の声にかき消されて何も聞こえなかった。

 店員に生ビール二つと海鮮サラダを頼んで、静寂が戻ってから未麻をみる。

「私、結婚したの」

「そうだったんだ」

 未麻が別れを切り出した時、別れの理由をこれ以上あなたを好きでいることが辛いと言った。あまりにも曖昧すぎる表現であり理解することが難しかった。そして何より本当のことを言って欲しいと感じた。彼女に他に好きな人がいることは、彼女の言動から明らかだったからだ。その心が離れていくことがもう止めることのできないものであることは明白だった。だからこそ、別れの理由は、他に好きな人が出来たと言って欲しかった。同時に、その表現が彼女の優しさなのかもしれないと思った。

 前に付き合っていた彼氏が、他に好きな人が出来たと伝えることで激昂したと聞いたことがあったからだ。でも、私はそんな人間ではないはずだった。その性格が伝わっていなかったのか、男性の共通心理として未麻の理解なのか、当時は色々考えたが、今となってはそんなことを考えていたことも記憶上の話だ。

 店員がビールと海鮮サラダを持ってくる。

 未麻を見て、結婚して幸せの絶頂にある人物とはなぜか思えなかった。感情を表に出さない未麻の性格を差し引いたとしても。それに二年ぶりに突然会いたいと連絡をしてきた理由もある。

 グラスを合わせて乾杯すると、未麻は一口飲んでグラスを置いた。

「あと、娘が生まれて、今三ヶ月」

 私がビールグラスを置くと、「今日は実家に預けてある」と付け加えた。未麻は、携帯電話を操作してこちらに見せる。その画像には、生まれたばかりの子どもが写っている。右手を口に当てて、カメラの方を見て笑っている。三ヶ月でも笑うんだなと思う。

 その右手には、今日公園であった女の子と似たようなホクロがあった。

 子どもが実家に預けられていると聞いたことで安心感と同時に解決した私の疑問。けれども、もう一つの疑問は解決していない。

「旦那さんは知っているの?」

「何を?」

「今日の行動」

 私は海鮮サラダを未麻の分と自分の分に取り分ける。

 未麻は、礼を言いながら受け取る。

「知らないよ」

「そっか」と答えたものの、面倒に巻き込まれることを拒絶する心が騒ぐ。二年ぶりに振られた元彼女から連絡があり、会っていること。そして元恋人は、結婚していて、子どもが生まれていて、今日の出来事を旦那が知らないこと。

 生きるテーマを無難と定めている身として、ときめきよりも現状維持の方が大切である。期待上のストーリーは、あなたのことが忘れられないとか、色々な人と付き合ってあなたの大切さがわかった、等の話が来た場合に断るつもりだったし、お金を貸してくれと言われた場合も丁重にお断りする予定だった。友人としての食事を楽しむはずだった。

 あとは、元恋人がどうしているのかに対する単純な興味だ。

「どうしたの?」

 未麻が言う。

「あ、なんでもない。ちょっと想像していたのと違ったから」

「想像って、何を想像してた?」

「元恋人からの突然の連絡って、普通だったら期待するものじゃない?」

「かもね。よりが戻せるかもとか、別れてもずっと好きでしたとか」

「そう」

 私は、短く答えてメニューを開く。

「でも想像とは違った」未麻が言う。

「その通り」

 私は店員を呼び止めて、刺身の盛り合わせを頼む。

「三ヶ月なら、子育て大変そう」

「そうだね」未麻は、海鮮サラダを頬張りながら答える。

「そういえば今日、昼食の時に公園で小学生くらいの女の子にあったんだけど、親が見当たらなくてね」

 私はカバンからノートを取り出して、女の子が書いた絵を未麻に見せる。

「すごく綺麗。相変わらず絵が上手い」

「相変わらず?」

 私は、未麻に見せていたノートを見る。

「ここ、付き合っていた時に二人で行ったえりも岬ね。まだ絵かけるんだ」

「だからこれは女の子が描いたって」

「それ、本当の出来事なの?」

 私は、ノートを見ながら言葉を絞り出そうとする。しかし言葉は出てこなかった。

 私は絵を描くことが好きだった?

 そんなはずはない。

 記憶違いを信じたくなる。

 

 記憶から消えていた好きだったこと。

 絵を描くのが好きだという自分を否定することで、別の人が作り出した幻影を自分のものとして捉えていたのかもしれない。

 テレビの中に憧れを持って眺めていたはずなのに、いつしかその憧れが大衆のものではなく自分の憧れとすり替わるように、自分が好きなことは誰に言われずとも自分が一番よく知っている。しかしそのことに蓋をし続けることで、いつしかその想いは発酵食品のように化学変化を起こして全く別のもになってしまうこともある。

「ナルコレプシー。居眠り病かもね」

 未麻は少しだけ笑いながら言う。

 ノートに絵を描いたことすら忘れているとしたら本当に病気だ。それなのに、毎月与えられた業務をこなして優秀な社員として表彰されたりする。

 記憶は曖昧だ。そう考えると現実も何をもって現実とするのか曖昧になる。


 なんともすっきりしない気分のまま、他愛のない話と食事を終えて、未麻を駅まで送る。

「今日は突然、ありがとう」未麻は歩き出してすぐに振り返る。

「旦那が知らないのはね、旦那はもう居ないからよ。子どもが生まれてからすぐに、事故で亡くなったの」

 未麻が改札に入っていくのを見ながら、降り始めた雨に気づく。


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