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◆Epilogue◆


 その日、西園寺は暖かい部屋にいた。

 窓からは、咲いたばかりの桜の花が見える。風に吹かれて揺れる様は、見る者になんとも儚い印象を与えてきた。

 寒い冬の季節が去り、草花が芽吹く頃。

 射し込んでくる柔らかな春の陽射しに、思わず眠気を誘われる。

 ゆっくりと数度瞬きを繰り返していると、彼女の視界の下方でうごめく影。程なく、視界いっぱいに映り込んできたのは、三十代半ば頃の女性の顔だった。その顔は泣き腫らして、目元や鼻先など真っ赤に染まっている。化粧が施された目元など、涙でマスカラやアイライナーが落ちてメチャクチャな有様になってしまっていた。



「お母さあぁん……!」

「あらあら……お前は本当に……いくつになっても泣き虫ねぇ……」



 あの日――死神と別れてから、既に七十年余り。西園寺は八十六歳になっていた。

 あれから学業を頑張り、興味のあることに果敢に挑戦した結果――彼女は保育士の道を選択した。たくさんの子供たちと触れ合い、その中で優しい男性と出会い結婚。四人の子宝に恵まれ、幸せで暖かい家庭を築いてきた。現在彼女の傍にいるのは、その優しい旦那と四人の子供たち、そして孫や親戚だ。

 これまで大きな病に罹ることもなかった彼女だったが、老いには勝てないもの。もうそろそろ天寿を全うする日が近いと思ったのが約二週間前だ。

 身体に力が入らず自宅で転倒し、そのままこの病院、そして病室に運び込まれた。


 まだ、この暖かい時間の中にいたいと思う反面、もう思い残すことはないとも思う。子供たちには優しい夫がついているし、可愛い子供たちには既に四人とも新しい家庭がある。

 自分はもう、この何より愛しい家族からたくさんの幸せと愛情をもらったから、充分過ぎると。



「彩花……」

「あなた……そんな顔、しないでくださいな……わたし、とても幸せでしたよ……」

「僕もだよ、本当に……本当に幸せだった。いや、幸せだ。君と出会えて僕は本当に幸せなんだ」

「ありがとう……うふふ、本当に……あの時、死なないでよかったわ……」

「……え?」



 西園寺の――彩花の言葉に、夫は不思議そうな顔をした。

 彼女はそれに対して特に何も口にすることはなく、ただ「なんでもない」と言うかの如く力なく頭を横に振ってみせる。

 そして、そっと目を伏せた。とくんとくん、と心臓の弱々しい鼓動が不思議と耳についた。頭に深い霧が掛かるような錯覚に陥りつつ、心地好い眠りの中へと落ちていく。

 「お母さん!」と叫ぶような子供たちの声を聞きながら、彩花は最期に――笑顔を浮かべた。精一杯の笑顔を。



「(ありがとう……ありがとう、私の愛する家族たち……これからはその愛情を、あなたの大切な家族にたくさん注いであげるのよ)」



 その想いが言葉になることはなかったが、きっと子供たちなら言われなくてもそうするだろうと――そこまで考えて、彩花は思考を放棄する。

 彼女が永遠の眠りについたのは、三月の下旬のことだった。



 * * *



「……あら?」



 次に彩花が目を開けると、これまでの身体の痛みや重苦しさは全く感じられなくなっていた。

 辺りを見回すと、そこには寝台に伏せって泣き崩れる子供たちや夫の姿。そして、安らかな顔で眠りにつく自分が見えた。

 最初こそ呆然としたものの、程なくして理解する。ああ、自分は死んだんだと。

 病室には家族の鳴き声が響き、彩花は困ったように笑う。そういえば、自分も母が亡くなった時にわんわん泣いたなぁ、なんて思いながら。



「八十六歳か、長生きしたじゃないか」

「えっ……?」



 ふと聞こえてきた覚えのある声に反応して、彩花は思わず辺りを見回す。すると、窓辺に佇む一人の男を見つけた。その肩にはふさふさの立派な毛並みを持つ一匹の黒猫の姿も見える。

 彩花はそれらの姿を視界に捉えて、暫し絶句していた。忘れようはずもない、忘れられるわけがない。あの――死神だ。嘗て彼女が想いを寄せた、あの冥界案内人が窓枠に凭れるようにして立っていたのだ。



「し……死神、さん……? まさか本当に……本当に、来てくれたの……?」

「呪われたら困るからな」

「迷子になられても困りますからね」

「ふ……っ、ふふっ、あははは! 死神さんもトイフェルちゃんも、何も変わってないんですね!」



 トートとトイフェルは、彼女が最後に別れた時のまま、何ひとつ変わっていない。姿形はもちろん、雰囲気も当時のままだ。あれから七十年も経ったのだと、まるで感じさせない。

 一頻り声を立てて笑った後、彩花はそっとトートの元へと歩み寄る。それと同時に老婆だった彼女の魂の姿は、見る見るうちに当時のものへと若返っていく。そして両手を己の腰に当てて「ふんっ」と軽く胸を張ってみせた。



「どうです? 私、すごく精一杯生きましたよ」

「そのようだな。どうだった、自分の人生は」

「大変なこともたくさんあったけど……幸せでした。あの時、死神さんに馬鹿なこと言うなって叱ってもらえて……本当によかったんだって、今は心からそう思います。――あっ、死んじゃったからもう心もないのかな?」

「あなたがそう感じられるのなら、心はあると思いますよ。……お疲れ様でした、名残惜しいでしょうけれど……そろそろ行きましょうか?」



 トイフェルのその言葉に、彩花は一度病室のベッドを振り返る。そこには、彼女が愛した家族が未だに寝台に突っ伏して泣いている。その姿だけでも、自分がどれだけ愛されていたかが理解できた。

 彩花はそっとそちらに歩み寄ると、家族の一人一人の頭に片手を伸ばす。既に実体のない身、触れることはできないが――まるで撫でつけるように手を動かしてから、優しく、それはそれは優しく微笑んだ。姿は高校生の頃のものへと戻ったが、慈愛に満ちたその表情は「母」そのものだった。



「……未練はないって思ってたのに、名残惜しいものですね。もう会えないんだろうなぁ……」

「また会えますよ。次に転生するまでには百年ほどはかかりますからね」

「ひゃッ、百年!? それまでどうすればいいんですか!?」

「罪人でもないお前は閻魔に会った後は天国へ行くことになる。現世の様子を見ることもできるから、お前の大切な家族を天国から見守ってやるといい」

「そっか……そっかあぁ……うふふ、じゃあ夫が浮気しないかどうかもチェックできるんですね」

「……彩花さん、変わりましたね。人間は社会で擦れるとこうなってしまうのですか、嘆かわしい……」



 トイフェルはトートの肩に乗ったまま、文字通り嘆かわしいとばかりに重苦しい溜息を吐いてみせる。

 西園寺彩花と言えば、元々は引っ込み思案で大人しい、真面目な少女だったはず。それがいつの間にか、こんな軽口を叩くまでになってしまった。それを嘆いているのだろう。トイフェルは少なくとも、彼女の真面目で健気なところを気に入っていたのだから。

 彩花は「うふふ」と悪戯が成功した子供のように笑うと、今度こそ泣き崩れる家族のもとをそっと離れる。それを見て、トートはトイフェルを肩に乗せたまま床を軽く蹴り、宙へと浮かび上がった。天井をすり抜け、快晴の青空へ飛び立つと、数拍ほど遅れて彼女がついてくる。その視線は、やはり眼下に見える病院へと向けられていた。心配そうに、それでいて名残惜しそうに。肉体を持っていたら、間違いなくその双眸からは涙が溢れていたことだろう。



「……大丈夫か」

「……はい、大丈夫です。今は少しだけお別れなだけですもんね。夫や子供たちがこちらに来た時には、目いっぱい甘やかしてあげて、また楽しい時間を過ごすんです!」



 そこでようやくトートを見上げた彼女は、今度こそ笑った。未だ表情には多少の陰りが見えるものの、どこか吹っ切れたように。

 家族に愛されなかったトートには分からない感情だが、それでいいのだと思った。

 分からないからこそ、生き物が持つ愛情を特別尊く感じられるのだから。



「だから、私の家族が天に召される時は私もお迎えに連れてきてくださいね!」

「……閻魔の許可が下りたらな」



 背中に掛かる声に薄く苦笑いを浮かべながら、トートは鎌を振る。

 そうして、冥界へと続く扉を開き、彼女と共にくぐった。



 * * *



 天国へ向かう彩花を見送ったトートは、そのまま閻魔大王に呼び付けられた。

 どこがどうお気に召したのかは分からないが、この閻魔大王はトートのことを大層気に入っている。事あるごとに呼び付けては、様々な仕事を押し付けてくるのだ。

 どうせ今回もだろう――そう思ったトートとトイフェルの予想は、寸分違わぬものだった。



「今回はどのような仕事だ?」

「ああ、これを見てくれ。これはここ数年の間にこちらにやってきた人間たちの魂を纏めたリストなんだが……」

「一日の間に数十人ですか、それも何回も。随分一度に纏まって来ていますね」

「うむ。そこでだ、次は他者の命を奪う危険な思想を持つ者の回収を頼みたい」



 ハッキリと告げられた言葉に、トートとトイフェルは暫し押し黙る。

 他者の命を奪う危険な思想を持つ者。

 簡単に言うなら、他殺――殺人を犯す可能性のある者の回収だ。けれども、その依頼は二つ返事で承諾できるものではない。



「閻魔大王、そういった分野に死神が介入することは禁じられているはずです。殺人の動機の裏には当人たちなど、個人にしか分からない理由や事情があります。そこに介入してしまえば……」

「そうだ。死神は常に中立の立場に立ち、独自の正義などを持ってはならん。死神個人の感情が加わり、どちらか一方を正しいと決めつけてしまえば、それが基準になる。同様の件を見つけた際に、感情だけで動いて手を下してしまう恐れがあるからだ。そして、それは人間から学びの機会を奪う」

「学び……」

「ヒトの多くは、幼くして親から様々なことを教わるし、教わらなくとも生きていく上で知っていく。どんなことをすれば悲しいのか、腹立たしいのか、嬉しいのか。しかし、成長していくと共にそれらのことを次々に忘れていくのだ。だから暴力や殺人など悲しい事件が起きる、……突発的なものも多いだろうがな。人々はそれらの事件から痛みを学んでいくしかない、学んでくれることを願っておる」



 ――そうだ、トートは冥界案内人になるための学校でそう教わった。だから異を唱えるつもりはない。

 人が人の痛みを理解し、それが広がっていけばいつかは暴力や殺人などの悲しい事件も起きなくなる。尤も、それは雲を掴むようなあまりにも途方もない話だが。一体いつになることやら。

 その理想が実現するまでの間に、何度悲しい事件が起きて多くの命が巻き込まれるだろう。考えるだけでも胸の辺りが重苦しくなった。

 そして「だが」と閻魔は続けた。そこでトートは意識を引き戻す。



「近年、快楽殺人だの無差別な殺人が世界各地で起こるようになっておる。怨恨でもなんでもない、ただ人を殺したかった(・・・・・・・・)などという理由でな。こういった危険な者たちの魂をお前に回収してもらいたい。手を下すかどうかは、いつものようにターゲットの背景を見て決めろ。判断はお前に任せる」

「……しかし、人間たちの争いになどわざわざ介入する必要がありますか? 動物にも縄張り争いだったり食糧やメスの争奪戦で同族を攻撃することはありますが、命を奪うことはほとんどありません。だというのに、人間はなんです? 同じヒトでありながら気に入らないだけで他者を傷付けて喜ぶ――そんな人間たちを助けてやる必要があるのか、わたくしには理解できません」

「う、ううむ……そう言われてしまうと、なんともな……」



 いつものことながら淡々と言葉を羅列するトイフェルに対し、文字通り閻魔は困ったように苦笑いを浮かべた。トイフェルは猫である、人間という生き物は未だによく理解できないのだ。

 閻魔がつい今し方見せてきたリストに纏められていた多くの名前は、そういった殺人の被害に遭った犠牲者たちなのだろう。

 厳つい顔に困惑を乗せて頭を掻く閻魔を暫し無言のまま眺めて、トートは詰めていた息をそっと吐き出した。そして肩に乗る相棒猫をポンと片手でひと撫で。



「……だが、そんな人間たちばかりではないことも知っているはずだ」



 トートがそう呟くと、トイフェルはそれ以上言葉を続けることはなかった。肩の上で腹這いに伏せ、ふさふさの尾を無言で揺らす。

 それを承諾と判断して、トートは改めて閻魔に向き直った。



「判断はこちらに任せるということだったな、それならば引き受けよう。目を付けているターゲットのリストができたら呼んでくれ」

「ああ、分かった。助かるよ。それまで休んでいなさい。今度はあの時みたいに大怪我して帰ってくるなんてやめてくれよ」

「なら、危険な魂がある時は予め教えろ」



 簡単に挨拶を交わすと、トートはトイフェルを肩に乗せたまま踵を返す。

 無駄に広い閻魔の部屋を後にしようと扉に手を掛けたところで――ふと背中に、呼び止める声が届いた。



「トート」

「どうした、まだ何か?」

「いや……ワシはお前を気に入っておるし、できれば今後も傍にいてもらいたい。だがな、お前は人間に転生したいとは思わんのか?」



 それは、あまりにも突然の問いかけだった。

 死神たちは、死神としての在り方に満足したらいつでも閻魔の力で現世に転生することができる。それまでの働きぶりによって、希望を取り入れてもらえたりと選択肢も多くなるのだ。

 死神は元々、幼くして命を落とした子供。今度こそ幸せな人生を歩みたいと必死に働き、暖かい家庭の子供として転生する者も少なくない。

 だが、トートは薄く笑うと至極当然のように返答を向けた。



「考えたこともないな、俺は死神としての在り方が一番合っている」



 その言葉に、閻魔は苦笑いを浮かべると今度こそ呼び止めることはせずにトートの背中を見送った。

 いつか、あの死神が命を刈り取らずに済む世界になってくれればいい。


 そして、その時はまた――彼が人としての人生を歩めたらいい、と。言葉には出さずとも、閻魔はそう願った。






 最後の方は少々駆け足気味になってしまいましたが、トートとトイフェルのお話はここで一旦終わりとなります。今後も彼らは人間を見守りながら、自分たちのペースで世界中を飛び回っていくのでしょう。

 彼らのお話に最後までお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました!



挿絵(By みてみん)



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